四季の風景

横浜近郊の風景や鎌倉~江の島へ時には神奈川県内のあちらこちらへ写真を撮り歩いている「たろう」のフォト日記です。

・ 横浜 馬車道まつり 2015

2015年11月06日 | 横浜

2015年11月3日 文化の日の祝日に馬車道まつりを見に出掛けた

〈 文明開化の浪漫溢れる地 馬車道 〉  馬車道まつり

馬車や人力車の試乗会、横浜と馬、在来馬とのふれあいの他

街頭撮影会などのイベントが盛り沢山にあると言う

場所は横浜市中区の吉田橋から万国橋への馬車道通りで行われる

 

街頭撮影会 : 10時30分 県立歴史博物館前に集合する

撮影会の説明の後、馬車道をテーマにしたフォトコンテストも催されると言っていた

横浜観光親善大使やJRAのマスコット・ターフィー、パンチの守が勢揃いした

 

横浜観光親善大使の3人が集まったカメラマンに笑顔を振りまいていた

大使の3人は馬車道の色んな所に顔を出すという

 

今日はとても良いお天気で、馬車道では多くの人が集まり賑わっていた

 

一番の人気は馬車試乗会~ こんな馬車に揺られてみたい

「馬車のりば」には順番を待つ行列が出来ていた

 

馬車道の両側には沢山のお店が出ていて、お客に呼びかけていた

 

沿道の観衆の見守る中を気持ち良さそうに乗っている

 

すぐ後から人力車がお客を乗せて走ってきた

ワンちゃんも同伴のようだ

 

在来馬とのふれあいイベントで、野間馬の「ミカン」と道産子の「ゆき」の周りにの子供連れが集まっていた

 

余談になりますが、 JRAによると

 日本の在来馬とは、古くから日本のそれぞれの土地で飼育されてきた日本固有の馬を言う

日本の在来馬はどれも体が丈夫で、粗食に耐え、骨や蹄が硬い為蹄鉄をはかせる必要がなく

性格も温和で賢いことが特徴です  人の乗馬用として、荷物運搬用馬車馬としてまた

農耕用の農耕馬として生活に欠かせない大切な存在でした

明冶以降、車や鉄道の普及、農業の機械化により在来馬は働く場を失うようになり

現在では人間が保護しなければ品種を残すのは難しくなってきた

一部の地域では日本古来の種が残っており、現存するものは

北海道・北海道和種、 長野県・木曽馬、 愛媛県今治市・野間馬、 長崎県・対州馬、

宮崎県串間市・御崎馬、 鹿児島県トカラ列島・トカラ馬、 沖縄県宮古島・宮古馬、

沖縄県与那国島・与那国馬 の8種とされています

そして、それぞれの地域に在来馬保存会があります 

JRA(Japan Racing Association) 日本中央競馬会

 

馬車道の中程に、日本写真の開祖 写真師・下岡蓮杖顕彰碑がある 

 幕末の1859年に横浜港が開港し、その翌年1860年に写真というものが上陸した 

 初の日本人写真師とされる下岡蓮杖(しもおか れんじょう)は、1862年に横浜に写真館を開業した 

 馬車道にはその歴史を伝える「下岡蓮杖顕彰碑」がある

 

今日は県立歴史博物館の無料開館日で更に屋上のドームも特別公開する

と聞いて見て行くことにした

貴重な歴史の数々を見聞し、屋上のドームにも入れて頂いた

 

博物館の中で、大使のお二人に出会ったので

写真を撮らせて頂いた

 

博物館を出て、振り返ってドームを見直した

ガス灯の下の馬車道の旗が揺らいでいた

『 ガス灯は、明治5年(1872年)に、高島嘉右衛門の「日本ガス社中」により、

馬車道・本町通り等に設置、点灯され、これが日本における最初の

ガス灯となりました  柱部は英国グラスゴー市から輸入し、

灯具は日本人職人により製造されたと言われます 』

 

馬車道では小学校の子供たちが演奏をしていて

多くの見物客が周りを取り囲んでいた

 

馬車道の歴史・由来を調べて見た 

『 幕末の横浜開港にともなって、関内近辺は外国人の居留地となった

 外国人達は、その関内の長さ約1kmの道を拡張する事を要請し、

 それが実現して街路樹等が整備されると道を馬車で行き交うようになった 

 当時の人々はその光景に驚き、「異人馬車」という呼び方をしてその姿を珍しがったと言う 

そして、馬車が通る道という事で、その通りを、文字通り「馬車道」と呼ぶようになったのである。

これが馬車道の名前の由来である

道路脇には、当時の交通手段であった馬や牛のための給水場として、

牛馬飲水槽が設けられていた ここで馬や牛は水を飲み、休憩を取った訳である 

 

 現在の馬車道は、ガス灯型の街路灯や昔風の電話ボックス・ベンチ、

またレンガ敷きの歩道等、レトロな雰囲気を持ち、横浜の名物通りの1つとなっている 』 

 

2015、11、3 横浜 馬車道にて