演劇書き込み寺

「貧乏な地方劇団のための演劇講座」とか「高橋くんの照明覚書」など、過去に書いたものと雑記を載せてます。

貧乏な地方劇団のための演劇講座 第3章 脚本

2012年04月15日 17時31分21秒 | 貧乏な地方劇団のための演劇講座

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 経験的に見てプロよりもアマチュアの方が脚本の選定は重要だ。練習の時間を多く取るわけにも行かず、舞台に金をかけられるわけでもないので、脚本の面白さが舞台の善し悪しを決めてしまうことが多いからだ。

 既成の戯曲の中からどういう脚本を選ぶかについては、より多くの戯曲を読み、実際の上演に触れてみるしかない、と言うしかない。

 ここでは、オリジナル台本の書き方について具体的な例を挙げて述べることとする。どう書くかということは、どういう作品を選ぶかについても参考になるだろう。テキストには拙作の[カサブランカ]と[グッバイガール]の二作を用いる。この二作はシリーズ企画である[まるで映画のように]の八本の作品のうちの二本である。

 アマチュア劇団でもいつのまにか主役をやる人間が決まってきてしまうことが多く、人数が増えれば増えるほど、良い役というのはなかなかめぐってこなくなる。[まるで映画のように]は登場人物を一~三人と限定し、出ればかならず主役になってしまうという企画である。なおかつ出演希望者のリクエストを聞いて(それが必ずしも台本に反映されるわけではないが)脚本を作った。

 特にこの二作は一定の制約を自分に設けて脚本を書いたため、目的と方法論がきわめて明確であり、脚本の成立したときの条件もはっきりしているという珍しい特性を備えている。通常脚本というものは、自分の頭のなかのごちゃごちゃしたイメージを取りまとめたものであるから、説明がしにくい。なぜ、こんなイメージを作ったのか、どうしてこういうセリフなのか、作者である自分にも分からないことが多いのだ。 

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03-01
脚本を書くのに一番大切なもの

 

 最初に脚本を書くのに一番大切なものについて説明する。

 昔から若手劇団の作家志望の人間が[脚本を書きたいんですけど、どう書いたらいいんですか]と聞いてくると、かならず、同じ答えを返すことにしている。[ボールペンと紙を選ぶこと]

 これでは[どう書けばいいのか]という質問の答えになっていないので、たいてい質問した相手は怒ってしまうのだが、実は半分は答えているつもりなのだ。

 脚本というのは、最終的には[語られる]物なので、リズムが大切となる。このため、自分にあった筆記用具というのはとても重要だ。

 私は大学生協のcoopストレッチノートSB40枚を愛用している。(現在は製造中止となっている)ボールペンはボクシーの百円の物を使っている。このノートを使って書くと[大体この芝居はこのリズムで、この字の埋まり具合だと、上演時間はこのぐらい][この登場人物のセリフが多すぎる、少なすぎる]も判断しやすい。灰色の縦線を引いてあるので、セリフを言う人物を線の左側に、セリフを右側に分けて書くのにいちいち線を引かなくても良い。もうひとつには、目が悪いのでノートが白いと長い間ノートを視ていられない。このノートは浅黄色なので、目が疲れない。

 以下の条件は私にあっているだけなので、人によっては原稿用紙があっている人、バインダー式のノートがあっている人、ワープロがあっている人などさまざまだろう。

 もし、脚本をかけないで悩んでいるときは、ノートを変えてみてほしい。筆記用具は、水性ボールペンは書くスピードが早いと擦れてしまうので、早く書くタイプの人には、サインペンもしくは油性のボールペンが向いている。鉛筆は書き直しがきくので、脚本には向いていない。私の場合、勝手にセリフが滑らないで、論理的になったり、説明的になってしまう。

 ワープロは脚本が書きあがったときには、すぐきれいな台本となるので、とてもいいように思えるのだが、実は少しだけ気に入らない点がある。逆にきれいになりすぎて、リズムもだれも伝わらないことだ。ボールペンで真っ黒に塗り潰されたところが何箇所もある台本などは、作者の迷いが伝わってくるだろう。こうした感覚が伝わるのが、少人数でやっている劇団のメリットであろう。

