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世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

『琉球は夢にて候』・その1

2017-10-29 08:07:01 | 石見国

『琉球は夢にて候』とは岩井三四ニ氏の小説である。過日、大宰府の九州国立博物館で「タイ~仏の国の輝き~」展を観た。驚いたことに亀井玆矩(これのり)の朱印状を見ることになった。亀井玆矩の嫡子・政矩は家督相続後、石州・津和野へ四万三千石に加増転封され初代藩主となっている。縁あって津和野二代藩主・玆政の嫡子・玆朝の感状が、我が家に伝わっている。写真がそれであるが、それもあって亀井玆矩について調べてみることにした。種々調べていると、岩井三四ニ氏の小説に『琉球は夢にて候』があることが分かった。早速読んでみた。読むと玆矩はよく言えば気宇壮大、表現を変えれば野望の持ち主であったようだ。

新十郎(玆矩)は尼子の家臣・湯永綱の長男として弘治三年(1557年)生を受けた。尼子は毛利に滅ぼされ、家臣一同苦難の道を歩むことになる。山中鹿之助の呼びかけに応じ、秀吉との連絡役を務めたあと、その元で働くことになり、それなりの禄をはむことになった。秀吉の天下になったとき、琉球を切り取りたいと願いで、琉球守を名乗ることになったが、薩摩に先をこされ結局夢に終わった。しかし、海外飛躍の夢は捨てていなかったようである。関が原では東軍に与し、戦後三万八千石に加増され、因幡・鹿野藩初代藩主となっている。(亀井玆矩像:津和野・永明寺蔵 出典:ウィキペディア)

(写真はウィキペディアに掲載されている、鹿野城址である。本丸は存在しないようだ)

茲矩は後述する朱印船貿易を行っていたため、天守以下の櫓や門に仏教に由来する名称を付けていたと言われる。さらに自らの居城(鹿野城)を王舎城(おうしゃじょう)、城下町を鹿野苑(ろくやおん)、城の背後にそびえる山を鷲峰山(じゅぶせん)、城下を流れる川を抜堤川(ばったいがわ)と名付けている。

玆矩は家康に願い出、慶長十二年に朱印状を得ている。玆矩に下された朱印状は目にしていないが、下に示すような朱印状であったと思われる。

その下の写真は、『タイ~仏の国の輝き~』展・展示の一つ「亀井玆矩書状」である。大泥(パタニー)国王に宛てた書状である。パタニーはタイ南部にあった国で、14世紀に成立後、海上交易で栄え、日本からも朱印船が渡航していた。パタニーで日本人が不義を働いたため、パタニーと日本の通行が途絶えたが、シャム(アユタヤ)国王のとりなしによって、このたび商船を派遣したという内容である。

玆矩は慶長十四年八月二十五日に、鍛冶屋弥右衛門を責任者として、シャムに朱印船を派遣しているが、その渡航時にパタニーでトラブルが発生したであろうと云われている。日本からは刀、脇差に金銀の細工物、京染の小袖、蒔絵などを輸出し、シャム(アユタヤ)からは綸子、羅紗、緞子、豹や虎皮、麝香、龍脳、伽羅、沈香、蘇木などを輸入したという。堺の商人ごとき商いを行い、それなりの収益を得たようである。下の写真は長崎に復元されている、長崎奉行所のひとコマで幕府に献上する品々で、象牙も含まれている。玆矩はこれらの品々を輸入していたであろう。

パタニーと云えばタイ領では深南部。1時間も要せずマレーシア領に至る。マレーシアは錫の大産地であった。この錫を鉄砲玉の材料として輸入したのではないか・・・と、個人的に考えている。

その用船は、『琉球は夢にて候』では、長崎で唐船でもなく和船でもなく、イスパニアの船を模した、六十万斤(約250トン)積の大船を建造した・・・となっているが、史実としては建造に至らなかったという。唐船かシャム(暹羅)船をチャーターしたであろうか?

