とにかく書いておかないと

すぐに忘れてしまうことを、書き残しておきます。

党首討論の改善を

2024-06-17 11:56:50 | 政治
岸田政権下で初となる党首討論が19日行われるという。党首討論は始まったころは、頻繁に行うことを原則にしていたはずなのに、最近はほとんどやっていない。なぜ今回はやることになったのか不思議だ。

かつて民主党政権時代に野田元総理と当時の自民党総裁の安倍晋三氏のふたりが党首討論を行い、野田元総理が解散を口にした。それが民主党政権の終焉につながったのだが、それの逆転版になるのではないかと変な予測も出ているようだ。もちろんそんなことはないはずだ。だとしたら、なんのために党首討論するのだろう。

おそらく今回の岸田総理の最後の党首討論になるのはあきらかであり、岸田総理の終りのセレモニーの一つなのであろう。

それにしても、二大政党制を前提としている党首討論である限り、今の国会の状況でやる意味はほとんどないのは明らかだ。立憲民主党はまだいいかもしれないが、他の野党はほとんど時間がなく、「討論」になるはずがない。きちんとした討論が行われ、それを国民が関心をもって聞くことができるような、改善を願いたい。
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6月中旬なのに真夏の暑さ

2024-06-15 07:57:55 | 社会
 「地球温暖化」という言葉は簡単に信じてはいけないと思ってきた。もちろん今でもそう思っている。自然はもっと大きなものであり、人間の環境破壊ごときでそう簡単に変わるものではないと思っているのだ。昔から地球の温度は大きな周期で上がったり、下がったりしていたはずだ。「氷河期」だってあったじゃないか。自然は人間の力をはるかに超えた力を持っていると思う。

 しかしこれだけ暑くなると、やはり「地球温暖化」は事実であり、その原因が人間にあると考えるほうが正しいように思えてきた。6月の中旬だというのに、休みなみの熱さが続いているのである。これは異常事態であり、この異常事態が何年も続いているのだ。

 人類の作り上げたものが人類を苦しめ始めている。そしてさらに怖いのはそのことに気付いているのに、冷静に考え、冷静に対応することが今の人間にはできないということである。

 マルクスは資本主義の終焉を予言したが、資本主義の終りは共産主義の誕生になるのではない。資本主義の終りは人類の終りになるのだ。
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新山形市民会館のデザイン

2024-06-12 18:35:50 | 高校国語改革
山形市民会館が建てかえられる。現在の市民会館が老朽化しているために建てかえるのだが、そのデザインがものすごい。まるでメルヘンの世界だ。当然のごとくこのデザインには賛否両論である。

話題性があり、シンボルともなるデザインだと肯定的な人もいるが、建築費の高騰が予想され、そこまでする必要があるのかという否定的な人もいる。私も後者である。

山形市の本来の中心街は七日町という、新しい山形市民会館に近い場所であった。しかし七日町は次第に賑わいが消え、特にこのコロナの時期に老舗のデパートも突然廃業し、厳しい状態になっている。起死回生のために人を呼べる施設を考えたのであろう。その気持ちはわからないではない。

しかし、この建築費の高騰の中、これだけの施設を作るということは予算オーバーが当然予測される。奇跡的に予算内に収まったとしたら、どこかに欠陥がでてくるのではないかと心配である。

外部に回廊をつくるというアイディアは、発想としてはおもしろいかもしれないが、現実にはほとんど意味がない。東京のパルコ劇場でそれを作り、劇場の終演にその回廊に誘導されるのだが、天気に左右されるし、体力的にもかなり大変だ。山形市民会館でもほとんど使う人はいないだろう。

しかも目の前が大正時代の建築である旧県庁の「文翔館」という建物があり、二つのシンボル的な建物がまったく不釣り合いである。これは立ち止まったほうがいい。

市民ホールはホールがしっかりとしていること。そしてそのホールを利用する市民が使いやすい設備、例えば練習室とかが整備されていることなど、使い勝手がよければ外観はあまり気にする必要がない。外面のために予算が削られ、内部が疎かにならないようにと要望しておきたい。
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夏目漱石の『草枕』を読む。13

2024-06-11 16:10:40 | 夏目漱石
第十三章

久一の出征の見送りに舟で街まで行く。行くのは送られる久一、送る老人、那美、那美の兄、荷物の世話をする源兵衛、そして画工である。

那美は画工に自分を描いてくれと願うが、画工は「少し足りない所がある」と言う。那美に足りなかったものは何か。「憐れ」ということは最後に明かされるが「憐れ」とはなんなのか。

那美は那古井の世界の人間であり、那古井の世界の規則に縛られていた。だから那古井の中では気違いという役割を演じなければならなかったのだ。人間社会の必然である。所属する社会の中で、自分の所属する社会の中の共同幻想の中で役割を果たさなければいけない。自分では自由だと思いながらも、実は縛られている。那美は那古井の中にいるかぎり、出戻りの気違いである。「憐れ」はない。

この舟下りの場面から加速度的に流れていく。序破急の「急」ということになろう。第十二章の別れた夫の場面が「破」と言うことになるだろうか。「草枕」全体の流れは能の構成を踏まえている。

