世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

立虫神社と万九千神社(1)

2021-01-12 09:31:07 | 出雲国

荒神さんが鎮座すると云うので出かけてみた。当該ブロガーがガキの頃には。万九千神社の神去出祭(からさでさい)に出かけたものである。参拝するのは、それから60年は経過しているであろう。昔は田んぼの中にポツンとの感じだったが、現在は住宅地に変貌している。

立虫神社に関しては、神立大明神と称しており、もとは、現在地より南西700mほどの鎮座していたが江戸期・寛文年中、斐伊川の川床の変遷により、万九千神社の境内へ遷座したとあり、境内には立虫神社と万九千神社が併存鎮座している。

今回は、立虫神社と万九千神社を紹介し、荒神さんや摂社は次回紹介する。

立虫神社の祭神は素戔嗚尊の御子神と姫神である五十猛命・大屋津姫命・抓津姫命の三柱の神である。

万九千神社の祭神は、大穴牟遅命・少彦名命等で出雲の地を建国した神である。

鳥居を潜り参道正面が立虫神社拝殿である。現在は万九千神社がはるかに著名である。出雲大社に参集した全国の八百万の神々が、当該・万九千神社からお立ちになり戻られるのである。出雲では神去出(からさで)と呼ぶ。参道正面に立虫神社が鎮座するのは、こちらが本社であろうか。

(立虫神社拝殿)

(立虫神社本殿)

(万九千神社拝殿)

(万九千神社拝殿後方の神籬磐境の石柱)

(神籬磐境の石柱)

神の依代が石柱であり、巨木や巨石を信仰していた古い信仰の形態を示している。今回はここまでとする。

<続く>


出雲・富(とび)神社(弐)

2020-11-26 08:27:39 | 出雲国

<続き>

本殿を中心に反時計回りに摂社の数々を紹介する。先ず『社日』から。

〇:社日

不勉強な当該ブロガーにとっては理由を知らないが、出雲では道祖神をあまり見ないが、社日神(社日塔)は数多く見ることができる。倉稲魂命(うかのみたまのみこと)刻まれていることから、稲魂を祀っていることになる。つまり稲作や穀物の守護神に他ならない。出雲平野は稲作地帯で、数多く祀られた理由が頷ける。

〇:若宮神社

〇:稲荷神社

縁起を写真に撮っていなかったので、以下に記しておく。

祭神は宇迦之御魂神で創立年代は不詳とのこと。縁起によれば、この神様は、須佐之男神の御子神で本来穀物の神であるが、神仏習合思想によって仏教の荼枳尼天が同一視され、招福や財福の神として狐霊によって憑依託宣が行われ、近世になり呪術的稲荷信仰が浸透すると除災招福の神とされている。宇迦御魂神=倉稲魂命にほかならず、穀霊神や稲作の神である。先述したように出雲では多く祀られている。

〇:胞衣(よな)荒神

荒神さんも出雲には多い。産土(うぶすな)神につながり、山ノ神や田ノ神につながる。ひいては稲作の神と云うことになる。

〇惣荒神

惣荒神の縄蛇の頭は出雲大社を向いていると云われている。

〇:龍神祠

黒龍、白龍とあるが、これは雌雄の蛇神に他ならない。この手の祠は出雲に多いのか少ないのか、数多く参拝していないので不詳ながら初見である。これについては富神社の謎の続編として後述する。

〇:金刀比羅神社

〇:大歳社

縁起を写真に写していないが、大歳神は須佐之男命の御子神で大晦日より良い年を迎える神で穀物を守護する神である。

〇:風日社

さて、富神社の謎について続編である。前回記載した噺は謎が多い。東の意宇地域を分割統治していた富家がなぜ、西の富村に社を建立し、熊野大社の祭神・八耳命を移し祀ったのか。そして富神社の主祭神は、八束水臣津野命と天之冬衣命の二柱である。さらに不思議なことは、出雲大社で大国主命を祀るのは、大国主命の末裔や八束水臣津野命、天之冬衣命の末裔(前回の系図参照)ではなく、天孫族の天穂日命なのか。天穂日命はご存知の如く、天照大御神と須佐之男命の誓約により生まれた由緒正しき天孫族である。富當雄氏の『出雲の屈辱の歴史が始まった』とは、出雲国造家の祖である天穂日命に簒奪されたことを物語っているのであろうか?