 手書き台本をワープロにうちなおすのはなおのこと無駄。雑誌や外部にだすのならともかく、自分の劇団の中で使うのだから、手間はかけないほうがいい。

 実はこの原稿を書き上げたあとで[秘密の教室]という脚本を書くことになり、これにはワープロを使うことにした。[貧乏な地方劇団のための演劇講座]の原稿を読んだ劇団員から、"でもね、森島さんの脚本て字が汚いから台本をみんなで解読するのにえらい手間食うし、読み違いする奴が続出するから、ワープロで打ち直すんですよね"と言われたのだ。脚本の締切から、上演まで期間がほとんどなかったので、すぐ使える台本にすべきだと思ったのだ。しかし、予想どおりリズムはうまくつかめないし、長さもメチャクチャになってしまった。使い慣れれば、その内解決するだろうが、登場人物の名前とセリフの部分との間あけが面倒でならない。これもそのうちに解決されるのだろうが...

 

03-02
脚本を書く目的

 

 私自身の場合について、テキストを例にして述べる。

 私の場合脚本を書く大きな目的はたぶん自分自身を楽しませ、自分自身の内面の違う領域を発見していく冒険の旅に出掛けることである。そして、いつも目の前にある目的は役者たちが舞台の上で生き生きと演技できる脚本を書くことにある。しかしながら、大きな目的は、作品を書いている最中にはなかなかはっきりとは自覚できないし、自覚したからといって具体的な作業の役にたつものでもない。

 さてテキストの場合である。

 [カサブランカ]は中村真実のために書き下ろした作品である。彼女は17才の高校生でちょうどこの企画の前後に劇団に出入りしていた。ある日、同じ高校生の杉山くんと我家にやってきた。二人は当時私たちの企画していた[まるで映画のように]のシリーズに参加したいとのことだった。どういう役をやりたいのかということについてどんな話をしたのかはあまり記憶がない。とにかく、現役の高校生が喋るセリフを作ることがこの脚本の目的だった。同時期に、劇団に出入りしていたバンドをやっていた女子高校生の[デーとクラブの名前を使って男をレストランに呼びだして、一時間も男が女の来るのを待っているのを見て、影でみんなで笑ったんだ]という実話らしきものを筋にしてみることにした。

 [グッバイガール]]はニール-サイモンの同名の映画を底本にしている。この芝居は、水戸のよその劇団が、やるやるといって結局やらないので、一寸やってみせたもの。あんまり硬く考えずに、こんな程度でいいんじゃないのと、書き方の見本を示す例を目的としている。そのため、私の作品としては珍しく原作がはっきりしている。相手にしてみれば、イラんお節介だといいたいところだろうが、私はこういう制約があるととても脚本を書きやすい。

 

03-03
脚本を書く方法

 

 [まるで映画のように]という企画は登場人物を1~3人と限定している。これは、出演すればかならず主役になれる数であり、また、低予算で出来る用にしているためだ。(少人数と低予算は必ずしもイコールとならないが)十五分という極端に短い一人芝居から、一時間二十分の歌いり芝居までの八本の芝居を八つのグループが週のうち木金土日の四日間、延べ二十日間計四十二ステージの上演であった。会場は水戸市南町の唄声喫茶[タンポポ](今はなくなってしまった)のご好意により低料金で借りることが出来た。舞台はベニヤ板四枚分の小さなスペースであり、装置はテーブル一つに椅子二つという実に簡単なものとなっている。([グッバイガール]ではソファも使っているが)

 この制約に加えて[カサブランカ]では、次のような遊びをしている。主人公二人は映画好きに設定して彼らのセリフはなるべく映画のセリフの引用とすることにした。映画のセリフについては和田誠著[お楽しみはこれからだ]1~3巻を利用させていただいた。 それぞれの映画のセリフは背景となる映画を背負っているため、単独では成立しない。一般的な引用の仕方は、パロデイあるいはギャグとして処理する方法である。しかし、テキストを読んでもらうと分かるが、そういう使い方は根本的に避けている。ギャグととして映画のセリフを言うのは一ヶ所ぐらいしかない。

