世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

チェンマイ山岳民族博物館

2018-10-31 08:11:07 | 東南アジア少数民族

当該ブロガーが関心を持つ写真のみの掲載で恐縮である。

<カレン族>

<アカ族>

女性の足元には竹細工の容器が並び、男性はボーガンを持っている。このボーガンは日本の弥生遺跡から出土している。

<ラフ族>

<リス族>

山岳民族の銀製装飾物には必ず魚の肖形が存在する。やはり漢族の考え方の影響を受けているのであろう。

リス族女性は青色の衣装を身に着ける。なにかの伝統であろう。

戦前の日本と何ら変わらない。

<ルア族>

ルワ族とも云い、中国では佤族(わぞく)と呼ぶ。当該ブロガーの友人は佤族=倭族と主張してやまない。

<了>

 


チェンマイ山岳民族フェス

2018-10-30 08:24:06 | 東南アジア少数民族

今となっては少し古い話で恐縮である。去る8月15日、チェンマイ・ランナー・ゴルフコース近くの山岳民族博物館でフェスがあるとのことで初日に出掛けてみた。

山岳民族博物館はランナー・ゴルフや競馬場近くの池の出島に建てられている。

白丸の位置が山岳民族博物館である。そこは出島のようになっており、そこに至る道の両側に山岳民族のブースが並んでいた。それらの幾つかを紹介する。

写真はルア族の腰機(こしはた)。今日でも多くの山岳民族は、日本の弥生期の腰機と同じような機で織物を織っている。

モン(Hmong)族のろうけつ染め、下絵に沿って臘を溶かした専用道具を使って、臘をなぞっているところ。

出来上がりの即売ブース。

リス族女性が刺繍しているところ。

カレン族女性の腰機。

やはりフェスのようだ。舞台はモン(Hmong)男性の面々。

トウモロコシが刺してあるが、収穫に感謝する意味合いであろうか?・・・素人には良く分からない。

以下、2葉の写真はパラワン族の腰機。同じ腰機でも民族により、少しづつ異なるようだ。

次回は山岳民族博物館の展示の一部を紹介したい。

<了>

 


瑶(ヤオ)族のことども

2018-10-09 06:57:06 | 東南アジア少数民族

古い話である。2013年5月9日、ハノイ民族学博物館を訪れた。写真はヤオ族の展示だったと記憶している。中央の三つに並ぶ肖像はベトナム道教の三聖母である。ここで話題にしたいのは、その像の上左右の蛇をモチーフにした、布製の人形と云うか肖形物である。
話は飛ぶが、ベトナムは中国の圧政に苦しめられ、有史以来今日まで中国との戦いであった。しかし文化的には抗しきれず、そこかしこに中華文化の影響をみせている。李、陳、黎朝皇帝の権威は五爪の龍や鳳凰で表され、皇帝廟のみならず、文廟や玉山祠などの装飾に多用されている。
ところがヤオ族の蛇である。話は紀元前後に飛んで恐縮である。雲南の李家山、石寨山遺跡から出土した青銅器には、さまざまな動物が彫像されているが、その彫像の下には、必ず蛇が造形されている。その蛇の多くは二匹の蛇が注連縄のようにからまり、交尾している姿である。そして龍はめったに登場しない。それは填王国が漢民族とは、異なる世界観を持った少数民族によって建国された、王国であったからである。
ヤオ族は民族の創成神話に関連して、その中心的トーテムに狗、蛇などがあると云う。その蛇が掲げられいるのが、上の写真である。ベトナムの中心的民族ベト(キン・京)族を除く少数民族、ラオスに居住する民族、北タイや雲南に居住する少数民族は龍ではなく蛇、あるいはナーガであった。
そのようなことで、写真の展示を見て、何か面白くも感慨深いものがあった

道教の三聖母に話を戻す。向かって左が緑の山林神、中央が赤の天神、右が白の水神とのことで、ベト族もこの三聖母に所願成就を託すという。ヤオ族や少数民族のものと思っていたが、ベト族の文化にも大きくかかわっていたことになる。

ついでと云えば何だが、ヤオ族は東南アジアの少数民族の中で、漢族の影響を最も受けた民族で、先の道教もそうであるが、風水も伝わっている。

 ハノイ女性博物館へ行ってみた印象である。ガイドブックには、少数民族やベトナム戦争時の展示が見られると、記載されている。行ってみると、民族や民俗に関する展示もあり、興味をひいている。
興味ある展示は幾つかあったが、ここでは瑶(ヤオ)族の風水書なるものを紹介したい。ひろげられた写真の風水書には、火木之相、土金之相とある。瑶(ヤオ)族はこれらに則り、吉凶を判断し災いを避けて1年をすごしたのである。このように風水は漢族のみならず、それに接する少数民族にも影響を及ぼしたことが分かる。
大西和彦氏は1992年よりハノイに在住しておられる宗教史、民間信仰史の研究家であるが、氏によるとソンラー省(黒タイ族居住地)の墓は風水でいう吉相の地、つまり三方を山に囲まれ、南は開け湖沼の地に面するように設けられているという。・・・これ以上の話が聞けていないので、この墓が黒タイのものか、ベトナムの主要民族であるベト(キン・金)族のものか、それとも瑶(ヤオ)族のものかはっきりしない。

