十年以上昔に(注1)、NHKのラジオ番組に出させてもらったことがある。地方で活動している劇団の人間を集めて、地方のアマチュア劇団の活動状況について語り合おうというもので、NHKの意図したのは、地方文化の担い手である若者の文化意識、社会問題への取り組み方を探ろうというものだったのだろうが、実際に集まったら、もっぱら金の話で盛り上がってしまい、文化とか、社会問題とかはどこかへすっとんでしまった。
NHKは必死にフォローしようとしていたが、こちらとしては、最初から意図的にそういう方向に話がいくように仕掛けていたことなので、各劇団の本音がきけて良かったと今でも思っている。
この番組のプロデューサーは、いろんな点で感違いをしている。第一に、地方で劇団をやっていて、文化なんてのを意識してる劇団は時代錯誤もはなはだしい。文化が東京に一極集中していることは、あたりまえの事実であり、マスコミにのっかったイベントや興業だけが、受け取り手(観客や一般の人たち)にとっては価値のあるものなのだ。
第二に、文化そのものが多種多様となってしまい、送り手の価値観が劇団ごとに違ってきてしまっていることがあげられる。このため、送り手にも受手にも価値を測るモノサシがなくなってしまった。だから、同じ話をしているつもりでも、実は話がかみあっていないという現象がしばしばみられる。NHKが主催したこの座談会も、NHKが意図した座談会にならなかったのは各劇団の演劇という概念が違っていたためだという気がする。
唯一盛り上がったのが劇団をどう維持し観客をどう集めどこにどれだけ金を使うかという実務的な話題でしかなかったのは、考えようによっては当然のことなのかもしれない。第一章では主として劇団の経済の問題をとりあげる。
注1)30年ぐらい昔になってしまいました。
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01-01
演劇をやる目的
いきなりすごい話から入る。
あなた(今これを読んでいるあなた)にとって、「演劇をやる目的」とは何ですか、と質問したいのだ。人によって、答えは色々だろうけれど、最近の身近な女の子の答で多いのは「自分を変えてみたくて」というのをよく聞く。私自身は「目的はよく分からないけれど、しいて答えるのなら、自分を知るための手段」ということになるのかもしれない。大方の意見としては「そんな大げさなことは考えたこともないが、さそわれてやってみたら体に合っていたから」というところだろう。
だったら、どうしていきなり、「演劇をやる目的は」などと、言いだしたかというと、理由は三つある。
(ア) 世間の多くの人たちは何か物事をやるにあたっては目的がないといけないと考えている。
(イ)また、過去の多くの劇団は「目的」を看板として掲げることで、劇団としての方向性を示そうとしていたという、歴史的経緯がある。
(ウ) やっている本人たちが気付いていないだけで、内在的にあるいは外部からの思い込みで目的をもった劇団になってしまっていることが多い。
(ア)と(イ)は演劇が社会主義運動や学生運動の手段だった頃の名残りである。(ウ)については次のように説明すべきだろうか。劇団という形態は必然的に(ウ)のように「目的」を持ってしまうものなのだ、と。
「多くの人は何か物事をやるにあたっては目的がないといけないと思っている。」というのは、新聞の取材を受けるたびに、「演劇をやる目的は何ですか」と、聞かれることからも、世間の人たちが異常に理由に飢えていることが理解できる。「あなたの劇団が今回公演をする目的は」と聞かれるたびに、こいつ馬鹿かと思うけれど「無目的です」と答えるわけにもいかない。「社会の変革です」などと言ったら、新聞記者は喜んでくれそうだが、観にきた客には嘘八百だということが一発でばれてしまう。(本当に社会変革やろうとしている劇団が今だに健在だったら申し訳ない)また、目的を看板にかかげたりすると目的のためにボランティアすることになってタルイ。しかし、新聞記者やマスコミ、チケットを買ってくれる人たちは目的のない行為というのは胡散臭いものだと考えているらしい。「若者文化の創造です」などと答えたりすると新聞には大きく扱ってもらえるし、それを読んだ客がわんさか来たりするのだ。若者文化の創造などという白々しいセリフがすらすらと出てくるのなら、「目的」を前面に押し出すのもいいだろう。しかし、ほとんどの場合目的なんてしちめんどくさいことを考えて芝居を始めようなどという劇団は稀だろうし、「社会的な」目的とか、集団の意識なんてことすら、考えたことなんてないかもしれない。