 実はここの所に多くの勘違いあるらしく、この脚本はとても評判が悪い。(上演された舞台の評判が悪いというわけではない)パロデイとかギャグの台本としてはポップ感覚が不徹底だし、リアリズムの台本としては不自然だ。特に[きみの瞳に乾杯]というセリフは恥ずかしくて言えない、とよく言われる。

 ギャグでこのセリフを言おうとすると恥ずかしいだろう。リアリズムだと変だということになる。あのセリフは合い言葉なのだ、という芝居の流れを忘れてしまうとギャグとして処理したくなるのだろう。繰り返して言う、この芝居はギャグを意図して書いたのではない。ギャグとして考えたのは、一番最初の方の男のセリフの幾つかだけだ。この役をやった山本孝和は[ため]の山本というくらいセリフに[ため]を作る役者なので、待ちくたびれてために貯めてセリフを出す、というギャグを期待したのだが、案外実際の上演の時にはあっさりセリフを喋りだしたので、がっかりしてしまった。そのほかには、ギャグらしいギャグはないつもりでいる。あえてもうひとつあげるとすれば、彼女に笑ってみせてと言われて、笑ってみせると、ウェイターが来て、歯医者の話を始めるところだが、これもギャグというよりも次の乾杯の時の女のこのセリフをうまく言わせるための段取りといった方がいい。
 この手の話は書けば書くほど言い訳じみてくる。その代わり、この脚本を書くにあたって自分に課した制約を整理してみよう。

○原則として二人芝居である(このシリーズではこの作品だけ途中にウェイターがビールを持って出てくる。出さないことも考えたが、芝居に無理が出るので止めた)。

○舞台装置は椅子とテーブルだけ。

○現役の十七歳の女の子が喋るセリフなので、途中がどぎつくてもどこかに可愛らしさや夢を残すようにする。

○和田誠著[お楽しみはこれからだ]に出てくる映画のセリフをなるべく多く引用する。

○引用するセリフはギャグとして使わない。

 男が一人デートクラブの女を待っている。約束の時間はとっくに過ぎているのに、女は現れない。このイントロに上の条件を当てはめていくだけの作業なのだ。男の性格、年令を決め、職業や趣味を与える。この主人公の性格づけは台本作者の趣味だが、私の場合は性格が真面目なので、つい主人公も真面目になってしまう。主人公の性格づけに失敗すると芝居はとんでもない方向へいってしまう。この男がデートクラブの女専門に狙う殺人鬼だとしたら、最初は笑顔を作る練習をしているに違いない。室内装飾のデザイナーだとしたら、店のインテリアばかりが気になって、目の前の女が見えなくなってしまうかも知れない。 こうやって、人物の性格と舞台上の制約がある程度固まってしまえば、セリフは勝手に出てくるはずである。もし、素直にセリフが出てこなければ、きっと書いている人間が頭の中で考えすぎているのではなかろうか。構成のしっかりした推理劇や、歴史物を書くのでないかぎり、登場人物のイメージさえしっかりしていれば、ストーリーはある程度後を追いかけてきてくれる。アイデアを大切にしすぎたり、プロットを考えすぎると、この手の芝居は書きづらいだろう。

 [グッバイガール]では条件が少し変わってくる。一応、[グッバイガール]]という映画を下敷きにすると決めていたので、舞台を日本に移したほかは、大筋は変更しないこととした。また、[まるで映画のように]のシリーズは、1~3人の芝居と限定しているので、登場人物は二人だけとした。
 この芝居に関して自分に課した制約は次の通りである。

○実際に舞台に立つ登場人物は二人だけとする。

○舞台装置はテーブルと椅子、それにソファをプラスする。

○映画の[グッバイガール]の大筋を残す。

○原作は一回観るだけとして、印象だけを頼りに組み立てる。

 はじめの二つは[カサブランカ]と同じで、この企画全体の考え方でもある。
 あともう一つ、[グッバイガール]の場合は、

○娘が登場する。この少女は観客には見せないものとする。

という仕掛けも作った。この少女は、話の中で大きな役割をしめている。
 プロットが決まっていて、登場人物のキャラクターもほとんど決まっていれば、残るのはアイデアしかない。映画と同じことをやれば、映画に負けるのは分かり切ったことなので、登場人物は舞台上の二人以外は観客にはまったく見えないし、声も聞こえてこないように設定した。

 正直言って、この芝居をささえているのは、このアイデアだけなのかもしれない。姿の見えない少女に大人二人が振り回される、客はその娘を大人二人のセリフと表情から読み取るのである。

 だから、ラストシーンのスライドで、娘を見せてしまうことは、観客のイメージを壊してしまうことなのかもしれない。初演の際には、松岡矩夫(当時はまだ劇団員ではなかったがのちに参加)のすぐれた写真により、ラストシーンは好評であったのだが...