タイではタイ人は墓を持たないと云われ、事実そうであるが、ソンラー省の黒タイ族が、もし墓を持つとすれば、いつの時代まで遡れるか、おおいなる興味が湧いている。
結論のない話であったが、ベト族や瑶(ヤオ)族は道教を信仰し、災禍をさけるため風水を用いている。漢族に接するがための影響と考えている。尚、チェンマイ近郊にもヤオ族は居住する。ヤオ族の手になる道教神像は、街の額縁屋で見た覚えがある。

 

<了>

 

 


タイ・クーン族は太陽信仰の民であった

2018-08-16 07:41:53 | 東南アジア少数民族

海外の日本語情報誌はホノルル、中国、東南アジア以外は知らないが、チェンマイで発刊されているCHAOは、それらの中で出色の出来栄えである。内容豊富でなによりも地元にそくした記事に溢れている。過日CHAO368号に、タイ・クーン族の伝統的住居と家屋の精霊テワダー・ファンを祀る祭壇や、その信仰について寄稿されていた。寄稿者は2018年修士課程を修了したM女史である。以下、文字の羅列で申し訳ない。

先ず読後に感じたことから記したい。タイ・クーン族は稲作と太陽信仰の民であり、日昇の方角である東を重視する民族で、古代に倭族と何らかの接触があったろうと考えた。

M女史は建築学の徒とのことだが、建物の構造から始まって家屋の霊や土地霊など、詳細な調査に基いて『精霊と暮らす家』(副題・『トンヘーンノーイ村の住居と精霊』)と題して記述されている。トンヘーンノーイ村はチェンマイの南30kmに位置し、すぐ近くにハリプンチャイ王国(8-13世紀)時代の環濠都市・ウィアンターカン遺跡が存在する。

M女史の寄稿文の概要を紹介する。タイ・クーン族の伝統的住居は・・・、

①  木造高床式である

②  屋根が入母屋造り

③  広間ー寝室ー台所の順に並ぶ間取り

・・・となっており、家屋の精霊であるテーワダー・ファンは、世帯主の寝室に宿ると綴られている。その寝室は建屋の東側に位置し、そこには特定の2つの柱がある。それは『サオ・パヤー(男の柱)』、『サオ・ナーン(女の柱)』と呼ばれ、家屋の建築時、他の柱に先んじて建てる柱だという。なにやら大黒柱のようである。そのうち『サオ・パヤー』は寝室の東側に建てられ、その柱にテワダー・ファン、つまり家の精霊を祀る祭壇が設えられている。祭壇といっても男の柱に、板を横たえるだけのものである。タイ・クーン族は頭を東に向けて寝る習慣があるという。東は日昇の方角である。先述のようにテワダー・ファンの祭壇も東に位置する。人々は就寝前に枕側の祭壇に向かって祈り、祭壇に頭を向けて眠ることになる。このように方角として東が、重視・神聖視されていることが分かる。

母屋の東側の敷地には、土地の精霊を祀るチャオティー(土地神と呼ぶのがふさわしいか?)の祠(タイ族はサンプラプームと呼ぶ)がある。また室内の広間には仏を祀る祭壇(ヒンプラ)もあるという。信仰心の篤い民でもあるのだ。

タイ・クーン族は、ミャンマー・シャン州チェントンの多数派で、シャン族の5つの主要集団のひとつである。M女史によると、トンヘンノーイ村のタイ・クーン族は、チェントンが故地で、200年以上前に北タイに越境し、その一集団がトンヘンノーイ村に定住したとのことである。

シャン族もタイ族もタイ・クーン族と同じように稲作民で太陽信仰の民であった。話は飛ぶが、劉邦が漢帝国を興国する前の中国は、春秋戦国・秦の時代である。その楚国の人々が話す楚語は、タイ語系の言葉であったという説がある。合わせて彼らは鯨面文身しており、倭人の習俗と似かよっていた。今般CHAO368号を読んで、日本人の祖先は朝鮮半島の北から渡来した北辰信仰の民もいたであろうが、揚子江流域や西南海から稲作を携えて渡海して来たであろうと考える。さすれば、タイ・クーン族も古代に、倭族と何らかの関りがあったであろうと、考えた次第である。

<了>

 


ミナンカバウの伝統住居:ルマ・ガダンを見て

2018-01-10 08:11:00 | 東南アジア少数民族

ミナンカバウ族はスマトラ東岸シアクを経て、マラッカ王国時代の15世紀に、マレー半島への移住を開始した。彼らは幾つかの小国家を形成し、母系社会を保持した。ミナンカバウ族の本国とは、西スマトラの高地に住んでいる民族集団である。母系社会で財産や土地は、母から娘に相続される。その一方で宗教的儀式や政治の中心を担うのは、男性が中心である。イスラム教徒でもあり、アダットと呼ばれるアニミズムに起源を持つ習慣を大切にしていると云う。また、夫による『通い婚』が現在でも残っている。通い婚と云えば南の匂いである。

