世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

金海国立博物館

2014-11-24 16:39:19 | 旅行
 少し古い話であるが、2010年7月釜山へ旅をした。金首露王陵を見たくて金海へ行ったおり、金海国立博物館を見学した。博物館は日本語、中文、英語のパンフレットを用意しているが、展示物の説明はハングルが多く、英文解説は少なかった。しかし、入館料は無料で展示物もすばらしかったし、フラッシュを使わなければ撮影自由であった。次の写真は日本語パンフレットと入館券である。おりから夏休み中の小学生が多数入館している。

 話は飛ぶ、日本の国立博物館の入館券はべらぼうに高い。韓国の無料と比較し残念ながら、日本の愛国心・道徳教育は後塵を拝していると云わざるを得ない。韓国は無料にして、日本の韓国支配を喧伝し、愛国心を煽っているのである。
 話は戻る、新羅の王冠かと思うほど立派で勾玉のついた王冠がある。ここ伽耶の古墳から出土した。この黄金文化は中央アジアのスキタイとつながる。
 
 古代黒海の北岸のクリミア地方に前8世紀から3世紀までに、栄えたのがスキタイという西洋人顔の民族で、彼らが遊牧文明を発明した。最も大きな発明は、騎馬であった。じかに馬の背中に乗ることを発明したのである。乗るためには、身軽な服装が必要で、ブーツをはかなければいけない。それから、コートのような上着を着る。下はズボンをはく。これらをほぼスキタイが発明した。
 戦国時代趙の武霊王が匈奴に接する場所にいて、匈奴から圧迫を受ける。とてもあの連中にはかなわないから、我々自身が匈奴の格好をしようと胡服騎射にする。
 "金の王冠"、"金の高杯"、新羅の王冠とか、目前の王冠がどことなくスキタイ風である。黄金趣味というものがそもそもスキタイである。スキタイの動物の模様もでてくる。スキタイの動物の模様は、朝鮮半島の出土品の中で大変に多いと云われている。
 不思議なのは、朝鮮での出土品の中に勾玉が出てくることで、目前の王冠もそうなっている。いまのところ勾玉が出土するのは朝鮮と日本だけで、スキタイ趣味になぜ勾玉がつくのであろうか?・・・これについては明確な説明がいまだなされていない。
 また歩揺は、朝鮮の出土品には沢山ついているが、大月氏の遺物であろうと思われるアフガニスタン北部シバルガンの遺宝にも歩揺がついている。西方の大月氏と東方の朝鮮半島に、文化として共通したものが多々ある。
 スキタイの黄金文化ということで説明してきたが、次の写真は新羅の出土品にみられ、また日本の古墳時代に似たものが出土するが、それと似通ったものが当地、伽耶でも出土している事例である。
 日本の古墳時代に相当する新羅の黄金文化と似たような文化が伽耶の地にもあったかと思われる出土物である。左は金冠で右は歩揺である。伽耶の地における新羅とおなじような黄金文化について語る知識を持ち合わせていないので、この話はここまで。
 
 青銅鏡と共に巴形銅器が出土している。日本でも2世紀の弥生時代後期から古墳時代にかけての墳丘墓や古墳から巴形銅器が出土している。
 この写真のように日本でも九州、中国、四国の各地方でも似たような巴形銅器が出土している。伽耶のそれは巴の突起が4つに対し、写真を掲載していないが日本も4つ、5つ、7つがある。
 この突起の数の違い、そしてこの銅器そのものの目的や役割は学者により見解がことなり定説はないが、日本の古墳時代のものは木盾につけた装飾品ではなかろうか、との見方もなされている。スイジガイの外形、ゴホウラ貝の断面模様、太陽をモチーフにした、権威の象徴、邪悪を払う象徴等々の見方もあるという。
 これらに対し日本の学者からは、なるほどと思える学説はでていない。曰く太陽を模したもの、魔よけや権威の象徴との論である。小生は仏教というよりインド゛や東南アジアで云うチャクラ(法輪)、つまり煩悩を打ち砕く投躑武器を写したものであろうと考えているが、既にこれについてはインドの卍であるとの説もあるようだ。いずれにしてもこれらの説については、2-3世紀にドラビタ人の文化、つまりバラモンやヒンズー思想、さらには仏教の片鱗が伽耶の地なり、日本に及んでいたとの証明が必須と思われる。
 
 青銅器や鉄器以前の石剣である。面白いことに後世の青銅製の銅剣と同じような形状をしている。
 首飾りは水晶を研磨したものである。時代は邪馬台国と同時代の金官伽耶(狗邪韓国)である。
 
 鉄製甲冑を纏った武人も金官伽耶である。この甲冑は出土品を参考に複製したもので、邪馬台国の時代の武人も似たような格好をしていたものと思われる。当時騎馬民族の特徴であるズボン状の服を着用していたのであろう。

 
 
 左は銀製の鈎帯(よく見るのは金銅製)右は金製の耳飾りでいずれも伽耶の古墳から出土したものこれらの鈎帯や黄金文化は騎馬民族特有のものであり、朝鮮半島を経由して騎馬民族が日本へ渡来した証か?
 鈎帯の歩揺の一つに魚をモチーフにしたものがある(左写真の歩揺)。朝鮮でも紀元3-4世紀にこのように魚をモチーフ(卵が多数あることから多産で家門繁栄のしるし)にしたものが現れることから中国古来の吉祥は、この時代に朝鮮半島では慣習化していたのであろうと考える。それにしても魚の似たような装飾品はペルシャ世界にも存在し、西も東も吉祥を示すものとしてポピュラーな存在であったと思われる。
 

 金銅製の装飾をもつ環頭太刀である。これとおなじものが日本の古墳でも多数出土している。朝鮮半島も日本も同じ文化圏であったことが伺われる。
 水晶、瑪瑙の勾玉も出土している。日本の識者はこの勾玉は日本から来たものと云っているが、高句麗から出土したとは聞いていないので、日本からの渡来説はそれなりの説得力がありそうだ。