那古井から抜け出すと、そこは「現実社会」である。

いよいよ現実世界へ引きずり出された。汽車の見える所を現実世界と云う。汽車ほど二十世紀の文明を代表するものはあるまい。何百と云う人間を同じ箱へ詰めて轟と通る。情け容赦はない。詰め込まれた人間は皆同程度の速力で、同一の停車場へとまってそうして、同様に蒸気の恩沢に浴さねばならぬ。人は汽車へ乗ると云う。余は積み込まれると云う。人は汽車で行くと云う。余は運搬されると云う。汽車ほど個性を軽蔑したものはない。文明はあらゆる限りの手段をつくして、個性を発達せしめたる後、あらゆる限りの方法によってこの個性を踏み付けようとする。一人前何坪何合かの地面を与えて、この地面のうちでは寝るとも起きるとも勝手にせよと云うのが現今の文明である。同時にこの何坪何合の周囲に鉄柵を設けて、これよりさきへは一歩も出てはならぬぞと威嚇かすのが現今の文明である。何坪何合のうちで自由を擅にしたものが、この鉄柵外にも自由を擅にしたくなるのは自然の勢である。憐むべき文明の国民は日夜にこの鉄柵に噛みついて咆哮している。

厳しい近代文明批判が繰り広げられる。近代が人間から個性を奪い去るさまを厳しく非難している。しかし、実は那古井も同じように自由を奪っていたのである。

ここでこの小説の冒頭の語りがよみがえる。

 どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。

どこへ行っても同じなのだ。那古井という閉鎖的な共同幻想から抜け出せば、那古井の閉鎖性からは自由になるかもしれない。しかしそれは一瞬にすぎない。すぐそこには「現実社会」の共同幻想が待っている。どこへ行っても同じなのだ。

現代文明は蒸気機関に目がくらんだ。パラダイムチェンジが起こった。蒸気機関をはじめとする産業革命は、貨幣経済を発展させ、資本主義が世界の意識をさらに変化させる。資本主義が世界に広まり、世界中の国々が同じ価値観になってしまった。いまや人間は蒸気機関を手にした資本主義に支配されてしまっている。画工にとっては敗北を目前にしている。その時に那美の表情に「憐れ」という人間の根源的な心を見た。それは戦いの糸口であり、画工はその糸口を手に戦いにでるしかない。
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『ハムレット』を見ました。

2024-06-08 07:26:58 | 演劇
彩の国さいたま芸術劇場開館30周年記念 彩の国シェイクスピア・シリーズ2nd Vol.1『ハムレット』を見ました。役者の熱演により、迫力のある素晴らしい舞台でした。

演出は吉田鋼太郎。キャストはハムレットが柿澤勇人、オフィーリア役に北香那。ハムレットの亡き父と、その弟のクローディアス役を吉田鋼太郎、ハムレットの母ガートルード役に高橋ひとみなどが演じます。

舞台は満足したのですが、なんど見てもハムレットはよくわからなくてしっくりきません。今回はそのことについて書きます。

ハムレットの父であるデンマーク王が急死します。王の弟クローディアスが王妃と結婚し、後継者としてデンマーク王の座に就きます。つまりハムレットの母は、ハムレットの伯父とすぐに再婚してしまうのです。そこにハムレットの父の亡霊が現れ、自分はクローディアスの毒殺されたのだとハムレットが告げます。ハムレットは復讐を誓います。

ここまでの筋はわかりやすいのですが、ここからがよくわからなくなります。ハムレットの「暴走」が始まるのです。

復讐を誓ったハムレットは狂い始めます。狂気を装っているようでもあるのですが、それにしては行き過ぎです。ハムレットは愛するオフェーリアを無下に扱います。さらには、母である王妃と会話しているところを隠れて盗み聞きしていたオフェーリアの父である宰相ポローニアスを、クローディアスと誤って刺し殺してしまうのです。かわいそうなのはオフェーリアです。愛するハムレットから冷たくののしられ、父親もハムレットに殺されてしまうのです。オフェーリアは気が狂い、溺死します。

ハムレットの行為はどう見てもやりすぎです。観客はここまでくるとハムレットと同化できなくなります。

宰相ポローニアスの息子であり、オフェーリアの兄であるレアティーズは、父と妹の仇をとろうとします。ハムレットと剣術の試合を行い、毒を塗った件でハムレットを殺そうとするのです。しかし結果として、ハムレットもレアティーズも剣の毒のために死んでしまいます。さらにはクローディアスもガードルードも死んでしまいます。

最後のシーンは味方によってはドタバタ劇のようでもあるのです。そもそこハムレットはクローディアスに対して復讐をすればそれでよかったはずです。その機会もありました。しかし、事を面倒にしてしまって、みんな死んでしまうのです。これは何を意図した作品だったのでしょう。

しかし、実はこの不思議さに最近は実ははまってきているのです。なぜこうなるのか、なぜこうする必要があるのか、それを考えるとおもしろくなってきます。その解釈をつくりあげることも、観客の創造でもあるのです。

芸術作品とは、受け手の想像力を活性化し、受け手自身があらたなものを作り上げることも含めて存在するものなのではないかという気もしてきます。「ハムレット」はそういうことを考えさせてくれる作品です。
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