境内には龍神祠が存在する。この建立年代は不詳と云う。これを見て古代出雲族は、蛇信仰の徒であったと云うには、あまりにも長い時間差がある。

出雲族はセグロウミヘビを龍蛇様として祀る信仰が存在する。その事例を下に示しておく。

噺がやや飛ぶ。古代の出雲族は、古代呉越の民で漢族の南下圧力に追われた越人の一派が、渡海してきた人々と考えている(ココココ参照)。

その古代越人の社会には蛇信仰が存在した。『呉越春秋』には、越の王宮・南大門の上に、蛇の飾りがあると記載されているとのことだが、『呉越春秋』を読んだことはなく、詳細は不明である。

しかし、北ベトナムでは蛇信仰が存在する。ベトナムのマジョリティーはキン(京)族である。彼らは越人の末で、百越のなかでも駱越といわれた人たちであるという。ベトナムが越南と表記される由縁である。

過去、ハノイに半年滞在する経験をした。多くの社寺仏閣を訪れた訳ではないが、道教から派生した聖母道の祠を訪ねると、一対の蛇の象形が掲げられている。この事例を見ても越に蛇信仰が存在したであろうこを裏付けている。

(ハノイにて)

やや飛躍した噺になんるが、これらは何を物語るのか。古代出雲王朝を樹立した出雲族の本貫は、古代・越にあり。その越人が祀った龍蛇神を、出雲に渡海したのちも、それを継承したであろう。出雲大社で大国主の命は南面するのではなく、稲佐の浜(日本海)を見る西を向いておられる。伊勢神宮に背を向けて、故地の越を向いておられることになる。そして出雲大社の大注連縄は何だ。それは一対の蛇が交尾していることになる。伊勢神宮に注連縄は存在しない。伊勢神宮が注連縄を飾ることは、出雲族を祀ることに他ならないことになる。富神社の謎は深い。

<了>


出雲・富(とび)神社(壱)

2020-11-25 07:58:52 | 出雲国

荻原秀三郎著『稲と鳥と太陽の道』シリーズを中断して、富神社を参拝して思うことを紹介する。荒神谷遺跡が存在する出雲市斐川町富村に鎮座するのが、今回取り上げる富神社である。富神社は謎が多く、今回と次回に分割して記すことにする。

先ず、参道は鳥居近くに掲げられている由緒である。『古傅、八束意美豆努神國引神事後出雲大川(斐伊川)地帯は、雲州(簸川)平野のナイルで斐伊川は、長い間に何回か東西に流路を替えつつ広大な沖積平野を修理造成し、神名火山(佛經山)の嶺より地理を見て「八雲立出雲八重垣云」御歌唱へ給ひてこの西の辺りは、土地がよく神門水海に近く此所に鎮座により出雲郷と云い社号を出雲社と云う。
 聖武天皇御代の和銅六年(七一三)に諸国の風土記編集をめいじられ出雲風土記出雲郡に神祗官社「出雲社(いずものやしろ)」とあり諸々の古文書に記されている社である。
 霊亀元年(七一五)出雲國造出雲冶郎信正の三男出雲信俊此の里に分家し、我が遠祖神(とおつみおやのかみ)合祀祭神を以て此の里人氏神と称し富大明神と云い、富村となった。
 神主三代目の出雲俊里、延暦一四年(七九五)に田の中に屋敷があり草花や花木多いところから家の名を花田家となした。
 明治四年に社名改正し村社「富神社」に改める。宝亀四年(七七三)頃、正倉院は一郡一倉を置き、出雲郡では、この富村に郡家正倉の蔵屋敷があった。
 天文九年(一,五四〇)大庭村、熊野神社御火継祭に出雲大社上官以下多数の祭員を隨へて出雲郡富村に別邸千家・北島両国造のそれぞれ御殿に往復宿泊され古事に習い明治二年(一,八六九)迄、出雲社に参詣された社である。こうした由来により当社の御遷宮の度に両国造から、大提燈を奉り参列される社である。』

出雲国風土記に記されている『出雲社』とある。出雲国で『出雲社』と国名を背負るのは、出雲大社と富神社のみである。上に長々と由緒を由緒書から転載したが、いかにも由緒正しい社のようにみえるが、実は謎の多い社である。

主祭神は八束水臣津野(やつかみずおみつの)命と天之冬衣(あめのふゆきぬ)命である。この二柱の神は親子関係である。ここで古代・出雲王家の系図は、淤美豆奴神(八束水臣津野神)ー天之冬衣神ー大国主神となる。出雲大社云々と云われる理由が御理解できたものと思われる。

先ず、拝殿・本殿までのアプローチを紹介する。

左右の狛犬の先に手水舎が、参道右側にある。その先が随神門。

写真は随神門内の青と緑に彩色された神門狛犬。祭神は櫛磐窓神と豊磐窓神。武官用の衣を着た左右一対神像を随神といい、矢大臣、左大臣というとのこと。

(拝殿)

(本殿)

主祭神は先に紹介したとおり。以下、拝殿と本殿の社紋であるが、亀甲に交差丁子紋である。

(本殿)