 原作は一度しか観ない、というのは原作のイメージに縛られないようにするためである。これは、台本化する作家の方法論の問題であり、私の性格上原作に縛られたくないというだけのことだ。

 このように、同じ企画であっても[カサブランカ]と[グッバイガール]とでは、脚本を書くときの方法論がまったく異なっている。[カサブランカ]では役者をイメージし、その役者にやらせてみたい役の性格を作り上げることにより、自然発生的にプロットが生まれてくるように書いた脚本であり、[グッバイガール]はプロットが決まっていて、現場でいかに効率的に見えるかのアイデアだけがポイントになっている脚本である。普通の脚本では、この二つの作業が同時に行なわれ、こういう意識的な作業となることは珍しい。

 

03-04
脚本に何を書いたらいけないのか

 

 前の話の途中で、制約ということばが何回も出てきた。それは、座付きで台本を書くときには、好むと好まざるとにかかわらず、制約があることを忘れないでいてもらいたかったためである。時々、会場条件や、劇団員、スタッフのことを考えないで、脚本を書く人がいるが、最低次のようなことだけは止めてほしい。

○本人がイメージできないことは書かない
 たとえば、"不思議な音楽が聞こえてくる"というような書き方はなるべく止める。それに、どうせ舞台にかけるので、音楽は聞こえてきてしまうのだ。

○指定照明、指定登場を多用しない
 "男の背後に別の男が近付く。しかし影になっていて、誰なのかは分からない"、というような書き方はしない方がいい。こんな照明を作るためには、最低3灯のスポットライトが必要となる。こんな指定がやたらとある脚本では指定灯りだけで手いっぱいになってしまう。
 同様に、煙とともに男登場、というのも頂けない。スモークマシンないしドライアイスマシンが必要となる。スタッフとしては、脚本に書いてあるのだから、使わなくちゃいけないかなと考えるのが人情だ。予算と戦っているスタッフを考えればこういうト書はなるべく入れない方がいい。

○場面を区切るのに暗転指示をなるべく入れない
 自分でも時々入れてしまうので、あまり人のことは言えないが、ブロードウェイミユージカルでは暗転がないのが常識になりつつある。[時間]か[空間]を区切るために暗転が必要なのは仕方がないとしても、ただ単にシーンをきるだけのために暗転指示を書き込んではならない。

○自分のイメージにこだわりすぎるト書をいれない
 "二人の間には、1925年物のワインがあり、サモワールが音をたてて沸いている"...誰がサモワールなぞ持っているんだ。スタッフは、一度は脚本家を信じて小道具を用意しようとするわけで、作者がイメージにこだわりすぎるとスタッフが可愛そう。(最初からこれは手に入らないからカットといって、用意しようという努力すらしないスタッフがいたりすればさらに情けないが)ただ、虹にのって登場、などというト書をいれておくとスタッフも一生懸命考えて、時々あっというイメージを出してくるときがある。こういう、スタッフのイメージを刺激するト書は時々入れておいた方がいい。もちろん、いったいこのシーンはどうするつもりなんですか、と最終的に詰め寄られたときに出せる答えは準備しておく必要がある。

 

03-05
脚本の書き直し

 

 やっと書き上げた脚本も、書き直しが求められる場合がよくある。一つには、自分が気に入らないとき、もうひとつには演出なり、劇団員からの要求による場合である。

 このどちらの場合にも私は答えるように努力している。時間と才能が許すかぎり。大体は、時間がないか、どうしても別の形を考えることが出来なくて、そのままやってしまうことが多い。