つまり個人にとっては、演劇をやる目的は「自分を変えてみたくて」だったり、「よく分からなかったり」するわけなのだが、集団としての劇団は対外的に目的を示す必要がしばしば出てきて、マスコミや観客は異常と言える情熱で「目的」を求めてくるということなのだ。
そのための対応は、劇団としての「目的」を決めておくとか、劇団としての最低の理念を示しておくと、それから先はあらゆる場に対応していけるということなのだ。
ただし、劇団の方向性にかかわるものなので、対外的に示す「目的」を決める時には慎重にかつ思慮深くしなければいけない。外部に示した後で裏切ると、無節操とか、意志薄弱などと非難されたりすることがある。
参考までに昭和55年に劇団[三月劇場/水戸][月虹舎]の前身。最初の代表である斜三次が平成2年より、再び[三月劇場]の名前で土浦で活動中)の旗揚げの時のパンフレットの一部を引用しておこう。
(前略)旧[実験劇場](註;斜三次が昭和53年に旗揚げ、一回だけ公演)が、水戸に新しいウェーブを、との理念に支えられた実践集団であったのに対し、[三月劇場]は継続する運動体として活動をすすめていく予定です。もちろん旧[実験劇場]以来の、自主単独公演はすべて劇団オリジナル作品のみで、といった基本理念は捨てないつもりです。水戸における演劇センター的な役割を受け持ち、将来的には専用劇場の開設、他劇団を招く演劇企画、出版、映画製作、照明機材の貸し出し等、われわれの限度を越えず、かつ欲求を最大に充足させられる所まで、活動を拡大していく予定です。(後略)
この宣言で強調したかったのは次の2点である。
・作品は劇団のオリジナルしかやらない。
・劇団活動の一つとして、演劇センターの役割をになう。
どちらも、目的というほどのことではなく、方向性を示しているだけに過ぎないが、当時の私たちの活動を支えるためには、この程度の方向性があれば、十分であった。
すべての作品はオリジナルで、という原則は今でも厳しく守られている。78年の[実験劇場]から現在の[月虹舎]までの27公演について、29作品(再演、併演があるため)のすべてが劇団のオリジナル作品である。
(イ)の演劇センター構想の方は、[茨城大学自主映画の会]との共同作業や、知り合いが東京から劇団を招いた時の手伝い程度であり、貸し出すほどの機材もそろわなかった。それでも、わずか数台の照明機材がどれだけ多くの劇団の舞台を照らしてきたことだろう。
現在、土浦で三月劇場を主催している斜三次は「いかに金をかけずに手軽に上演できるかを見せる」ことを目的に三月劇場をやっている。これなどは、実に具体的な演劇をやる目的ではないだろうか。
演劇をやる目的が明確になるということはそのまま、どのような演劇をやるのかということと結びついてくるということだ。
01-02
どのような演劇をやるのか
次に訊きたいのは、"あなたはいったいどんな演劇をやりたいのか?"ということだ。
「時代劇」という答えが返ってきたら、拍手を送りたい。「時代劇」をやるにはものすごい金がかかる。「ミュージカル」も同じ、「オペラ」ときたら、数百万円単位の予算を一公演ごとに組まなくてはならない。
どんな演劇をやりたいのかというのは、どれだけ予算をかけられるのかということと深く結びついている。「貧乏な」地方劇団に「時代劇」や、「ミュージカル」「オペラ」は少し無理かもしれない。
