世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

和歌山市立博物館(2)

2022-06-22 08:15:59 | 博物館・和歌山県

<続き>

今回は古墳時代の出土遺物を紹介する。

以上、大谷古墳直近の楠見遺跡出土土器を紹介した。以下、展示されていた埴輪である。

力士埴輪は、全国各地の古墳から出土している。実物を見ると程度は良好である。古墳時代に相撲が既に存在していた証である。相撲は日本発祥ではなく、高句麗の古墳壁画に描かれており、やはり渡来文化の一つである。

囲型埴輪:車駕之古址(しゃがのこし)古墳

この車駕之古址古墳出土の囲型埴輪も、それなりに著名である。この囲いの中には殯の宮であろう家形埴輪と導水施設型埴輪のセットであったと考えられる(ココ参照)

盾持人型埴輪

この埴輪は、器財埴輪と呼び盾や靫(ゆぎ)、甲冑(かっちゅう)などの武器・武具や蓋(きぬがさ)などの権威を象徴するものをかたどった埴輪である。描かれる文様は、直弧文①や鋸歯文②など、邪悪なものを退ける呪術的な文様であり、死者を護る目的があったものと思われる。

家型埴輪

①、弧と直線を幾何学的に組み合わせた文様

②、鋸刃(のこば)のように連続的な三角文様

<続く>

 


和歌山市立博物館(1)

2022-06-20 08:59:08 | 博物館・和歌山県

今回から和歌山市立博物館の展示物を紹介する。訪問の最大目的は、大谷古墳出土の馬冑(ばちゅう・うまかぶと)と、騎馬民族につながる馬具類を見たいがためであった。

先ず、市立博物館展示の江戸時代後期の紀州の焼物から紹介する。前回は県立博物館展示の紀州の焼物であったが、今回は市立博物館の展示物である。

瑞芝焼 青磁菊透文手焙

南紀男山焼 染付不老橋絵鉢

清寧軒焼 輪花菓子鉢

偕楽園焼 交趾写二彩紫葉水差(永楽保全の指導によるという)

偕楽園焼 赤楽加賀光悦写茶碗(本阿弥光悦の加賀光悦を写した茶碗)

今回は、紀州の焼物の紹介で古代関連遺物の紹介は、次回以降とする。

<続く>

 


和歌山県立博物館(4)

2022-06-19 09:25:39 | 博物館・和歌山県

<続き>

古墳時代の吉田遺跡出土品を紹介する。吉田遺跡は弥生時代から連綿と、古代人の生活が営まれていた。

次に焼物を紹介して『和歌山県立博物館』展示物紹介シリーズを終了する。紹介する和歌山の焼き物は、江戸時代後期の紀州第10代藩主徳川治宝(はるとみ)が別邸西浜御殿内で焼かせた御庭(おにわ)焼からスタートし、諸所に窯場が設けられ、京都の陶工も招かれて、それなりの品々が今日残されている。

南紀男山焼:染付不老橋図菓子鉢

南紀男山焼:染付玉津春暁図花生

南紀男山焼:染付桃源遷居図筒花生

偕楽園焼:黄白釉寿文花入(これが御庭焼である)

瑞芝(ずいし)焼:青磁瑞雲文硯

南紀男山焼:染付桃図手付鉢

浅黄釉蝙蝠形筆架(あさぎゆうこうもりかたひっか) 仙馬印

次回から、和歌山市立博物館の展示物を紹介する。

<了>

 


卑弥呼は何者だ・その5(卑弥呼は公孫氏の係累で中国人であった)

2022-06-17 07:53:21 | 古代日本

〇卑弥呼は公孫氏の係累で中国人であった

荒唐無稽ここに極まる・・・との説を紹介する。過日、『卑弥呼の正体』なる山形明郷氏著作の図書が眼に入り、早速読了した。以下、紹介するのは、その結論である。

先ず、副題に”虚構の楼閣に立つ『邪馬台』国”、続いて見出しには、“真実はやがて虚構。謬説史観を打倒し、さながら過去の亡霊を引きずり、暁暗の最中に彷徨えるがごときわが国の文献史学界に、本論が一縷の光明を点すことになり、旧来の史観に訣別を告げる秋(とき)が来るであろう。”・・・と記されており、いかにも大言壮語で、どのような史観なり結論か、大袈裟に云えば胸が高鳴った。

倭国(邪馬台国)の所在論の前に、朝鮮半島に所在した国々の所在論が定説と異なる形で記されている。ここでは、高句麗の丸都(がんと)の所在論を一事例として紹介する。

奉天通史巻五十二(満州国時代の出版)による丸都の所在を持ち出して以下のように記されている。『清の光緒帝、設治員、呉光国、断碑を洞溝の西北九十里の板石嶺付近に得たり。すなわち世にこれを「丸都紀功の碑」と称す。「三国志」に「毌丘倹(かんきゅうけん)束馬懸車し以て丸都に登る」と称されれば、すなわち丸都は必ず山上にあり。ゆえに、あるいは板石嶺は、すなわち丸都の所在という。』・・・つまり、満州国時代の出版書を持ち出して、大袈裟に書けば約1700-1800年前の丸都の所在は板石嶺だと述べられている。

高句麗・丸都城に関して揺るぎない事実は、342年に丸都山城の麓の平地に国内城が築かれた。そこから北東4km地点の鴨緑江河畔に、著名な広開土王碑文が建っている。つまり丸都は集安市の所在に他ならず、山形氏が述べる板石嶺(板石鎮)ではなかったのである。このような調子の記述が続き、倭(邪馬台国)の地は、遼東半島の南から平壌・京城を含む地域であるとする。これらは、魏志倭人伝の時代から遥かな後世の『清史稿』等を持ち出しての考察結果である。

後漢書東夷伝には「建武中元二年倭奴国奉貢朝賀使人自称大夫 倭国之極南界也光武賜以印綬 安帝永初元年倭国王師升等献生口百六十人願請見」とある。光武帝は印綬を授けたと記している。この印綬とは、志賀島から出土した『漢委奴国王』の金印である。

さらに魏志倭人伝は、「又渡一海 千餘里至末盧國」と、一支國(壱岐)から海を渡って末盧國に至ると記している。倭国(邪馬台国)が九州か本州かは別にして、日本列島に所在するのは確かであるが、これら第一級の史料を無視し、遥か後世の『清史稿』や『奉天通史』を持ち出しての論説である。

その行きつく果てを紹介する。『晋書巻九十七列伝第六十七・四夷伝・東夷・倭人』の一文「旧以男子為王 漢末倭人乱攻伐不定 乃立女子王為 名曰卑弥呼 宣帝之平公孫氏也 其女王遣使帯方朝見其後貢聘不絶」を記しておられる。つまり、「もと男子を以て王となす。漢末・倭人乱れ、攻伐して定まらず。すなわち女子を立て王となす、名を卑弥呼という。宣帝の公孫氏を平ぐや、その女王、使いを遣わし、帯方に至りて朝見せしむ。その後、貢聘して絶えず」となる。山形氏の解釈によると、『その女王とは、公孫氏の女王』としており、卑弥呼は公孫氏の繋累で中国人であり、日本列島内の女王ではない・・・とする。

大言壮語から始まったので、中味を大いに期待したが、中味は珍説の類でガッカリした。

以上で、5回に渡り記述した『卑弥呼は何者だ』シリーズを終了する。

<了>