(拝殿)

その昔は丁子ではなく交差する銅剣(荒神谷遺跡の銅剣に恣意的に結び付けているきらいもあるが)であったようだ。戦う神と八束水臣津野命、天之冬衣命とのイメージが結べないのだが・・・。

以下、大いなる謎を紹介する。富神社は古代出雲王朝の王家である富家が建立したと伝わる。司馬遼太郎氏の著書『歴史と小説』に、以下の如く記されている。”知人の島根県人によると「天孫降臨以降、出雲の屈辱の歴史が始まった」と云う。”その知人とは産経新聞時代の同僚・富當雄氏である。記紀による系図は先に記載した。その八束水臣津野命は出雲国風土記に記されるように『出雲の国引き』を行った神である。つまり出雲の国土を創生した。大国主命の代に至り、『国譲り』を行わざるを得なくなる。つまり出雲の国土は天孫族に簒奪されたのである。

異伝によれば、古代出雲王国の始祖『八耳命(菅之八耳)』には、二人の息子がいた。その二人の息子が出雲の東(意宇)と西(出雲)を分割統治したという。東は富家、西を神門臣家が支配する構図であった。

記紀で親子の関係である八束水臣津野命が神門臣家、天之冬衣命が富家となる・・・今回はここまでとしたい。

 

<次回に続く>

 


出雲・塩冶神社の社日塔

2020-11-13 08:33:58 | 出雲国

道祖神は出雲では少ないようだが、社日神や社日塔はそれなりに目にすることができる。塩冶神社に鎮座するとのことで参拝した。

(隋神門)

(拝殿)

(拝殿と本殿)

(塩冶神社由緒)

(境内社・稲荷社)

(荒神社)

(境内社・天満宮)

(境内社)

(社日塔は祠に鎮座していた)

塩冶神社は、出雲国風土記に「夜牟夜社」とあるが創祀年代は不詳とのこと。御祭神等々は下記のとおり。

御祭神
塩冶毘古命、塩冶毘賣命、塩冶毘古麻由弥命、焼太刀天穂日子命
合祀
誉田別命、事代主命、
大山祇命、塩冶判官高貞

ここで面白いと云えば語弊があるが、塩冶判官高貞(たかさだ)を祀っている点である。塩冶高貞は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての武将で出雲国守護、のち室町幕府では隠岐国守護も兼任した。波乱の人生をおくったようで、怨霊を鎮めるために祀られたであろう?その顕彰碑が境内に建っている。

季節は秋も深まり、境内の銀杏は色づき葉は散っていた。

<了>


出雲・阿須利神社の道祖神と社日塔

2020-11-11 07:34:57 | 出雲国

我が生まれ故郷と云えども知らないことばかり。大津町3668番地に道祖神在りと・・・出かけてみた。それは阿須利神社の境内に祀られていた。

拝殿の扁額には、合殿鎮座・八幡大神宮とあるが、明治時代に八幡宮を合祀したことによる。

御祭神

豊玉比古神、玉依比女神、豊玉比女神、 大己貴神を主祭神とし、誉田別命、気長足姫命、足仲彦命、加久突知命、和多津見神、 事代主命、大年神を合祭しております。

例大祭 十月十五日 

由緒

奈良時代天平五年(七三三年)今から 二六〇年前「出雲風土記」に「阿須理社」 という社名で上来原の池の内杓子山にある と記されており、次いで平安時代延長五年 に作られた延喜式神名帳に阿須利神社の社 名が登録されています。
 昔海浜でありました大津湊の旧蹟であり ました朝倉の浜に鎮座であり、御祭神が龍 王社といい昔から神門郡中の祈願所とし旧 藩の崇敬厚く、貞享四年十一月御先尾剱先 に移転、明治四年三月合祭誉田別命、足仲 彦命、気長足姫命は旧大津村の八幡宮の社 殿に合祀し、阿須利神社と改称、郷社に列 せられる。明治二十三年社を今の地龍王山 に移転、十一月二日に遷座式を行った。

                 以上・境内案内板より

(本殿)

以下、境内の各神社

(稲生神社)

(社日神)

(総荒神)

(金比羅神社)

(恵美須神社)

(下照姫神社)

(恵美須神社)

(三輪神社)

(竹内神社)

残念乍ら道祖神の写真を撮ることを失念していた。出雲市を中心とする西出雲に道祖神は必ずしも多くはないが、その一つが当該社に鎮座されているようだが、本来はどこかに鎮座していたであろう。

尚、社日神は産土神であり、春分・秋分に祀られる田ノ神でもある。道祖神に比較し社日神・社日塔は西出雲では多々目にすることができる。

<了>