もちろん、手はいくつもあって、地方自治体とタイアップする形で、大規模なものにすれば、「時代劇」であろうと、「ミュージカル」であろうと怖くはない。最近はこの手の企画が流行っていて、静岡では「子供ミュージカル」「身障者演劇祭」など、自治体や商工会などが金を出す企画が増えているし、水戸ならば芸術館の庭でやる「野外劇」などがこれにあたる。たいてい、これらの企画ものはオーデションが原則であり、作品はプロが書き、演出はそれなりの肩書きのついた人間がやり、スタッフも外部の人間がやるのが普通だろう。出来上がりにソツはないし、観客は自治体が協力して集めてくれる。これで満足できるのなら、こういう企画に参加することをお薦めする。毎日千人単位の観客を相手に芝居が出来る。それで、満足できるのなら、仮にそういう演劇をやりたいのなら、[貧乏な地方劇団のための演劇講座]などをよむ必要はない。スタッフワークをやる必要もなければ、金の問題で悩むこともないのだ、余計なことに惑わされずに演技することだけを考えていればいいと思う。
こういう企画ものではなく、自分たちの演劇を小人数で作っていこうとする時に「どのような演劇をやるのか」ということは、大きな問題となってくる。東京の大劇場で見て感激したような舞台はまずできない。それどころか、小劇場で観たささやかな芝居と同程度の舞台作りすら難しいだろう。
理由の第一はスタッフの違いである。現在の東京の劇団の役者のレベルは、地方の劇団の役者のレベルとさほど変わりはない。主役級は役者も訓練されているが、脇にまわっている役者は、そんなにうまいわけではない。事実、うちの劇団に出演したこともある茨城大学の学生演劇劇団「とりっくすたあ」の小松比古左は、卒業した次の年には「ブリキの自発団」の主役で客演していた。その代わり、東京にいれば他の劇団の舞台を観ることが多いし、簡単に観に行けるので、スタッフを使う目が肥えており、おやっと思うような小さな公演でも一流のスタッフが参加していたりする。特に、照明や音響という地方の劇団では片手間ですませてしまおうとする分野に案外エネルギーや、時間を注いでいる。こうして、役者の力量以上のスタッフに支えられた舞台はそれなりにいい舞台となる。
理由の第二は情報量の違いである。これは、チャンスの量の違いにもつながっている。地方の劇団がメジャーになることはまずないが、東京ではメジャーになるチャンスがある。ひとたびメジャーとなれば公演を続けていけるだけの客数を確保出来る。これは、一本の芝居に投資する金額の違いになるし、そもそも基本的な意気込みが違うのだ。
だとしたら、地方で演劇を続けていくことはどんな意味があるのだろう。地方で演劇をやるとしたら、どのような芝居をやればいいのだろう。これでは、地方で芝居をやる意味などないではないか。いい解答を出すことは私には出来ないが、自分たちが芝居をやる時にはその時々によって、次のように考えてきた。
(ア) 東京でやっていない芝居をやる。→オリジナルなので、どこでもやっていない。
(イ) 自分たちの観客を育てるような芝居をする。→笑いを取ることとはイコールではない。
(ウ) 東京で出来ない芝居をやる。→テントは東京ではなかなか張れない。
(エ) 低料金でやる。→時に資金不足で自分たちの首を絞める結果となる。
(オ) 自分たちが楽しめる芝居をやる。→ひとりよがりと言われることがある。
(カ) 簡単に出来る芝居をやる。→欠点としては安っぽく見られる。
たとえば、私の学生時代に同じ大学の医学部の連中が大学際の企画としてピーターシェーファーの「エクウス」という芝居を上演することとなった。この作品は、前々年にパルコ劇場で大当たりをとった劇団[四季]のレパートリー作品で、比較的小規模だがそれでも学生がやるには、なかなかたいへんな芝居だった。彼らは舞台装置を専門の大工さんに頼み、小道具を[四季]から借り、照明はプロに依頼した。当日の芝居は可もなく不可もなく、こんなもんかなというものだったが、後で医学部の学生課で「連中金が足りなくなって、泣付いてきたので五十万円程、出してやった」と聞いたときには、本当に頭にきた。
その時の入場料は三百円で、二千人集めても六十万円にしかならないことは最初から分かっていた事なのだ。赤字を自分たちで埋めることが出来ないような芝居を作ることは、たとえ、どんなにすぐれた作品でも、すぐれた演出家でも次がなくなっていくということだ。彼らにしてみれば、青春のメモリーとしての作品だから、誰に尻拭いをさせても良かったのかもしれないが、こういう甘えは作品を駄目にしてしまう。マネは結局マネでしかないのだ。マネをしようとするから、こういう甘えがでてくるのだと思う。東京であたった作品をただ自分が感動したからといって、そのまま持ってきたところで、資金不足や、技術不足で誰かに泣付くことになるか、一回かぎりで終わってしまうのがオチなのだ。地方の劇団こそ、オリジナリテイや簡易性のある舞台が求められるということを忘れないでほしい。
