高校1年から3年までのリーダーを担当していただいた伊藤郁夫先生。
特に高校2年では、担任としても色々お世話になり、卒業後も、何かにつけてアドバイスを良くして下さいました。
進路指導では、1年間かけて慶應義塾大学の各学部の紹介と、学部ごとの卒業生進路についての詳細資料を配布していただき、とても参考になりました。
高校1年生の最初の授業でいきなり、
「君達はもうかなり英語は出来ていると思っているかもしれないが、やっと英語の基礎中の基礎が分かった段階だ。君達が本当に中学校の英語が完璧に身についているかどうかは、これから夏休みまでに行う、小テストで確認できる。その後で本格的に高校英語を教える。わかったか。君達はまだくちばしの黄色いヒヨッコ。ピーチクパーチクのヒヨッコだ。チイチイパッパだということを忘れるな。」
さすがにこの一言にはカチンときて、ハードに英語は勉強した記憶です。
1回の授業に、毎回2枚のB4サイズのプリントが必ず配布されました。今のように、リソグラフのない時代に、ガリ版印刷をほぼ毎日されていた。そのプリントには、学習するページに出てくる単語調べコーナーがあって、同意語、反意語が必ず問われていた。また同意表現を調べさせたり、構文の解説コーナーありという、至れり尽くせりのプリントだった。
大学入学後の英語授業でもまったく困ることはなく、社会人となって、英語の文献を何のストレスもなく読みこなせるのも、郁夫先生の薫陶の賜物と思います。
コンピュータ関係の文献とか、マニュアル(英文)を高速に読みこなし、仕事に役立てることが出来たのも、高校時代に鍛えていただいた英語力のおかげです。
高校2年の面談時「おい、お前、化学は得意か?おれの教え子で東工大で助手をやっているのがいるが、この夏休み久々に話す機会があった。そいつが言うんだ『日本人がノーベル賞をとるには、化学が一番可能性があります。』とね。お前も、化学やらんか?」とおっしゃった。
その時点で、日本人でまだ誰もノーベル化学賞を受賞していないので、「本当ですか?」と逆質問をした。
「日本人はもっとノーベル賞を受賞してもおかしくない。何か一つの突破口があれば、多くの日本人は必ずノーベル賞に手が届く、とその教え子が言ってたぞ。」と郁夫先生。
それから、10数年後、福井博士がノーベル化学賞を受賞され、さらに10数年後、白川博士がノーベル化学賞を受賞された。
郁夫先生の大卒直後の教え子は白川博士だったのです。
「その教え子は、お前と同じ位、英語が出来たぞ。」
「先生、その英語のテストのことなんですが。一つ質問があるのです。何でいつも英語のテストは100点満点ではないのですか。この間の定期試験は107点満点でした。107点と通知表に記載されると思ったら100点になっていました。どうしてですか?」
「すまん。おれは算数が苦手で、大体で点数をつけている。俺のテストで今まで100点を越す生徒はほとんどいなかった。さっきの東工大の教え子くらいだったな。俺のテストで100点超えたのは。100点を超えるような生徒はおらん前提で作っている。カットした分の穴埋めは必ずするからな。悪い悪い。」
郁夫先生はそのことを決して忘れてはみえなかったことが後に判明する。私の結婚披露宴に参列してくださり、過分なお祝いをいただきました。先生にそのお礼を述べると、「忘れたか?君との約束。100点満点でカットした点数の補充を、今日のお祝いでしたぞ。これでチャラだぞ。」といって満面に笑みをたたえられた先生のお姿が今も目に焼きついています。
高1の夏休みの課題は研究社の「シェークスピア物語」であった。シェークスピアの原著書は難しいので、それをリライトしたものであった。分かりやすい英文で、サット読めた。偉い先生の校閲であったが、「はじめに」の欄に「伊藤郁夫先生に感謝する。」の一文を見つけた。
先生に、「あれは先生がお書きになった本ですね。」とお聴きすると、「お前、野暮なことを聞くな。校閲者に悪いだろ。」と諭すように言われたが、その目は確かに微笑んでいた。
私が社会人となっても、大学院を目指すことにしたのも、郁夫先生のご教示の賜物です。
今はなき郁夫先生のご冥福をこころより、お祈りいたします。