世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

熊本城二之丸御門址で見た陶片

2022-11-02 07:29:07 | 旅行

県立熊本美術館は旧・熊本城内に建っている。二之丸御門址からアプローチした。二之丸御門址周辺の石垣も、熊本地震の影響で崩落している。痛々しいかぎりである。

そこを通過中、ふと下を見ると、なにやら白く光るものがある。眼を近づけると伊万里の陶片で、手に取って見ると、印判手のようである。

伊万里とか有田については、全くのド素人で良く分からないが、多分明治以降のモノと思われ、清正公の築城時のモノでないとすれば何なのか。

熊本地震による石垣の崩落で出現したものか、それとは関係なしに露出していたものか、いずれにしても不明であるが、旅の記念にと拾い上げた。旅の思い出になった話である。

dr.koimariさん&chiseiさん

上掲の陶片は何モノですか、コメント頂ければ幸甚に存じます。

<了>


宇美八幡宮

2022-10-27 08:42:09 | 旅行

宇美八幡宮(うみはちまんぐう)は、神功皇后が応神天皇を出産したといわれる地で、敏達天皇の時代(572年~586年)に創建されたと云われている。

宇美八幡宮について、Wikipediaは以下の如く記している。福岡県宇美町にある。安産の神として信仰される。祭神は、応神天皇・神功皇后・玉依姫命・住吉大神・伊弉諾尊を祀る。社伝「伝子孫書」によれば、神功皇后が三冠征伐からの帰途に応神天皇を産んだ地に、敏達天皇3年に応神天皇を祀ったのに始まる。「宇美」の地名も「産み」に由来するものである。平安時代ごろから石清水八幡宮と本末関係(なぜ宇佐八幡ではなく、京都の石清水なのか?)となった。鎌倉時代初期から安産の神として信仰されるようになった。

境内には、神功皇后が出産のときにすがりついたという「子安の木」、応神天皇の産湯に使ったと伝えられる「産湯の水」などがある。境内末社・湯方殿の前には「子安の石」と呼ばれる拳大の石が納められており、妊婦は安産を祈願してこの石を持ち帰り、出産後は別の新しい石を添えて返すという風習がある・・・以上、Wikipediaを参考に記載した。

衣掛の森

湯蓋の森

地元の出雲大社を見慣れているせいか、社殿を見ても何の感情も湧かないが、クスノ木の大木を見ると圧倒される。案内石碑に刻まれているように何々の木と命名されているようである。命名されていない大木もあるようで壮観である。

江上波夫氏の騎馬民族征服王朝説によれば、騎馬民族である扶余族が4世紀初めに対馬・壱岐を経由して九州北部を征服した。その扶余族の首長を崇神天皇に比定しておられる。その北部九州征服王朝が応神天皇の時代に畿内へ進出したとする学説である。今日、当該学説は否定されているが、当該ブロガーは限りなく愛着を持つものである。その応神天皇生誕の地である。仲哀天皇・神功皇后・二百数十年を生きたと云う武内宿祢の三角関係、限りなく疑問であり、作り話であろうが大きな謎を秘めている。

同じ九州・豊前の宇佐八幡宮。祭神は応神天皇・宗像三女神・神功皇后である。この宇美八幡宮と宇佐八幡宮は、どのような関係にあるのだろうか。

浅学菲才の当該ブロガーに三角関係も含め、その謎解きはできそうにないが、一度は挑戦してみたいものである。

<了>


高良大社

2022-10-26 09:50:51 | 旅行

高良大社(こうらたいしゃ)は、福岡県久留米市の高良山にある。筑後国一宮で式内社。古くは高良玉垂命神社(こうらたまたれのみことじんじゃ)、高良玉垂宮(こうらたまたれのみや)などとも呼ばれた。

境内からの眺めが素晴らしい。当地の地理に疎いので眼下の平野を筑後平野とも呼ぶのであろうか。遠くは筑紫野・鳥栖方面まで見渡せる。古代に筑紫君磐井が、この眺望を利用しなかった筈はない。唐・新羅連合軍に敗れた日本は、山城を当地に築いた。納得である。