ここまでくれば、この「経済学入門」が対象としている劇団のイメージが少しは湧いてきただろうか。
01-03
制作費とは何だ
芝居を作るのにかける金を制作費という。制作費の内訳は以下の通りと考えていいだろう。
(ア)会場費
(イ)宣伝広告費
(ウ)照明代
(エ)大道具・小道具代
(オ)衣裳代
(カ)音響代
(キ)練習場代
(ク)雑費・交通費等
(ケ)著作権料
「1-2どのような演劇をやるのか」で、述べた通り、上演する演目、上演形態によって、制作費は大幅に変わってくる。たとえば、100ページある台本を40人のキャストと30人のスタッフに配ったとすると、台本代だけで(十円コピーを使ったとしても)七万円になる。100ページの台本というのは、ちょっと長い話ならありえるし、ミュージカルなら70人のスタッフ、キャストも考えられる。このように制作費というのは、変化自在の化物のようなもので、ちょっとしたスキをついて、巨大に膨れあがり、劇団の財政を圧迫してくる。大方の劇団では、この制作費を削ろうとするが、実は安易に制作費を削ることは作品が安っぽくなるだけであり、良い作品を上演したいという欲望は何ら満足させられない。
それでは、「貧乏な地方劇団」は制作費なる化物とどう戦ったらいいのだろう。ここからが、戦術編となる。今までの話は経済の話題を限定するための前置きにすぎない。つまり、戦略を決定する条件を決めてきたわけだ。あなたの劇団は「目的」が決まり、どの程度の作品を作るのかも、おぼろげに見えている。演劇の場合、戦略の決定は単に経済面だけにとどまらないが、仮に、ある作品に上演が決まったとしよう。観客の支払う入場料に見合う価値(舞台)をあなたたちの劇団は客に提供しなくてはならない。
(ア)の会場費はいわずと知れた、公演会場を借りるための予算である。会場が大きくなればなるほど、普通は会場費が高くなる。会場費には照明代と音響代が込みになっている場合と、別になっている場合とがある。一般に演劇の場合、四百人前後かそれよりも小さいホールが公演には適している。残念ながら地方都市に作られるホールは千人前後のホールであることが多く、これらのホールは会場費が高い上に舞台が広すぎるので装置を作るのもままならず、照明効果もホールに設備されている機材だけでは思うような効果をあげられないことが多い。
(イ)の宣伝広告費はポスターチケットなどの製作費である。この中にはデザイナーに支払うギャラや、ダイレクトメール代等も含まれる。公演回数が増えていくに従って、ダイレクトメールの予算に占める割合は増加する傾向にある。
(ウ)の照明代は照明機材の借り賃などである。後で述べるが、照明機材を借りるのか買うのかは議論の別れるところだろう。
(エ)大道具・小道具は芝居の中身とかかわっている。また、会場が広いと大道具もそれなりに大きくしなくてはならないので、余計に予算を組まなくてはならない。
(オ)衣裳代は贅沢をしだすと限りがない。しかし、女性客の目はこの衣裳という問題に対して実にシビアであり、近年の女性客の増加を考えると手抜きをすると安っぽく見られることとなる。
(カ)音響代は効果音を作るためのスタジオ代やテープ代などが含まれる。
(キ)(ク)については、説明するまでもないだろう。
(ケ)の著作権料については後述する。
01-04
制作費はどういう収入によって成立っているのか
最初の制作費はゼロである。どんな劇団でもどこかしらから、金を集めてこないと制作費はいつまでたってもゼロのままである。ゼロの制作費を何万かの金にするには、まず、劇団の構成員が金を出しあうか、スポンサーを見つけなければならない。スポンサーは企業であったり、公共団体であったりするが、この稿はスポンサーから資金の出る芝居については省略する。スポンサーを頼って、芝居をしたことがないので書きようがないというのが本音である。
集める金の目安は、ポスター・チケット印刷代と当座買う大道具。小道具代等に 見合う金額があればいいだろう。会場費は前払いでないかぎり後で支払えばいいのだから。