 以前には、こういうトラブルを避けるため、脚本を書き始める前に、どういう芝居、どういう役をやってみたいのか劇団員にリクエストを取ったりしていた。

 ほとんどの場合、劇団員が気に入らないというというよりは、自分が気に入らなくて書きなおすことが多い。

 脚本家が偉くなってしまうと、自分のイメージを大切にするあまり、脚本を書きなおすのを嫌がる人もいるようだ。それぞれ人のやり方があるので何とも言えないが、座付きで書いている以上、書く側も、出る側もお互いが納得するまで、書き直しの努力はした方がいいと思う。

 

03-06
もう一度脚本とは

 

 ここまでは、初級篇のつもりで書いている、これ以降はもう少し詳しい話となるが、用語の使用も少し難しくなる。

 脚本が大きく変化したのは、60年代の作家たち以降であろう。これは三一書房から出版されている[現代日本戯曲大系]を読んでみるとよく分かる。60年代から70年代にかけて戯曲の形態は大きく変化している。

 この時期には、ベケットに影響を受けた不条理劇や、アメリカのオフオフブロードウェイの影響をうけたさまざまな戯曲が登場してきた。こうした戯曲は最初のうちはごく一部の演劇関係者の注目を集めていたにすぎない。これらの戯曲がマスコミに取り上げられ、世間の注目を浴びるようになったのはアングラと呼ばれる社会現象のせいだとも言える。この間の時代の流れと演劇との関係は前述の全集に詳しい。どこかの図書館で読んでもらいたい。ただ、この全集に収録されているのは、唐十郎、寺山修司までであり、つかこうへい以降の第2次、第3次小劇場運動については残念ながら別の資料をあたってもらいたい。アングラと呼ばれていた演劇群が小劇場運動と呼ばれるようになったのは、野田秀樹の率いる[夢の遊眠社]がマスコミに取り上げられるようになってからだろう。

 これらの戯曲の特徴は、それらが各劇団にあわせてかかれているために、読んだだけではどんな芝居になるのかよく分からないということだ。比較的分かりやすいつかこうへいの作品も戯曲と実際の舞台とでは違っている。このため、戯曲が戯曲だけで評価されることはなくなり、作者、もしくは作者に近い演出家の演出した舞台でなければ、その戯曲が本来持っている姿が見えてこないというケースが増えている。これは裏を返せば、戯曲が文学としてではなく、本来どおりの姿に向かっているともいえる。読者はそれぞれ自分のための自由な舞台を観ることが出来るのだ。もちろんそれだけの想像力があればの話だが。

 こうした60年代以降の演劇の流れは近年力を失ってきているといっても良い。理由は色々考えられる。まず、戯曲の構造が特定の世代に共有する感性に支えられているために、その感性を共有できない観客にはチンプンカンプンの芝居になってしまう。戯曲が言葉遊びやメタファー(暗喩)によって複雑化しており、筋を追おうとする観客はついていけなくなってしまっていること。人格が記号化されているために、心理を追い掛けようとする客には薄っぺらな芝居に見える。等である。

 最近の外国戯曲の上演の増加、新劇スタイルの芝居の復活はこうした内的な要因に加えて社会全体の復古調、安定志向がもたらしたものであろう。

 貧乏な地方劇団の座つき作家はこの時代にどのような作品を書いていけばいいのだろう。こんな問いに答などあるはずもないが、答のきっかけはいくつも転がっている。もちろん独断と偏見による答だが。

 

03-07
物語原理

 

 宮沢賢治と同世代の作家の作品は今どれだけ読まれているだろうか。賢治が死んだのは1933年(昭和8年)のことだ。1945年以前の作家で読んだことのある作家をあげてみると驚くほど数が少ないことに驚かされる。受験のために文学史で題名と作者名ぐらいは知っているかもしれないが作品まではなかなか目を通していないはずだ。当時は天才と騒がれた芥川龍之介の作品ですら、ほとんどの人が読んだことがないに違いない。私自身も[トロッコ]とか[河童]とか作品の名前は出てくるのだが、どんな作品だったのかと言われても、おぼろげにしか思い出すことが出来ない。それに引き替え賢治の作品の寿命の長さは異状といえる。アニメーションや朗読で繰り返し人目に触れる機会が多いこともあるが、共感を持ち支持されていなければこんなにも長いこと読まれ続けはしなかっただろう。

