世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

邪馬台国の時代は『皆徒跣』だったのか?

2019-08-22 07:37:33 | 古代と中世

どうでも良いようなことが気になる。その一つに魏志倭人伝に記される『皆徒跣』、つまり倭人は裸足だったと云う。

弥生期に入れば稲作や栽培作物で生活していたと思いがちだが、河川や海での漁撈や陸地での狩猟、更には木の実の採集も行っていたであろう。すなわち裸足で林や山中に分け入ったのか?・・・との疑問が抜けきらない。そこは茨やブッシュによる怪我と隣り合わせである。

しかし、魏志倭人伝は皆裸足だと記す。確かに素足で生活できる環境はあったようだ。弥生期の集落ジオラマが推定復元されている。それをみると集落の広場等の平地は、地肌が剥き出しでブッシュはおろか草々もなさそうである。

(大阪府立弥生文化博物館のジオラマ展示)

このジオラマ展示のようであれば、少なくとも集落内は裸足でよさそうである。それは北タイの山岳民族の集落でも見ることができる。

写真はモン(Hmong)族の年配女性であるが足元は素足で、軒下で布地に筒書きしている。このように弥生期の集落内は徒跣で生活可能であったと考えられる。

しかし、先にも述べたが野山でも徒跣可能であったのか? 縄文期はどうだったのか? 縄文期に履物が存在したとも思えず、弥生期はその縄文期の延長だ・・・と云ってしまえば、そうかもしれない。

弥生期の履物と云えば田下駄が思い浮かぶ、田下駄は弥生期の遺跡から出土し、それは列島各地から出土しているようで、我が出雲でも出土している。

(出雲市海上遺跡出土:出雲弥生の森博物館展示)

しかし、田下駄を履いて狩猟に出掛けたとも思えない。そう云えば過去に弥生遺跡の展示物で木沓を見た経験がある。それが下の写真である。これは鳥取・青谷上寺地遺跡資料館の展示品である。

足の甲から爪先部分に相当する位置の側面2箇所に穴が開いており、そこに紐を通して使用していたであろう。このような木沓が常用されていたかどうか? 大変手間暇をかけて作ったと思われ、常用されていたかどうかは疑わしい。この木沓に関する学術論文(注)がある。それによると・・・現在までに発掘されたのは、北部九州(12 遺跡20 例)・山陰(3遺跡4例)・近畿(4遺跡4例)・北陸(7遺跡7例)・東海・中部(2遺跡5例)・関東(2遺跡2例)となっており、関東以西に広く分布する。また日本海沿岸地域に事例の約3/4 が集中するという点は重要だと考える。板状履物は大陸から伝来した履物であると考えられるが、その窓口は北部九州に限らないことを示している・・・と記されている。上掲写真のキャップションにあるように儀式の際に用いられたとの見方を踏襲しているようである。つまり非日常的な履物であったことになる。

・・・と云うことで、弥生期と云えども履物は常用されていないようである。しかし蔓を編んだ草履が存在していたであろうとの推測が抜けきらない。北タイの山岳民族は今日、ビーチサンダルのような草履を日常履いている。我が倭人も草履を用いていたであろうと推測している・・・時間の無駄とも思われるが、追及してみたい。

話は変わるが、写真の木沓は大陸から伝来したとされているが、北部九州のみではなく、山陰や近畿北部、北陸にかけての日本海側で出土するという・・・この話は妄想が膨らみそうだ。

<追>上掲の木沓は儀礼祭祀で用いられたと考古学者は想定しているようであるが、後世神職が履く木沓は、上掲の木沓の発展形と見做すことができそうだ。

(注)本村充保氏の論文『弥生時代~古墳時代の木製履物について』奈良県立橿原考古学研究所紀要 考古学論攷 第41 冊 2018 年 より

 

<了>


最新の画像もっと見る

コメントを投稿