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驚いたことにこれら青銅製武器や鉄製武器に似せた磨製石器の武器も存在したのである。
これら磨製石器の武器は弥生中期と云われ、後漢書が記す卑弥呼共立前の「桓 靈閒 倭國大亂 更相攻伐 歴年無主」、つまり桓帝・霊帝の治世の間(146年 – 189年)の大乱の時に使われたのであろうか。どうも弥生時代は平和な世だけではなく、戦乱に明け暮れていたイメージも伴っている。
それは、先に示した中国製武器や半島仕様の武器からも想像される。それを考察するには東アジア的規模での検討が必要である。後漢末の戦乱期、黄巾の乱(184年)が勃発する。公孫度(こうそんたく)は遼東から半島基部の一大勢力を築いていたが、その騒乱に乗じて独立政権を打ち立てた。この時の難を逃れて朝鮮半島南部に多くの難民が流れ込んだ。多くの小国が存在した半島南部、そこでも混乱は必至であった。よって渡海し日本列島を目指す人々も多数存在したであろう。
半島基部の覇者公孫氏、その公孫氏も激動の中にいた。半島南部からの攻撃に備え、邪馬台国と同盟を求めたのであろうか。中平年製の鉄剣が展示されていた。後漢王朝から公孫氏に下賜された鉄刀を卑弥呼の遣使に贈与したのであろうか。噺が逸れるが中平年銘の鉄刀が存在するとは全く知らなかった。象嵌刀は獲加多支鹵大王銘と石上神宮の七支刀、我が出雲の額田部臣銘鉄剣くらいしか知らないが、色々とあるものだ。
噺を戻す、邪馬台国の時代稲作のもとで貧富の差が生じた。倭人伝には『大人・下口・生口(奴隷)』とあるように、社会の階層化が進み、倭国大乱のマグマは蓄積していたであろう。そこに混乱を逃れた半島からの多くの難民が押し寄せ、倭国大乱に関与したものと思われる。
鳥取・青谷上寺地遺跡資料館には前頭部の骨が砕ける殺傷痕のある頭骨が出土している。倭国大乱は九州と思われる狭い地域のみでなかったことを示している。
(青谷上寺地遺跡資料館展示)
何時の世代も平和であって欲しいが、古今東西戦乱は絶えない。人間の性と云えばそれまでだが、これらの展示品は平和を希求するための教育材料にもなりそうだ。
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