世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

伽耶展(12)

2023-09-15 08:10:42 | 日本文化の源流

第一部 伽耶の興亡

第4章 伽耶王と国際情勢

5世紀前半に、金官伽耶の王族墓地(金海大成洞古墳群)で大型墓の造営が中断する。背景は広開土王碑に刻まれた西暦400年の高句麗による金官國(金官伽耶)への侵攻の結果である。

金官伽耶と入れ替わるように伽耶の盟主となったのは、大伽耶であった。高句麗の南下により金官伽耶の王族や有力者は、大伽耶や倭へ移動したかと思われる。

大伽耶と倭の関係は、百済による大伽耶圏の一部(ソムジンガン流域)の領有を倭が認めたことによって、一時疎遠となったが、大伽耶は孤立を避けるために倭との関係を改善せざるを得なかった。この時期の大伽耶の周辺には、盛んに倭系古墳が築かれた。その被葬者は倭からの渡来人や倭と深い関係を持つ人だった。

5世紀後半に至ると、倭では大伽耶系のアクセサリー、装飾馬具、武器等の文物が古墳に副葬された。江田船山古墳はその事例の一つである。その頃に大伽耶は、洛東江より西側の地を統合するほど力をつけた。479年には伽耶で唯一、中国・南斉に遣使を果たし、輔国将軍・加羅王に冊封された。481年には高句麗の新羅侵攻に対して、百済ととに援軍を送っている。

今回は、やや順不同なるも『伽耶王と国際情勢』とのテーマで出品物を紹介する。

<伽耶王と倭>

帯金式甲冑 高霊池山洞32号墳 大伽耶 5世紀中頃

大伽耶の中心地、高霊や陜川には倭系の甲冑や須恵器がもたらされた。5世紀中頃の王陵級古墳である高霊池山洞32号墳では倭系甲冑が副葬されていた。大伽耶による対倭交渉は、新羅や百済と同様に、高句麗の南下対応策であったと考えられる。

<伽耶王と新羅>

蛍光X線による分析の結果ササン朝ペルシャのガラスであった

<伽耶王と中国、百済>

中国製の青磁鶏首壺が5世紀後半の南原月山里M5号墳から出土

大伽耶と百済の関係は、百済の海上交通にかかわる祭祀に大伽耶が参加したと云われている。

扶安竹幕洞祭祀遺跡 百済 5世紀後半

参考文献

アクセサリーの考古学 高田貫太 吉川弘文館

海の向こうから見た倭國 高田貫太 講談社現代新書

幻の伽耶と古代日本 文芸春秋編 文春文庫

古代倭と伽耶 時空旅人 2022年11月号

<続く>


伽耶展(11)

2023-09-09 07:08:13 | 日本文化の源流

<続き>

筒形銅器は、巴形銅器と共に従来倭で製作されたものが、伽耶の地に運ばれたものと云われていたが、その説は最近怪しくなってきた。

倭では西日本を中心に50基ほどの古墳から、金官伽耶でも釜山や金海を中心に25基ほどの古墳から出土する。倭製か、それとも金官伽耶製か? 双方で出土する意味は何か? 制作工房は双方ともに未だ発見されていない。倭と金官伽耶で、筒形銅器の広がりや副葬された古墳の規模、そして副葬品の取り扱われ方を比較すると、二つの違いがある。

一つ目である。金官伽耶では王族や首長たちの古墳群に限定して副葬される。2-3点副葬されるのが一般的で、10点ちかくまとめられて副葬される事例もある。倭では西日本の広い範囲で、大きな前方後円墳から小さな古墳にいたるまで、幅広く副葬されている。それも1点だけ副葬されている。したがって分布の中心は、金官伽耶の王族や首長たちの古墳にありそうだ。

二つ目である。金官伽耶では、武器や儀仗の柄に取り付けて副葬することが大半である。それは本来の使われ方である。しかし倭の場合は、それ以外に容器におさめられたり、布にくるまれたりと宝物のように副葬されることも少なくない。

このようにみると、金官伽耶の筒形銅器は、単に倭からの贈答品だった訳ではなさそうだ。高田貫太氏は双方の出土状況から、筒形銅器は金官伽耶の威信財で、倭へ贈られたものと考えておられる。

上掲2点の焼成火度の低い土師器は、倭でつくられたもので伽耶の地に運ばれたものである。伽耶人が持ち帰ったものか、それとも倭人が運んだか?

129、130は倭製の銅鏃である。以上、2回にわたって『第3章 伽耶人は北へ南へ』とのテーマの展示品紹介を終える。

参考文献

アクセサリーの考古学 高田貫太 吉川弘文館

海の向こうから見た倭國 高田貫太 講談社現代新書

幻の伽耶と古代日本 文芸春秋編 文春文庫

古代倭と伽耶 時空旅人 2022年11月号

<続く>


伽耶展(10)

2023-09-06 07:32:37 | 日本文化の源流

第一部

第3章 伽耶人は北へ南へー4世紀

 

今回から2回に渡って『第3章・伽耶人は北へ南へ』とのテーマで、4世紀の出土遺物を紹介する。先ず伽耶地域で最初に台頭したのは、狗邪韓国の後継としての金官伽耶であった。その金官伽耶では北と南との交流を示す遺物が出土する。それが最初に紹介する帯金具(出品番号112~115)である。これは金官伽耶の中心・金海大成洞88号墳(4世紀中頃)から出土した晋式帯金具と呼ばれるもので、金官伽耶と倭の双方から出土する。

(晋式帯金具 金海大成洞88号墳出土 左より出品番号 112,113,114,115)