平戸藩や大藩が朱印船貿易をしたが、亀井のような小藩が行ったのは、他に事例はないであろう。それほど玆矩は野望を持っていたと思われる。

 

                                <続く>

 


日本棚田百選:浜田・室谷棚田

2017-10-09 07:17:38 | 石見国

昨日、所用にて県西部に出掛けた。帰途、気になっていた室谷棚田を見たく寄り道をした。国道9号から4.5km山側に入った処で、大麻山南斜面の中腹辺りにそれはあった。室谷集落までは写真の道で車で行くのに何の支障もないが、集落を過ぎて約1.5kmの道は車1台通過するのがやっと。

この棚田は江戸時代からのもので、砂鉄採取のための鉄穴流し(かんなながし)をした窪地を棚田にしたとのことである。当日は写真のように、すでに稲刈りは終了していた。その棚田もさることながら眺望が抜群であった。遠方の富士山形の山は、石州と長州境の長州側である須佐・高山で、手前の煙突は中国電力三隅火力発電所である。昨日は霞んでいたが、雨上がりの日はクッキリと見えると云う。夜は日本海の漁火が見えるであろう。

 


石見銀山展・#2

2017-07-28 07:20:08 | 石見国

今回は石見銀山資料館が会場の展示物について紹介する。会場は徳川幕府直轄の代官所跡である。

 

展示内容は、

〇第5章 鉱山王国

〇第6章 外国船の来航

〇第7章 和洋混交

〇第8章 徳川の平和ー大江戸博覧会ー

で構成されている。

第5章は、石見銀山の銀鉱石や絵巻、測量器具の展示で、その測量精度は現代のそれに引けを取らないと云う。

第6章の展示は、そのほとんどが平戸・松浦史料博物館の蔵品展示である。今回の展示には出品されていなかったが、下の暹羅船図が名高い。

下の帆船模型も今回の展示には無いが、松浦資料博物館に展示されている交易船模型である。1550年、平戸に初めてポルトガル船が入港した。合わせてザビエルが上陸したのである。

オランダ船の来航とともに、下のデルフト焼きももたらされた。これと同じものが今回展示されているが、これは松浦史料博物館で撮影したものである。

デルフト陶器の画題は受胎告知で、天使ガブリエル(左)が聖母マリア(右)にイエスを身ごもることを告げる場面が描かれている。このような文物が銀の交易と共に将来されたのである。

第7章は、西洋から伝来した測量具の和製や、望遠鏡の和製、更には解体新書の展示。新井白石は銀の輸出が過度であると批判している。・・・この指摘はするどく、日本の富が年ごとに失われることになった。

第8章は、モノつくりの原点は江戸にあるとしてエレキテル、望遠鏡、顕微鏡、空気砲、和時計などが展示されていた。

当該会場の直近に豪商・熊谷家住宅がある。外面だけでもよいので、当該展覧会のあとに寄ってみられることをお薦めする。

 

                             <了>

 

 


石見銀山展・#1

2017-07-27 06:13:54 | 石見国

開催期間7月14日ー9月3日で、世界遺産登録10周年を記念して<石見銀山展>が開催されている。会場は2箇所で、県立古代出雲歴史博物館と石見銀山資料館である。

先ず県立古代出雲歴史博物館の展示から紹介する。当該博物館の展示は、以下の内容で構成されていた。

〇第1章 銀が世界を丸くした

〇第2章 富の山 セロ・リコ ー世界遺産 ポトシ銀山ー

〇第3章 銀の山ー世界遺産 石見銀山ー

〇第4章 シルバーラッシュと桃山ルネサンス

 第1章は、古代オリエントのリュトン等の銀製品やコイン、元寇、中世の交易ルートや交易船、博多遺跡の出土品展示であった。下の帆船模型は時代的には、約半世紀下った17世紀のガレオン船で、当該ブロガーが組み立てたものである。会場では、堺市博物館の南蛮船模型が展示されていた。 

 

『元宝』と記された銀錠が展示されていた。元寇のころの貨幣である。見ると鋳造が悪いのか、”あばた”で埋め尽くされている。下は、当該ブロガーのコレクションであるが、ターペー通りの骨董店で入手したものである。主人もランナーの銀錠か、中国のものか不詳とのこと。洋の東西に関わらず、銀は主要な貨幣として尊重された。