正殿には高良玉垂命を祀り、御客座には豊比咩大神(とよひめおおかみ)が合祀されている。高良玉垂命とは夫婦との説もある。仁徳天皇55年または78年鎮座、履中天皇元年創建と伝えられる。

『延喜式神名帳』には「筑後国三井郡 高良玉垂命神社」と記載されて名神大社に列しているほか、筑後国一宮とされた。また、祭神の高良玉垂命は国内最古の神名帳とされる『筑後国神名帳』によると、朝廷から正一位を授けられたとされる。

高良山にはもともと高木神(=高御産巣日神、高牟礼神)が鎮座しており、高牟礼山(たかむれやま)と呼ばれていたが、高良玉垂命が一夜の宿として山を借りたいと申し出て、高木神が譲ったところ、玉垂命は結界を張って鎮座したとの伝説がある。山の名前についてはいつしか高牟礼から音が転じ、良字の二字をあてて「高良」山と呼ばれるようになったという説もある。

それにしても高良玉垂命の正体が不明である。この謎は、現時点でも解明されていないようだが、後日ド素人の見解を掲載する予定である。

<了>


山口・北九州の古代関連施設を巡る

2022-05-15 05:38:10 | 旅行

Covid-19のせいでフラストレーションが溜まっている。タイ王国は渡航条件を緩和したようだが、最近の急激な円安で行くに行けない状態である。

過日、王塚古墳と竹原古墳の装飾壁画が見たく、北九州へ行ってみることにした。合わせて途中の山口の古代関連施設も巡った。ここでは行先を紹介し、個々の内容については後日紹介したい。先ず行先は下のGoogle Earthにプロットしておいた。

〇山口大学埋蔵文化財調査室 入館料:無料

鉸具(かこ)とは帯金具の一つである。いわゆる騎馬民族の腰ベルトの金具の一つ。山口大学構内の遺跡から出土したもの。

〇山口県立山口博物館 入館料:無料

このようなほぼ完全な姿の、縄文時代の磨製石器製石刀は初めてみた。

〇下関市立考古博物館

縄文土偶のごとき弥生期の土人形。顔の刺青は渦巻きか、太陽を示すのか?

〇忌宮神社

仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、武内宿禰については、別途記事を紹介したい。

〇王塚装飾古墳館

王塚古墳の装飾壁画は、期間限定の公開で通常は目にすることができない。装飾古墳館には原寸大で、それが復元展示されている。”これを見たかった”。写真は、前室から後室を見た1コマである。

〇飯塚市歴史資料館

写真は、立岩遺跡出土の甕棺群の一部である。あまりの量の多さに圧倒された。

〇竹原古墳

ガイドのオジサンに確認すると、内緒で写真を撮っても良いとのこと。当該ブログでばらしてしまった。よって、その写真を掲載する訳にいかないので、複写図を掲げておく。この壁画解釈は百家争鳴である。別途、その解釈論に陰ながら参加したい。

〇宮若トレッジ

竹原古墳の原寸大復元石室が復元され、壁画を身近に見ることができる。それらはいずれ紹介するとして、古墳に埋納されていた馬具類が展示されていた。騎馬民族は遣って来た。

〇福津市歴史資料館

写真の蛇行状鉄器は、東のさきたま古墳群からも出土しているが、福津市の手光古墳群からも出土しているとのこと。完全な姿で出土しており、まさかココで見れるとは。

〇海のみちむなかた館

飾履は牟田中浦古墳群から出土とのこと。腐っても鯛とは、失礼な表現であるが、古墳時代でも北部九州は先進地であった証であろう。

〇宗像大社

〇豆子郎本店

帰途、山口の豆子郎本店へ。外郎屋さんである。日本庭園が立派で秋の紅葉も見ものと思われる。

・・・と云うことで、今回は満足な旅であった。後日詳細を紹介する予定である。

<了>