〇卑弥呼は公孫氏の係累で中国人であった
荒唐無稽ここに極まる・・・との説を紹介する。過日、『卑弥呼の正体』なる山形明郷氏著作の図書が眼に入り、早速読了した。以下、紹介するのは、その結論である。
先ず、副題に”虚構の楼閣に立つ『邪馬台』国”、続いて見出しには、“真実はやがて虚構。謬説史観を打倒し、さながら過去の亡霊を引きずり、暁暗の最中に彷徨えるがごときわが国の文献史学界に、本論が一縷の光明を点すことになり、旧来の史観に訣別を告げる秋(とき)が来るであろう。”・・・と記されており、いかにも大言壮語で、どのような史観なり結論か、大袈裟に云えば胸が高鳴った。
倭国(邪馬台国)の所在論の前に、朝鮮半島に所在した国々の所在論が定説と異なる形で記されている。ここでは、高句麗の丸都(がんと)の所在論を一事例として紹介する。
奉天通史巻五十二(満州国時代の出版)による丸都の所在を持ち出して以下のように記されている。『清の光緒帝、設治員、呉光国、断碑を洞溝の西北九十里の板石嶺付近に得たり。すなわち世にこれを「丸都紀功の碑」と称す。「三国志」に「毌丘倹(かんきゅうけん)束馬懸車し以て丸都に登る」と称されれば、すなわち丸都は必ず山上にあり。ゆえに、あるいは板石嶺は、すなわち丸都の所在という。』・・・つまり、満州国時代の出版書を持ち出して、大袈裟に書けば約1700-1800年前の丸都の所在は板石嶺だと述べられている。
高句麗・丸都城に関して揺るぎない事実は、342年に丸都山城の麓の平地に国内城が築かれた。そこから北東4km地点の鴨緑江河畔に、著名な広開土王碑文が建っている。つまり丸都は集安市の所在に他ならず、山形氏が述べる板石嶺(板石鎮)ではなかったのである。このような調子の記述が続き、倭(邪馬台国)の地は、遼東半島の南から平壌・京城を含む地域であるとする。これらは、魏志倭人伝の時代から遥かな後世の『清史稿』等を持ち出しての考察結果である。
後漢書東夷伝には「建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自称大夫 倭国之極南界也光武賜以印綬 安帝永初元年倭国王師升等献生口百六十人願請見」とある。光武帝は印綬を授けたと記している。この印綬とは、志賀島から出土した『漢委奴国王』の金印である。
さらに魏志倭人伝は、「又渡一海 千餘里至末盧國」と、一支國(壱岐)から海を渡って末盧國に至ると記している。倭国(邪馬台国)が九州か本州かは別にして、日本列島に所在するのは確かであるが、これら第一級の史料を無視し、遥か後世の『清史稿』や『奉天通史』を持ち出しての論説である。
その行きつく果てを紹介する。『晋書巻九十七列伝第六十七・四夷伝・東夷・倭人』の一文「旧以男子為王 漢末倭人乱攻伐不定 乃立女子王為 名曰卑弥呼 宣帝之平公孫氏也 其女王遣使帯方朝見其後貢聘不絶」を記しておられる。つまり、「もと男子を以て王となす。漢末・倭人乱れ、攻伐して定まらず。すなわち女子を立て王となす、名を卑弥呼という。宣帝の公孫氏を平ぐや、その女王、使いを遣わし、帯方に至りて朝見せしむ。その後、貢聘して絶えず」となる。山形氏の解釈によると、『その女王とは、公孫氏の女王』としており、卑弥呼は公孫氏の繋累で中国人であり、日本列島内の女王ではない・・・とする。
大言壮語から始まったので、中味を大いに期待したが、中味は珍説の類でガッカリした。
以上で、5回に渡り記述した『卑弥呼は何者だ』シリーズを終了する。
<了>