世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

石見国益田氏遺跡で考えたこと(1)

2019-02-13 08:34:55 | 石見国

約10年前の話で恐縮である。2009年12月6日午前10時より、島根県西部・益田市三宅町の御土居遺跡発掘現場で市教育委員会の説明会が開催されたので行ってみた。

益田氏といえば、禁門の変で長州軍を指揮したのは、国家老であった益田右衛門介兼施(かねのぶ)(別名:親施)で、第一次長州征伐の際、その責任を負わされ国司信濃、福原越後の両家老とともに切腹を命じられたことを思い出す。その始祖は、12世紀初頭(永久2年:1114年)石見国に赴任した藤原忠平の9世の子孫、藤原国兼と伝えられている。任期が終了した1118年以降も石見に留まり、土着豪族化した。当初は石見国上府に居を構えたが、4代兼高の代に居館を益田に移し(建久9年:1192年)、以降益田氏を名乗った。南北朝では北朝方についた。観応の擾乱が起こると大内氏とともに中国探題であった足利直義方についたが、劣勢となると大内氏とともに尊氏方に寝返った。

その後、毛利氏と対抗した時があったが、早い段階で毛利氏の配下に入り、関ヶ原戦役(慶長5年:1600年)後、防長2ヶ国に減封された毛利氏に従い長門国須佐に移り、1万2千石を領した。それは20代元祥(もとなが)の時であった。

その益田氏の居館跡を三宅御土居と呼び、南北朝(1336-1392年)から安土桃山時代(16世紀末)にかけて本拠とした平地居館である。今回は、そこの第2次発掘調査の説明会であった。それは現在の益田川の右岸で、そこから数10m入った位置にあり、益田川を介して日本海とは2km程の距離にある。図はその復元予想図で、益田川から水を引き濠を巡らし、その内側には土塁を築いている。当時の豪族の居館に比較し、その規模とか構造について論じる知識をもたないので、この話はここまでである。

 

<続く>

 


逃げた慶喜兄弟・その3

2018-07-24 08:57:47 | 石見国

<続き>

村田蔵六は慶応二年七月十六日黎明をもって、雲雀山の浜田・松江・福山藩兵に対し攻撃を開始すると、紀州の大将・安藤飛騨守が大麻山の陥落を聞いて、単身船で浜田城へ逃げ込んだという。紀州陣地には長州軍の砲撃と、歩兵の突撃で崩れ、結局石見銀山まで退却した。雲雀山で潰走した三藩の兵は、周布川を防衛線として長州軍に対した。蔵六は無理をせず、周布川の西岸の高地に砲をひきあげ、砲撃するだけに留め、浜田藩に停戦しようとの一文を送付した。結局浜田藩は休戦やむなしとの結論に至り、翌十七日周布村の庄屋で止戦の談判となった。そこで蔵六が求めたのは、『浜田城下の諸藩の兵を来たる二十日までに退散させよ』と云うだけであった。翌十八日正午過ぎ、浜田城の方向から砲声がとどろき、火柱が上がり煙になった。浜田藩自ら城に火を放ち、藩主・松平武聡夫妻を雲州・松江藩さしまわしの汽船にのせ城から逃亡させた

これが石州戦争の結末である。その1年半後、兄・慶喜は鳥羽伏見の戦いで敗れ、慶応四年一月六日に京都守護、所司代、老中とともに大阪城を抜け出し、天保山沖の開陽丸で江戸に逃げ戻ったのである。兄弟ともに逃げるが勝ちとの認識であったであろう。

<了>

 


逃げた慶喜兄弟・その2

2018-07-23 08:50:10 | 石見国

<続き>

兵力については諸説あるが、ここでは『花神』記述の兵力をそのまま記載する。

浜田城下、紀州二千の兵力、備後福山千六百、更なる後方には出雲・松江藩兵、因幡・鳥取藩兵が控えているが、この両藩に戦意はない。それに対し浜田藩は四~五百の兵を出すのがやっとであった。

浜田城下の攻防の前段として、浜田藩が大麻山に、福山藩はそのふもと雲雀山に陣を張った。更に松江藩兵もこの付近に布陣した。紀州は周布の鳶巣山に陣どり、総計五千にちかい。これに対し、益田付近にいる村田蔵六(大村益次郎)の兵力は七百であった。蔵六は『大麻山をおとせば、敵陣はくずれる』とみた。名主の屋敷に大砲を据え、そして攻略部隊を三つに分けた。敵陣は大麻山尊勝寺である。慶応二年七月十五日・夜明けに、砲撃と射撃を命じるとともに、長州兵が突撃した。大麻山は無血占領であった。尊勝寺の雲散霧消したのである。その後大麻山頂から見渡すと、足元の周布川周辺に紀州兵二千が布陣していた。浜田藩兵は潰乱したあと、福山・松江両藩のこもる雲雀山と、その付近の陣に逃げ込んで、陣容をたてなおしつつあった。