自分たちの経験では最初に劇団員に代金と引き替えにチケットを渡してしまって、最低それだけの収入ですべてをまかなえるように計画をした。六人のメンバーだったから、前売五百円のチケットを二十パーセント割り引いて劇団員に買ってもらい、確定した収入の三万六千円でまかなえるような会場を選び、余った金でポスター・チケットを印刷した。どうせ、プレイガイドに出しても一~二割のマージンを取られるのだから、チケットを売ればメンバーがもうかるような形にしたのだった。この時は一人だけ、やたらとチケット販売能力のある人間がいて、芝居をやっていて、四千円も収入があっていいのかなどと呟いていた。(たかだか、四千円ではあるけれど)
このノルマ制は最初の四回ぐらいまででやめてしまったが、劇団を始めた当初には不公平感がなく、財政も安定する有効な方法だと思う。ただ、長い間続けるには問題が多く出てくる。ひとつにはチケットが売れる人間と売れない人間とが出てくることであり、最後には知り合いが重なるために劇団員が増えると売り込み先が重なってくるという弊害が生じることである。
広告を取るという、スポンサーをつける変形もある。これも二回目ぐらいで止めてしまった。広告を取るためには、平日に動き回る必要があり、平日暇な人間がいないとやっていられない。たとえば、三万円の広告収入と同じ収入を得るには、千円の入場料で公演をしているとして三十人の客を増やせばいいということなのだ、と気付いた時に、広告取りは一切しなくなった。創立期の劇団にとっては一つの収入源であるので、チャレンジしてみるのもいいかもしれない。
金の集め方は、このように集める他、会費、劇団費という集め方もある。じつは、この方法は[月虹舎]の劇団員には理解できない。過去、この方法で金を集めたことがないからである。公演のための製作資金を日常的に貯めるというのが、よく分からない。仮に、こういう金を集めるとしたら、練習場代、講師代、機材購入費にあてるべきあり、公演のための直接予算に組み入れるべきではないと思っている。そうしないと公演は日常の訓練をただ引きずった場となってしまい、緊張感も何もない舞台となってしまう可能性がある。事実、極めて高度な日常訓練をしている劇団が公演では日常訓練程のこともできないでいることがしばしばあるのだ。
こうして、考えると劇団の収入というのは、基本的にチケット収入が主体となってくる。観客動員の多い劇団では、チケット収入は百万円単位となるだろうし、観客動員の少ない劇団では数万円の単位にしかならない。観客動員が多く、また安定した動員数をもっている劇団ほど財政的には安定してくるのは明らかだろう。
01-05
入場料というものは必要か
不思議なことにアマチュアがやることは入場無料にすべきだという得体の知れない概念が広く世の中にまかり通っており、何かの拍子にこの話が出てくるたびに相手に説明するのに疲れてしまう。
だいたいアマチュアの演劇を入場無料でやれというのは、無収入でやれということであり、劇団の財政という特殊事情を考えると破産しろあるいは劇団員に献金しろと言っていることと同じなのだ。
音楽を例にとろう。バンドをやっている時に、楽器を買うのは個人レベルの話であって、バンドとして楽器を買うのは少ないだろう。たとえ、バンドで楽器を買ったとしても、バンドの中の個人が管理することとなる。バンドが解散しても、それから先は個人が所有することで楽しむことも可能であろう。しかし、大道具や、衣裳を個人に分配してどうしょうというのだ。
舞台で消費される材料を購入することや、セリフを記憶する、そういうその場限りで消えてしまう幻のためにエネルギーと財政を投げ込んでいくのが演劇というものなのだ。
この舞台という幻をより真実らしく見せるためには緊張感が必要であり、そのためには最低観客が必要となる。この時、入場料を払ってきた客を前にした舞台と無料で観にきた客を前にした舞台とでは緊張感がまるで違う。入場料を払った客はたとえ五百円の入場料であっても、その入場料に見合うだけの価値を求めている。それに対して、無料で入場した客は舞台に幻を視ようという努力をするだろうか。プロとアマチュアを比較するのは好きではないが、アマチュアにこういう客をあてがおうとすることは残酷なことなのだ。プロの劇団ですら、企業の買切の時など、客の半分が舞台と反対の方向を観て、酒を酌み交わしていることがあるそうで、こういう客の時には芝居にならないとのことである。