 

(手前左右の サドル形コインは、中世・ランナー朝で使用された銀コインである)

第2章はポトシ銀山に関する展示で、銀製のアルマジロ形銀器が目についた。第3章は、石見銀山争奪の歴史を示す書画中心の展示と各種丁銀の展示であった。噺は変わるが当該『石見銀山展』の入館券は、その丁銀をかたどったものであった。

第4章は銀と南蛮交易についての展示で、九州国立博物館でも展示されていた亀井玆矩の朱印状が展示されている。

 

現タイ王国の深南部(マレー半島でマレーシアとの国境付近)・パタニ国王に宛てた朱印状で、玆矩の花押をみることができる。

長崎清水寺に奉納された絵馬の下絵といわれている。船体の形状は日本前と呼ばれる中洋折衷式の船体で末次船と呼ぶらしい。亀井玆矩は自前の船を持たなかったと云われており、これらの船をチャーターしたものと思われる。

出雲大社参拝の折に、是非立ち寄られることをお薦めすると共に、石見銀山資料館にも立ち寄って欲しいものである。

                                <続く>

 


時宗・清瀧山萬福寺石庭と益田氏

2017-06-18 07:58:52 | 石見国
昨6月17日、県西部益田に所用があり、帰りに萬福寺に寄ってみた。枯山水の石庭を見るためである。縁起によると、建立は平安時代であるが、1026年津波で流出し、本格的に再建されたのは、応安7年(1374)益田七尾城主11代・益田越中守兼見により、以降益田氏の菩提寺となる。その後文明11年(1479)、15代・益田越中守兼尭が雪舟を招き、石庭を築いたという。
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総門は、慶応2年(1866)第二次長州征伐・益田の戦いの際、焼失し後年再建されたものである。
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本堂は、先述の通り応安7年に益田兼見により建立された鎌倉様式のもので、重要文化財に指定されている。
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本堂は重文とは云うものの、やはり雪舟禅師による枯山水の石庭が名高い。銅像造像の経緯は知らないが、半身像が存在する。
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その枯山水の石庭であるが、須弥山世界(仏教の世界観)を象徴した石庭であると、パンフレットで紹介されている。
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奥の矢印で示したのが須弥山石で、下に拡大写真を掲げておく。
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日本での須弥山については、『日本書紀』推古天皇二十年(612年)の項が、須弥山の初出だと云われている。それには・・・是の歳、百済国より化来る者有り、・・・略・・・仍りて須弥山の形及び呉橋を南庭に構らしむ・・・と記載されており、更に斉明天皇五年(659年)に・・・吐火羅の人、妻舎衛婦人と共に来けり。甲午、甘樫丘の東の川上に須弥山を造りて、陸奥と越との蝦夷に饗たまふ・・・と、この一文は我が国最初の庭園が、仏教的世界観を象徴したものであったと述べている。
後世、須弥山式とか九山八海(くさんはっかい)とか呼ばれる築庭様式がある。須弥山石を中心に内側の持双山から最外辺の鉄囲山(てっちせん)までの八山(須弥山を含めて九山)と、間の八海を石と苔で表現する様式である。写真は島根県益田市万福寺の伝雪舟庭園で、前述の須弥山式で作庭されている。中央最も高い位置にあるのが須弥山石である。

噺は飛ぶ。中世の地方豪族益田氏といっても、全国的には知名度は低い。益田氏が全国的に名が知れるのは、明治維新の先駆けである禁門の変で長州の総指揮をとった益田親施(ちかのぶ)である。親施は長州藩永代家老・益田元宣の三男として1802年に生にまれた。
禁門の変で総大将となり、山崎・天王山に布陣したが薩摩、会津に敗れ、敗軍の将として元治元年(1864年)11月11日自刃した。幕末の激動時期、西郷や木戸が喧伝されるが、その初期段階に躍動した一人である。