これらは、中国晋王朝の時に製作されたと云われている。そして晋だけではなく中国東北部、高句麗、百済、新羅、そして倭でみることができる。金海大成洞88号墳の被葬者が、この晋式帯金具をどのように入手したのか、その経緯は不詳ながら中国東北部や高句麗との折衝の結果であろう。

倭では奈良県新山古墳と兵庫県加古川市・行者塚古墳から出土しており、いずれも中国から朝鮮半島、つまり伽耶を経由して持ち込まれたと考えられている。

行者塚古墳出土 晋式帯金具(復元品)

行者塚古墳出土 馬具

行者塚古墳は4世紀後半から5世紀初めの築造である。晋式帯金具とともに馬具や鉄斧などが出土した。鉄斧は鋳造品で、朝鮮半島からの渡来と云われている。馬具は渡来ないし渡来人が倭で作った可能性が云々されている。このような馬具は金官伽耶でも出土しており、それらと晋式帯金具が一緒に副葬されていることから、行者塚古墳の晋式帯金具は、金官伽耶経由で倭に持ち込まれたものと考えられる。それは倭人が持ち帰ったものか、伽耶人が持ち込んだものか判然としないが播磨の地の同時代の住居跡には、渡来人の痕跡が多々確認できることから、伽耶人が持ち込んだものと考えられる。このように伽耶人は北へ南へと躍動していた。

<続く>


伽耶展(9)

2023-09-03 08:33:51 | 日本文化の源流

<続き>

今回は大伽耶と小伽耶出土の金製耳飾りに絞って紹介する。先ずは陜川玉田M4号墳(6世紀前半)出土の耳飾りである。環の下に華麗な飾りを垂らした金製の耳飾りで左右一対であるが、今回は片方のみの展示であった。木の実のような、これを山梔子(くちなし)形と呼ぶようであるが、これは大伽耶の耳飾りの特徴であるとされている。

出品番号・103 陜川玉田M4号墳 6世紀前半 大伽耶 

5世紀後半の北部九州では、新羅系の耳飾りが出土するが、『磐井の乱』の6世紀前半になると、磐井の本拠地・八女古墳群(立山山8号墳)や、玄界灘沿岸の春日市日拝塚古墳などに、大伽耶系の山梔子形の垂飾をもつ耳飾りが副葬される。この変化は北部九州の在地豪族の対朝鮮半島交渉をめぐり、政治的な変動があったことになる。

香春町長畑1号墳出土 新羅系耳飾り 5世紀後半 出典・香春町観光協会Hp

立山山8号墳出土大伽耶系耳飾り 6世紀前半

日拝塚古墳出土大伽耶系耳飾り 6世紀前半

(北部九州で出土する耳飾りが、5世紀後半の新羅系が、6世紀前半に至ると大伽耶系に変化することを理解いただけたものと考える)

倭王権は百済と大伽耶と友好的な関係にあった。『磐井の乱』の前後に、北部九州の有力者たちも倭王権の外交政策に沿わざるを得ず、その結果として大伽耶系の耳飾りが、それまでの新羅系の耳飾りをおしのけて、北部九州で突如として広まったと思われる。

出品番号110は順天雲坪里M2号墳出土の耳飾りである。この雲坪里古墳群について説明する。

西暦510年代に百済が進出した蟾津江(ソムジンガン)下流域の西に、順天(スンチョン)がある。百済と大伽耶の境界にあたる。順天の平野の北側に雲坪里(ウンピョンリ)古墳群が営まれた。5世紀終りから6世紀前半にかけて、高塚の墳墓群が築かれた。古墳群の麓には順天西川が流れ南の海に出ることができる、要衝の地である。その古墳群から出土したアクセサリーが、大伽耶と百済の狭間に生きた集団の性格を表している。

我々日本人は必ずしも単細胞ではないが、彼の地の人々はしたたかであったかと思われる。この古墳群からは2点の耳飾りが出土した。1点は大伽耶系(出品番号・110)で、もう1点は心葉形垂飾がつく新羅系(出品番号・109に似ている)の耳飾りであった。勢力的に弱い立場の人々は、保険をかけていたのである。

参考文献

1.アクセサリーの考古学 高田貫太著 吉川弘文館

2.海の向こうから見た倭国 高田貫太著 講談社現代新書

<続く>


伽耶展(8)

2023-08-31 09:08:31 | 日本文化の源流

<続き>

今回は先ず、韓国国宝に指定されている大伽耶王墓・高霊池山洞32号墳(5世紀中頃)から出土した金銅冠から紹介する。

写真の高霊池山洞32号墳(5世紀中頃)から出土した金銅冠は、6世紀の倭の王冠(首長冠)に少なからぬ影響を与えたと考えられる。それは三又、みようによっては山形に見える立飾りである。下の金銅冠は継体大王の故郷である福井県の二本松山古墳(5世紀後半)出土の金銅冠である。

細部で形はやや異なるが、高霊池山洞32号墳出土冠の影響が考えられる。ここで金銅冠の編年を記すつもりはないが、以下のように変遷したと考えられる。

三又の立飾りは、香川・王墓山古墳(6世紀前半)の金銅冠である。二本松山古墳の立飾りが進化したであろう。6世紀後半になるとさらに簡略化された。それが我が田舎の出雲・上塩冶築山古墳(6世紀後半)金銅冠である。

やや横道に反れたが、大伽耶の金銅冠は倭国の冠に少なからぬ影響を与えたものと考えられる。

今回はココまでとする。

<続く>