<続く>

 


逃げた慶喜兄弟・その1

2018-07-22 10:14:20 | 石見国

『逃げた慶喜兄弟』とは聞こえが良くないが、時代の趨勢としては致し方なかろう。チェンマイでの滞在中、司馬遼太郎氏の『花神』を数十年振りに読んでいる。その『中巻』に石州戦争のくだりがある。

十五代将軍・徳川慶喜は、水戸・斉昭と正室との間の七男、浜田藩主・松平武聡(たけあきら)は斉昭と側室の間の十男で、慶喜と武聡は兄弟となる。

『西郷どん』では、幕長戦争の石州口の戦いは、どのように活写されるのか知らないが、武聡は兄の慶喜同様に戦場から、さっさと逃げたのである・・・斉昭の血筋は無理難題から逃げようとするのか?

石州口の戦いは、慶応二年(1866)六月十六日に浜田藩領益田で開戦し、幕府方の浜田、福山藩兵の幕府軍は敗れた。その後長州軍は浜田城にせまる。

(CG復元浜田城)

<続く>


『琉球は夢にて候』・その2

2017-10-30 07:10:26 | 石見国

<続き>

亀井玆矩が慶長十四年(1610年)、シャム(アユタヤ)国王のとりなしによりパタニー王国に朱印船を派遣した当時は、シャム(アユタヤ)とパタニーの間には不穏な空気が流れていた。この頃、パタニー王国は女王が続き、1584年から1649年迄の4女王の時期に黄金期を迎えた。4女王は、同じイスラム王国であるバハン王国やジョホール王国に援軍を求めシャム(アユタヤ)王国と反目している。特にラジャ・ウング女王(1624-1635年)の反目の時に、パタニー軍と交戦したのがアユタヤから派遣された山田長政であった。そのような時に亀井玆矩は朱印船を派遣したことになる。歴史は面白い、その頃からタイと山陰を結ぶ接点があったのである。

今日のパタニーはタイ深南部3県(パタニー、ヤラー、ナラティワート)の一つで、会話はタイ語というよりマレー語主体である。パタニーは半島に囲まれ、まさに天然の良港である。中世これほどのロケーションは多くなく、重宝されて繁栄したのであろう。

(出典:グーグルアース 奥にパタニー湾を囲む半島を見る)

朱印船貿易の頃は、イスラム王国であったことは先に触れた。今日、400年前のイスラム・モスクが現役で使われている。クルッセ・モスクと呼び、林道乾が1578年に建てたものである。

(クルッセ・モスク 出典:グーグルアース)

林道乾はパタニーの女性と結婚し、イスラム教に改宗して永住した明代の中国人である。そのクルッセ・モスクは写真のように廃墟のようにも見えるが、現役である。今日の礼拝の中心は、写真のクラーン・モスクで、タイ南部で最も美しいと云われている。

(クラーン・モスク 出典:グーグルアース)

次はパタニー王国の旧宮殿と壁にタイ字で記されている(グーグルアースより)。中に建物が残るのかどうか、訪れていないので、様子はわからないが、当時の様子を留めるものは多くはないようである。

玆矩や初代藩主・政矩当時の建造物は、今日の津和野に多くは残されていない。写真は多胡家老家の表門であるが、思いつくのはこの程度しか残存していないと思われる。

今日の津和野は斜陽である。町役場の面々が玆矩ほどの意欲をもっておれば、タイとの朱印船貿易は、一つの町おこしの材料として活用するであろう。渡航したシャム、今日のタイの経済発展は目覚ましい。タイからの訪日観光客は2017年で130万人と予測されている。このうち島根県を訪れるのは0.1%以下と云われている。

チェンマイは銀細工で著名である。旧ランナー王国の地・シャン州ボードウィンに大きな銀鉱山が存在する歴史的背景に依るものだが、石見国には世界遺産の銀山が存在する。津和野とパタニー、石見銀山とチェンマイを広域で結ぶ連携で、タイ人観光客を呼び込めないのか?役所の役人よ、知恵を働かせて欲しい。

                          <了>