入場料は経済的に劇団を支えるためと、価値を求めてくる客を集めるための二点だけでなく、制作方針を決めるときの目安にもなる。演劇の規模をどの程度にするかということは、お客さんにどれだけの価値を観てもらうのかということに等しい。よって、価値を具体的な数値に換算することが可能となる。
自治体によっては練習所を無料で貸しているのだから、あるいは、演劇祭でホールを無料で使わせているのだから、公演も無料であるべきだ、などと言うところもあるかもしれない。実はこの発想は根本からしてまちがっている。第一に、それを利用する劇団のメンバーは最低一人はその自治体に属しているはずであり、彼は税金を支払っているはずだから、なにがしらの金は支払済である。第二に、演劇活動を認めることは自治体にとって投資である。それも、若者にとって魅力のある、アクティブな劇団がその町にあり、新聞やミニコミや広報をにぎやかすことはその町の財産となりうる。そのためには練習場やホールを無料で使わせることなど安いものなのだ。
ちょっとした劇団の一つもない町、それは若者にとってはつまらない町でしかない。
01-06
入場料はいくらにすべきか
地域によってかなりの差があり、一概にいくらにすべきかは言えない。二十年近く昔のアマチュアでも青森の「雪の会」などは、入場料が千円以上したし、逆に今でも五百円ぐらいしか取らない劇団もかなり多いだろう。現在静岡では千円以下という劇団はなくなってしまった。高い劇団で千五百円ぐらいだろう。
アマチュアの場合映画の入場料の料金を越えると、えらく高く感じられるので、上限を映画の入場料程度に設定し、どれだけのものを観客に提供できるのか自問自答して金額を決めるべきであろう。余り安い入場料は安かろう悪かろうという印象を観客に与えることとなる。実際に売ってみると八百円でも、千円でも販売枚数に変化はでないはずだ。二三年同じ金額でやっていたら、少し値上げすることも考えた方がいいかもしれない。あまり安い入場料では出来ることも限られてくる。劇団は常により高いところを求めていないと自然に力がなくなっていくものだから、制作費もそれに伴ってかかっていくものなのだ。 繰り返しとなるが、入場料というのは劇団が観客に提供できる価値と等しいか、それよりも安く感じられる金額でないといけない。たとえ三百円の入場料であっても、芝居がつまらなければそれは高い入場料なのだ。
01-07
チケットの販売方法
チケットをどう売るかという質問に答えるのはとても難しい。方法としては次に示すやりかたがある。
・友人親類に売る。
・プレイガイドで売ってもらう。
・友人に売ってもらう。
・当日精算券を大量にばらまく。
・ダイレクトメールで割引券を送る。
友人親類に売るというのは実はすごく難しい。売り付けるこっちも恥ずかしいし観に来る方も恥ずかしい。おまけに休みの日にわざわざ芝居を観にきてくれる友人なんてのはなかなかいない。
プレイガイドで売ってもらうのも難しい。チケットを置くというだけならたいていのプレイガイドは協力してくれるが、二十枚以上売れたことはない。ひどいときには一枚も売れない。マスコミ(小さい地域のミニコミ程度であっても)マスコミに好意的に扱われたりするとプレイガイド売りは急に良くなったりするのだが、マスコミに好意的に扱われることがまずないのでプレイガイド売りが伸びたことはない。
顔の広い友人がいれば「友人に売ってもらう」のは効果的。しかし、芝居がつまらないと、友人を失うことになりかねない。注意すること。
当日精算券はばらまきすぎると前売券が売れなくなる。当日精算券はまず来そうにない客層に大量にばらまくべきであり、高校、企業、その他の音楽や書道の団体に送りつけるのもいいかもしれない。
ダイレクトメールで割引券を送り付けるのは比較的確実な方法。まめにやると観客増加につながる。
