演劇書き込み寺

「貧乏な地方劇団のための演劇講座」とか「高橋くんの照明覚書」など、過去に書いたものと雑記を載せてます。

貧乏な地方劇団のための演劇講座 第4章 演出

2012年04月15日 17時30分51秒 | 貧乏な地方劇団のための演劇講座

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 その昔、芝居をやるには演出家なんていなかったそうだ。筆頭の役者か、座付き作家が演出をかねていた。現代になって、芝居というと必ず演出家の名前が出てくるが、実は芝居をやるときには必ずしも演出は必要ではない。脚本に書いてあるセリフを上手に言えて、役者同士であっちから出てきて、こうやってなどと段取りさえ決めてやればそれなりの芝居になっていくからである。現実に[月虹舎]ではこういう演出家不在に近い芝居の上演経験があるし、私自身の演出方法も自分自身が出演してしまうことが多いため、単なる役者の交通整理人になってしまうことがままある。
 しかし、本当に良い芝居にしていこうとするとき、演出家の才能やセンスが芝居全体を大きく左右することは事実なのだ。

 

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04-01 良い演出・悪い演出

 

 芝居を観終わって、良い演出だったとか、悪い演出だったとか話をすることがある。観ている客は無意識のうちに芝居全体の責任者は演出家にあることを知っており、芝居が面白ければ良い演出、つまらなければ悪い演出と区分してしまう。もうひとつ"演出は良かったんだけどね"という言い方があり、これは演出家が望んでいる方向と、役者の演技が一致していないことを示している。

 現実には、演出家が何もしていなくても、役者たちが自分の役割や、役柄を理解していれば、勝手にそれなりの舞台になっていく。では、こういう舞台で好いのかというと、こういう舞台はすぐにマンネリズムに陥り、芝居としてのパワーがなくなってくる。それでは、良い演出とはどういう演出のことなのだろうか。たぶん、こういう演出を良い演出というのだろう。

○脚本の読み直しが行なわれている。

○全体に一つの方向性が明確で、文体がしっかりしている。

 自分が書いた作品であっても、脚本の読み直しはされなければならない。書いたものと、上演されるものは別物でなければならないからである。舞台のうえでは脚本とは別の文脈が生きている。全体にひとつの方向性を明確にしなければならないのは、読み直された台本が元の脚本に流されないようにするためだ。この方法を論理化していくとスタニラフスキーシステムに近似していくのかもしれないが、残念ながら、論理化していくことと実際の舞台作りは異なっているための理論が先行してはいけない。

 こういう抽象的な話は議論好きな人間には向いているが、残念ながら私は実務的なタイプなので、具体的な話しか出来ない。以下に、具体的な例を挙げながら説明していく。

 

04-02
具体的な演出法

 

○脚本に書かれている人物の背景や、時代背景を延々と役者に説明する演出家がいるが、実はごく簡単に説明できて、役者が理解できるのでなければ観ている客はもっと理解できない。何度も台本を読んでいる役者が理解しないことを、たった一度しか舞台を観ない客に理解させなければならないのだ。そんな複雑な時代背景だったら、まず時代背景を一発で見せる工夫が必要となる。

○抽象的な言葉遣いをして、演出をする人がいるが(抽象的な脚本を書く人に多い。)イメージというものは相手に伝わりにくいものだ。抽象的な表現も最終的には具体化しなくてはならない。

○舞台の構造、照明の基本等をまったく理解しないで、自分のイメージばかりを先行させる演出家がいるが、演出の作業は舞台全体の一部分でしかない。前述の通り、演出家は本来はいてもいなくても良い存在なのだ。各スタッフの意見を聴いて、作業を進めなくてはならない。演出プランと大道具・照明プランが一致しないことはままある。大道具や照明プランによっては演出のやり方を根本からかえてしまうぐらいの勇気が求められる場合があっても良い。

 役者に対しても自分のイメージを先行させてはいけない。訓練されてきた役者ならともかく、訓練されていない役者にイメージだけを喋っても頭で理解しようとして、体が動かない。具体的にその役はどういうくせを持っているのか、どういう物を持っているのか、どういう服装をしていて、どういうメイキャップをしているのかを示してやり、その姿形で、何度か練習させてみるとかである。

 自分自身の演出方は自分が脚本を書いているためか、あまり説明はしない。大きな流れに添っていれば、ほとんどの場合オーケーを出してしまう。ただ、この大きな流れを誤解している役者がままいるので、その時には苦労する。アドリブは基本的には認めているがなるべく練習中に出し尽くすように言っている。一度や、二度やったことのあるアドリブでないと、劇のリズムに当てはまらないし、相手役も応えられない。こういう演出は細部に目が届かないという欠点や、舞台にムラが多いという欠点を持っている。

 


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