 童話だから詩だから長く読まれたのではないかという人がいるかもしれないが、小川未明の[赤いローソクと人魚]や坪田譲治の[風の中の子供たち]などの童話が時代とともに消えていってしまったことを考えると、宮沢賢治だけが長く残っていることの説明にはならない。こうした宮沢賢治の魅力については多くの評論家、ファンによって語られており、これから説明する物語原理はその魅力の一つにすぎない。

 物語原理とはどんなに複雑に見える小説、戯曲でも比較的単純な物語を基盤としていることが多く、またこの物語原理を持たない作品は人の心を単純に引き付ける魅力を持たないということだと解釈している。これは[ウェストサイドストーリー]が[ロミオとジュリエット]をモチーフとしているように、ストーリーを骨組みだけにしていくと単純な構造の物語へと帰結していくことを示している。

 古くから伝わる民話や説話は時代のフィルターを通して物語としての力を持っており、人々の記憶のなかに無意識的に植え込まれている。こうした物語の上に植え込まれた意識というものは単語や風景のなかにもあって、こうした単語は案外世代をこえて受け入れられるようだ。

 たとえば、[汽車]とか[電信柱]というものは懐かしいとかしみじみしたイメージが強い。[タイプライター]などというのはもうすでに過去の遺物となってしまっているのに懐かしいというイメージがないのはタイプライターが身近にないせいであろうか。[オルガン]は懐かしいが[ピアノ]は懐かしくない。[コップ]は懐かしいが[グラス]は懐かしくない。こういう印象を受けるのは私だけなのだろうか。

 唐十郎や寺山修司が説話や童話から多くの題材を取り、野田秀樹がシェイクスピアや近松という古典に題材を求めているのはそれらの作品の持つ物語の力を借りているわけで、これはシェイクスピアの作品の多くが原作を持っていたことと同じことだろう。

 [電信柱]や[汽車][飛行機][サーカス]というのは初期~中期の別役実の戯曲で多用されている単語である。つかこうへいでは[郵便屋さん][お父さん][全共闘]となる。どれもこれもどことなく懐かしい感じがする。ラジオで小沢昭一が[小沢昭一の小沢昭一的心だ]という番組をもう随分と長いことやっているが、ここにいつも出てくる[ミヤサカお父さん]という人物にやたら親しみを感じるのも[お父さん]という語感のせいかもしれない。

 こうした人の記憶にうったえる物語性や単語風景などについては、これ以上論証しないが、よくできている作品は物語性や物語原理を持っているものだと思ってほしい。(物語原理を明確に捕まえていないのであやふやな表現になってしまって申し訳ない)

 では、戯曲を書く人間は物語原理を意識すべきなのだろうか。私の考えでは戯曲を書く際には意識する必要はないと思う。書きたいことを書きたいように書いてみた上で、うまくいかないときは物語原理を考えてみる必要があるだろう。

 不思議なもので、人間の考えることなんて大して変わりがないようだ。私が過去に書いた作品のプロットと同じプロットをテレビで見たりするとなるほど人の考えることは同じようなものだと呟くしかない。たとえば

 [恋の百連発-見合い篇]...99回の見合いに失敗した男が100回目の見合いで女に惚れてしまう→[101回目のプロポーズ]

 [エデンの東の向こう側]...背後霊になってしまった男が戸惑う話。使命はタッチといって伝えられていく。→[背後霊だかんな][触手]

 他にもときどきおやっと思うほど似たストーリーに出会うことがある。

 自分の作品が物語原理にのっとっているなどというつもりはない。物語などというのは似たり寄ったりになってくるものなのだろう。ただ時代や社会の流れにあわせて観客に受け入れられたり受け入れられなかったりするのだ。

 脚本を書く人間は知識として[物語原理]という言葉があることを知ってほしい。正確な意味は私の書いていることと違っているかもしれないので他人と[物語原理]について語ろうとするのならば、文学辞典で意味を調べてからにしてほしい。

 

03-08
笑い

 

 毎日テレビを観ているとつくづくギャグの時代だと感じさせられる。どのチャンネルをひねってもお笑いタレントが当たり障りのないギャグを飛ばしている。

 30年前まではお笑いというのは、一段下の下等なものと見られていた。こうした事情は小林信彦の[日本の喜劇人](中原弓彦のペンネーム)や[世界の喜劇人]などの一連の著作に詳しい。