正直な話、自分自身は人との付き合いもあまりないので、チケット売りは苦手である。だから、チケット売りはほとんど劇団員に頼っている。性格が悪いせいか誰も義理ですらチケットを買ってくれない。チケットを売るときだけは友人を多くもちたいものだと考える。しかし、チケットを売り歩く努力をしないでもすむくらい面白い作品にすればいいのだ、と自分を鞭打つ材料にもなっているので、ホイホイチケットが売れないというのは悪いことばかりではないのだ。
チケットの販売を劇団員のノルマ制にしているところもある。悪い方法ではないと思うが、[月虹舎]ではノルマ制を長い間取っていない(現在もたぶん)。どうしても売れる劇団員と売れない劇団員との間に差があり、ノルマの不足分を自分で埋めなくてはならなくなる劇団員ができてしまうからだ。
今までの経験では、その時練習している芝居がうまくいっているときは黙っていてもチケットは売れる。あと、ポスターの出来が良いとチケットの売れ行きが急に伸びる傾向がある。
01-08
劇団会計の仕事
劇団に収入があったり、支出があればこれを管理するのが会計係である。収入支出共に帳簿を付けるように心がけたい。今劇団にどれだけ金があり、今後どれだけ金が出ていくのかを予想しておかないと当日になってから会場費が払えない騒ぎを演じることになったりする。公演が終わって、トントンぐらいかなヤレヤレとホットしていると、ごそごそとポケットから領収書の束を取り出す奴が出てきて、俺も俺もとみんなの領収書を清算してみたら、みんながポケットから取り出した分がそっくり赤字で、ポケットに領収書だけを戻す、などという笑えない事態ともなりかねない。
会計は劇団の中では地味な仕事だが重要な仕事なのだ。会計係に求められるのは次のようなことである。
・収入/支出があれば素早く帳簿を付け、現在劇団にいくらあるのかを明確にする。
・劇団に金が不足しているときは劇団員の尻を叩いてチケットを売らせる。
・購入するものが本当に必要なものなのかどうかを判断し、意味不明の領収書は説明を求め、場合によっては清算しない。
・公演の決算をし、全体に占める会場費、材料代などの割合を分析する。また、チケットの販売枚数と実来客数の比から歩留まりを求め、チケットのナンバーから、客の種別等を求め今後の制作の基礎的資料を作成する。
会計がしっかりしすぎていると、自由に身動きがでなくなるし、会計がルーズだと、公演が終わって一ヵ月しても黒字だったのかはたまた赤字だったのかさっぱり分からないという事態になる。
会計で一番重要なのは、劇団の帳簿はいつでもオープンでなければいけないと言うことだ。劇団員の誰かが見たいといったら、すぐに見れるようになっていることが大切だ。劇団とは個人のものではないのだから、みんなのお金がどう動いているかを知ることはとても大切なことなのだ。公演が十万円単位で動いているときには、トラブルは出てこないかもしれないが、数百万から一千万円の単位となれば金銭のトラブルも発生しがちになる。会計の責任は極めて重要だといわなくてはならない。
01-09
著作権料
既成の作品を上演するときには作者に上演の許可を求め著作権料を支払わなければならないことを知っているだろうか。高校演劇の脚本集にはこのことが明記されているので、結構支払われているようだが、一般の劇団は支払っているのだろうか。かえって、高校演劇楊の脚本を書いている作者の方が、この収入は多いのかもしれない。
オリジナルを上演することのメリットは脚本料を支払わなくてもいいということにある。何せ、二十年前で一幕もので一回の上演ごとに七千円、多幕もので五万円だった記憶がある(何せ自作しかやらないのでこの辺りの理解は極めてあいまいである)。だから、二日で三回上演すると、三かける七千円で二万一千円の上演料を支払うこととなる。これは入場料をとらない場合の料金であって入場料を取る場合は確か倍額だったような記憶もある(繰り返すが記憶があいまいなのだ)。さらに言うならば、外国の作品の場合はエージェントとの契約が必要であり、その場合は基本料金+入場料の10~20%を取られる。一本の制作費が十~二十万円単位のアマチュア劇団の場合、制作費の何十パーセントかが消えてしまうことになる。現実問題として支払うことが困難な劇団が多いのではないかと思う。