ルマ・ガダンとは、ミナンカバウ族の伝統的住居で『大きな家』を意味すると云う。その屋根が特徴的で、左右が反りあがっている。これは水牛の角をモチーフにしていると一般的に云われているが、当該ブロガーには舟の曲線そのもので、舟形屋根と云っても間違いなかろうと思われる。ミナンカバウ族は海洋民族ではなく、山の民かと思われるが、何やら南海の海洋民族と繋がっていると思えなくもない。

下の写真は、Seremban(スレンバン)州立博物館の屋外に展示されている伝統家屋(ルマ・ガダン)である。水牛の角はともかく舟形屋根に見える。

噺は飛ぶ、ドンソン文化の特徴である銅鼓には、手漕ぎ船に乗船し鳥の羽を頭に飾る人々が描かれている。鳥も描かれている。これは古代の南海の特徴であろう。海洋民は鳥の先導をうけ、手漕ぎ船で海を渡ったのである。そのモチーフはドンソンの銅鼓のみならず、日本でも目にすることができる。

鳥取県米子市の稲吉角田遺跡から、弥生中期の線刻絵画土器が出土した。そこには鳥の羽を頭に飾り、それら複数の人が櫂を漕ぐ船が刻まれている。まさにドンソン銅鼓と同じモチーフである。

時代はやや下るが、筑後川左岸の珍敷塚古墳には彩色壁画が残っている。壁画の主文様は3個の巨大な靫(ゆぎ)であるが、壁画の左手には同心円文(日輪と思われる)と櫂を漕ぐ人物、帆柱を立てたゴンドラ風の船が描かれ舳先には鳥が止まっている。この壁画の解釈であるが、定説かどうか別にして、一般的に喧伝されているのは記紀から引用した、死者の魂を鳥が霊界に送る『天の鳥舟』が登場し、その天の鳥舟を表している・・・としている。この見方を否定する訳ではないが、やや否定的な見解を持つ。

(出典:うきは市観光体験HP)

鳥の習性は海原にあって陸地をめがけて飛び立つ。古代の航海においては不可欠の存在である。珍敷塚古墳の被葬者は、南海かどうかは別にして海原を越えて来た人々ではなかったのか?

宮崎の西都原古墳からは、準構造船とも呼ぶべき船と、それこそ舟形屋根とでも云うべき建物埴輪が出土している。

(出典:いずれも宮崎県HP)

更に噺は飛ぶ。古代日本には伽耶のような伝承は存在しないが、金官加羅国の始祖・金首露王は在位42-199年と云われる。驚異的長寿であるが、当然ながら眉唾の噺である。その妃がインドのサータヴァーハナ朝の王女で、インドから舟に乗って伽耶に渡来し、首露王と出会いインドから持参した石塔を奉納した。そして王との間に10人の息子を設けたと云う。その子孫と云われる古墳の遺骨をDNA塩基配列分析すると、インド南方系であったと報告されている・・・とすれば、マラッカ海峡を越えての渡来であり、まさにゴンドラ風の船と櫂を操る、鳥人風の人たちとなる。

このように見ていくと、今では栽培稲の起源は縄文まで遡ると云われているが、曰く弥生人が水稲を朝鮮半島経由で高床式住居と共にもたらしたとの見解、これも半分疑問に思う。朝鮮半島で高床式建物は、半島南部の極一部しか遺跡は出土しておらず、存在しても貯蔵庫としての存在である。

朝鮮半島云々ではなく、海道経由の水稲伝播の可能性も高い確率で存在したであろう(栽培水稲が長江中・下流域から直接伝播した可能性をしめしたのは、稲の遺伝子に詳しい佐藤洋一郎氏である。氏が大阪・池上曽根や奈良・唐子鍵の各遺跡から出土した2200年以上前の弥生米のDNA分析を行なった結果、朝鮮半島には存在しない揚子江流域固有種が混ざっていたと云う)。それが西都原における、南海の舟形屋根をもつ埴輪と準構造船の埴輪であろう。

水稲が海道経由で直接伝播した可能性は、環濠集落でも見られるようだ。吉野ヶ里は空堀の環壕であるが、朝倉市の平塚川添遺跡は多重環濠集落で水が満たされている。これは江浙の常州市淹城(えんじょう)の水が張られた三重環濠と同じ構造である。長江中・下流域つまり江南ルートから直接渡来した可能性が高い。

(出典:ふくおか応援キャンペーンサイト)

(出典:中国網日本語版)

何やら訳の分らない、飛びに飛びまくった噺を綴ったが、ミナンカバウ族の伝統的住居は、海洋民を思わせる舟形屋根を持ち、それらの古代人が黒潮に乗って、日本列島に辿り着いたのではとの妄想を持った次第である。