 少なくとも70年代の後半まではミケンにしわを寄せて[人生って何なんだろう]と呟いているほうがカッコ良いと言われていた。ダジャレを言う奴などお調子者と呼ばれ犬猫と同程度の扱いを受けていたものだ。笑いが支持を集めたのは井上ひさしつかこうへいなど、今までの笑いとは異質の笑いを持った作家の台頭と、テレビの漫才ブームタモリのようにまったく過去の伝統を引きずっていない才能が出てきたことによる。気が付けばテレビにお笑いの出演していない時間帯を捜し出すのが難しいくらいだ。ところが新しいネタを生産し続けることはエネルギーを要する作業なので、たちまちのうちにネタ切れとなってしまい、コントをやるグループも漫才をやるグループも自作を上演することはほとんどなくなってしまった。今も続いているのは昔ながらのマンネリコント番組しかない。

 井上ひさし、つかこうへい等によって築かれていった小劇場の笑いもだんだんとマンネリズムに陥っている。井上ひさしやつかこうへいが既成の概念や権力構造を異化するための手段として笑いを用いていたのに、笑いが[お笑い]自身を目的としたときに力をなくしてしまったのだろう。

 では、もう芝居には笑いは必要がないのだろうか。必ずしも不必要だとは思わないが、次のような笑いはそろそろ止めた方がいいと思う。

○テレビネタ
○単なる駄洒落
○楽屋落ち
○モノマネ

 こういう笑いは、見ていても楽しくないし、もうやり尽くされた感じがする。役者は舞台の上で客のリアクションを欲しがる。この点笑いというのは最も手っ取りばやいリアクションといえる。本当は、静かな客の反応というのもあって、そちらの場合の方が大切な場合も多いのだが、役者にはなかなか届かない。座つき作家としてはこういう役者のことも考えてやらなくてはならないときもある。

 [笑いを目的としてはいけない]ということだけは忘れないでほしい。

 

03-09
キャラクター

 

 登場人物のキャラクターをどうするのかは、どういう芝居を作るのかによってだいぶ違うだろう。逆に登場人物の性格が芝居を決めてしまうこともある。キャラクター(性格)が役者によって左右されることも多い。特に座つき作家ともなれば劇団員のキャラクターが逆に台本に返ってくることが多いだろう。

 ストーリー性が強くなればなるほど複雑な性格づけが要求される。たとえば全編怒りに満ちている[ロミオとジュリエット]など、単調で見ていられない。(これは演出の問題だが)

 コントを組み合わせたような芝居では、逆にあまり複雑な性格づけをしても意味はない。意味を多く持ちすぎている台詞は役者の自由度を減らしてしまうので役者はフラストレーションになるかもしれない。

 何本かの台本を書いていると一種のスターシステムのようなものも出来てくる。この登場人物たちさえだしておけば安心というキャラクター(登場人物)たちである。こうした登場人物たちはキャラクター(性格)が作者の頭のなかにしっかり出来上がっているために、どんな芝居に登場させても生き生きとしている。たとえば、私の作品では痴呆刑事という人物がこれに当てはまる。

 [痴呆太郎(37才)]別名[嵐を呼ぶ男]。本名は石原裕次郎という説もあるが本人は本名だと主張している。特別別動課、係長。

 特別別動課とは一課二課では手におえない事件を専門に担当しており、手懸けた事件のほとんどは迷宮入りしている。他の課から応援にきた人間たちの証言によれば事件は毎回必ず解決しているのだが犯人が人間以外のなにものか(幽霊、宇宙人、マネキン人形等)である場合が多く法律が適用されないので逮捕できないか、女性が犯人の場合は、犯人から除外される(痴呆刑事の辞書では犯人と言う欄に[女性は除外する]とある)ためほとんどの事件が迷宮入りしてしまうのはしょうがないとのことである。

 好きな言葉は[私たちは法律とか社会の正義のために捜査をやっているんじゃないぞ。向こう三軒両隣が、安心して生活できるよう捜査をしているんだ。これくらいのつもりで十分なんだ。]