だからといって、無断で上演してもいいということではない。でき得るかぎり、上演許可は求めたい。作者としても勝手にやられるのは嬉しくはないだろう。払えないときは払えないけれどといって上演許可を求めたい。それでも許可しない作者はよほど貧乏か根性が曲がっているかのどちらかだ。貧乏な場合はやはりお互い助け合いなので払えるだけでも払ってやりたい。何せ、この世界には四十歳になっても年収六十万円という人がゴロゴロいるのだから。
もうひとつ、演劇の上演でひっかかるのが、音楽の著作権料である。出来るのなら、この話には触れたくないのだが、話のついでなので触れておく。劇中及び客入れ、客はけで使用した音楽にはすべて著作権料がかかる。しかも音楽の著作権料は脚本と違って会場の座席数にかかってくる。千人のホールに八十人しか入らなくても千人分の著作権料を取られるということなのだ。
この著作権料はレコード、CDだけでなく生演奏にもかかってくる。アマチュアのコンサートで他人の曲をやった場合でもレコードと同様に座席当たりなんらかの料金を取られる。恐ろしいことに脚本と違ってこの集金はJASRACという団体が担当しており、[ぴあ]や新聞に名前が載ると電話がかかってくることがある。一つの芝居で20曲も使ったりしていると...結構な金額になってしまう。
そこで、[月虹舎]ではなるべく音楽もオリジナル曲を使うよう努力していた。えー、努力はするんだけど、原則的には支払わなくちゃいけないことは重々分かっているんだけど...こういう法律や規則があることだけは知っておこう。ただ音楽家は(少なくともCDが出ているような音楽家は)脚本家ほどは貧乏ではないと(勝手に)考えている。
01-10
貧乏な劇団のお買い物
貧乏な劇団が買物をするときには人の倍は考えなくてはいけない。
○買うものと借りるものを明確にする。
第一に買うものと借りるものをはっきりと区別することである。置き場所さえあれば買ってしまったほうが安くつくものがかなりある。逆にわざわざ高いものを買わないでも借りてしまったほうが安くつくものも多い。音響・照明については別に述べるが、衣裳などは特に借りるよりは買ってしまったほうが安い(もちろん古着を利用する)場合が多い。小道具で使うイヤリングなどは特殊なものなので借りたほうが安くつく。
○規模に応じた投資をする。
ポスターを貼る場所が年々少なくなっており、ポスター代に金をかけるのはもったいないという意見がある。ポスターに四万円なり、十万円なりをかけるのなら、その分をDM(ダイレクトメール)や、ビラ、パンフレットに投資する方がいいかなとも最近は考えている。(しかし、ポスターは記念とか記録としては重要なウエイトを占める。)
○使い回しの出来るものは確保する。そして、買うのなら早く買う。
舞台をやるたびに使うことになるものは、買っておくほうが便利だと思う。しかし、劇団で購入するということは楽なようでいて大変なことでもある。後々役に立つことは分かっていても「この次自分は舞台に立っているのだろうか」と考えている劇団員がいるのなら、正直な所劇団で物を買うのはためらわれることだろう。
大きな買物をするチャンスは劇団の旗揚げ直後がいい。志が高い時期なので共同で購入するのはこの時を於いて他にはない。買っておくと便利なもののリストは以下のようなものである。
・音響用ミキサー
・パネル
・メイク用具
・ワイヤレスインカム
・照明機材
・暗幕
・公演用テント
・地がすり、紗幕など(ホールでやるとき以外いらない)
もっとも、これらの物を買うために金を使いすぎて後々苦しむようなことがあってはならない。ただ、しつこいようだが、買おう買おうと思ってもチャンスがないとコード一本なかなか買えないものなのだ。買えるチャンスに買っておくべきだ。
○打ち上げは会費制とする。
制作費とは直接関係ないが打ち上げの費用が案外馬鹿にならない。仮にもし、芝居で儲かったとして、打ち上げをやると少しぐらいの儲けはあっという間に消えてしまう。打ち上げは楽しいものだが制作担当者は心を鬼にして会費制にしようといおう。実は私たちも何度かこれに失敗して、劇団の財布をからにしてしまったことがあり、次の公演のポスター代が払えない騒ぎをしたことがある。
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