 部下はいつもコンビを組んでいる手足刑事が決まったメンバー、他にもパソコン刑事とか他の課からの応援もあるがいつも人材不足に嘆いている。歯ブラシ仮面という正義の味方と同一人物だという説もある。パートタイムで正義の味方をやっているのである。

 事件に対する姿勢だが、いつも部下たちに

 事件には3種類ある。起こった事件、起こる事件、そして起こるであろう事件だ。
 起こった事件は嫌いだ。起こる事件も嫌いだ。
 でも、起こるであろう事件はいい。私は、起こるであろう事件を夢見ながら、煙草をふかして海のかなたをずっと眺めていたい。

とこぼしている。しかし、起こった事件や起こる事件が追いかけてくるので、ぼんやりしている暇はなかなか取れないのである。

 登場作品は[蒼ざめた街](75)で初登場、[窓ガラスの花](82)で歯ブラシ仮面も登場する。[マーマレード症候群](86)より手足刑事が部下となり、係長になる。[嵐を呼ぶ男](87)で殉職するが[水戸芸術館殺人事件](92)で奇跡の復活をとげる。

 こういうキャラクターを持っていると、作品を考える時にも比較的楽になる。テレビの連続物と同じでお馴染みの台詞回しややりとりが可能になるからである。初期の唐十郎の作品だとキャラクターだけでなく、場面設定まで同じシーンが毎作品出てくる。床屋と禿の客ドクター袋小路などである。

 ただし、いつも同じキャラクターを使っていると、作品が安易になってくる可能性がある。ふるいキャラクターと新しいキャラクターを混ぜて使い、古いキャラクターは徐々に出番を少なくすることでマンネリを回避する必要があるだろう。

 キャラクターの作り方にはかなり個人の趣味が出てくる。私の作品に登場するキャラクターはみんな異常な人間ばかりだといわれているが、書いているほうとしては心理的な特徴を強調しているに過ぎないと思っている。ホームドラマのような作品では強調された性格はかえって邪魔になるかもしれない。

 さて、具体的におもしろいキャラクターを作り上げていくにはどうしたらいいだろう。

○役者の個性をそのまま生かす、あるいはその反対に役者の個性とまるっきり違うキャラクターにする。

○ストーリーの必要性からキャラクターを作っていく。

○実際に起こった事件や、他の小説からキャラクターを引っ張ってくる。

○日常の観察を細かくしておもしろい人間の特徴を捕まえる。

 役者の個性を生かすというのは座付き作家なら意識的にせよ無意識的にせよ、やっていることだろう。次のはストーリーが出来ていくのと同時作業となる。その次のは下手をすれば盗作となってしまう(キャラクターだけでなく、設定までパクったりしないこと)。結局は最後のが、つまり日常の観察を細かくして自分の価値観のフィルターに残ったキャラクターを育てていくのが最もいいことなのかもしれない。

 

03-10
アイデア

 

 "作品を書くときのアイデアはどうやって見つけるんですか"と訊かれることがある。あるいは"よく次から次へとアイデアが浮かんできますね"と言われることもある。確かに30本も芝居を書いていると30本分のストーリーを作ってきたわけで、こういうことを言われるのも当然かもしれない。

 ここで言うアイデアとは着想もしくは粗筋のことを指しているのだと思う。実は作品がどういうストーリーになっていくのかは書いてみるまでよくわかっていないし、アイデアもどうやって見つけるのか自分でもよく分からないことがある。

 ここではアイデアはアイデアのままで使うとうまくいかないことを忘れないで欲しいと言うだけに止めておく。実はもっと詳しい下書きを作ってみたのだが自分の言いたいことを言い表わせていないので、この問題については保留したいのだ。

 一番肝心なところをあいまいにしているなと非難する人もいるかもしれないが、あいまいな部分なので説明するのがとても難しいのだ。この章の前半で具体的な作品をテキストにしたのは比較的どうアイデアをつかんでくるのかが、説明しやすかったために他ならない。

 現象学的に言えばアイデアとは最初から見えているものだということも出来るが、こういう説明で分かりますか。もしこの説明で分かる人にはもうアイデアについて説明する必要がないし、この説明で分からないとえらく難しい話になるので、やっぱりやさしい言葉が見つかるまで保留というのが一番いいようだ。

 


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