真佐美 ジュン

昭和40年代、手塚治虫先生との思い出「http://mcsammy.fc2web.com」の制作メモ&「日々の日誌」

2011年1月22日 おそば道場

2011年01月22日 23時57分38秒 | ジェイコム
6,455位 / 1,524,510
昨日 :4221歩 起床時間 :6時30分
血圧 :119  70 脈拍 :66 体温 :35.8℃  体重 :67.8㎏
晴れ
7時体温、血圧、歯磨き洗顔
7時30分テレビを見る。
7時45分パソコン電源を入れ、下に行く、体重を計り 8枚切りでの朝食を、新聞のチラシを見ながら食べる。
 部屋に戻り着替え、メールなどチェック。8時45分パソコンの電源を切る。
粉が付いても良い様に、トレーナ上下を来てリックに必要書類など入れ背負ってバイクで家を出る。
 生涯学習センターに9時を少し過ぎて着き、料理教室を借りる、手続きをし、鍵を借りて地価の料理室に行く。電気周りや、備品などのありかをチェック、トイレの場所や非常口などチェックをする。
9時20分上に行っている。30分ジェイコム、荒明さん手伝って貰える人を一人つれ、こられる。挨拶。
 
10時前、狭山から、樋口先生らのグループ、会長さんを含めて12人が、たくさんの道具をも追ってお見えになり、調理室に運び始める。
ねぎや小売お茶などを買いに行くと言うので私も卵の安売りが、ヨーカドーで有るので、ジェイコムの人と2人で買い物に行く。
 卵を2パック確保、ねぎも特売、野菜売り場に行き2本確保、お茶のペットボトルも安くなっており2本買う、ヨーカドーのアイスが安いので2袋を買う。10時10分著李室に戻ると既にお二方がお見えになっていた。45分までロビーでくつろいでくれると言うのでお願いする。

10時少し前受講者が揃った所で、荒明さんの挨拶で開始、
ジェイコム局長の挨拶。
先ずは会長さんが。手本を見せる。


 始めに8人が講師とワンツーマンでそば打ちを開始。




ねぎを傍らで切って支度をしてくれる。
12時には早くも終わった人が出て、そのあと4名が引き続きそば打ちに入る。

13時 各々が打ちあがった見本で、講師の先生の指導で茹でに入る、
そして仕上がった人から、自分で打った麺の試食。
 皆さんおいしそうに食べている。年汁は会長さんの自家製。
次には、始めに会長さんが打った麺を食べさせる。するともっと美味しいと喜んでもらえる。
 安売りの卵2パックを冷蔵庫に入れておいた、それを会長さんが見つけ、これはなんだと田津寝るので「使っちゃってくださいと言うと、卵とじでも作ろうかと言ってくれた。
前に樋口先生から卵が有るとなど言われ、卵で食べるとまた美味しいと、聞いていたので正直、卵を買っておいたのにはそんな下心もあった。それが思わぬプレゼント。手間をかけて作ってくれ、皆さんに振舞ってくれた。こちらは暖かい、そしてまた輪をかけての美味しさで、とても喜ばれた。
14時には終了し、講師に来ていただいた特に婦人の方々が、手馴れた様子で後片付けとお掃除をしてくれた。
 そして今日は新年会だとお帰りになった。荒明さんと会場で別れ、アンケートを書いて鍵をお返しする。
 中央図書館に寄り、バイクで14時過ぎ家に戻る。妻の自転車が無く、既に出かけたことがうかがえた。お勝手にビザが一切れと、カップヌードルが置いてあった。子らが昼にピザを取ると言っていたと聞いていた、食べていいのとコタツに入っている次男に聞くと良いよ、との返事、食べる、半分食べると腹がくちくなり、部屋に行く。布団の上に横になり毛布をかけテレビをつける。
17時50分外は暗くなっている。洗濯物を取り込みに行くと長男も寝ていた。
 洗濯物をおろして、ピザの残りを食べる。パソコンをしている。
19時妻が帰っているようなので下に行く。早速そばを茹でると言うので、まだ夕食の支度に取り掛かっていない。のんびりしている。部屋に戻る。
20時前テレビを見ながらおそば3杯も食べる、食べすぎか、
50分部屋に戻る、ブログを書く
21時過ぎテレビをつけている。
22時風呂22時15分風呂から出る。
22時45分ブログを書き上げパソコンの電源を切って、布団に入る。
見るとはなしにテレビをつけてはいるが、と曜日なので見慣れた番組はやってはいない。
0時半には寝ようとして、電気を消し目をつぶる。しかし頭がまだ働いていて、あれほど眠かったのに冴えて来る。枕元そばに置いたモバイルのパソコン、電源を入れる。無線受信のスイッチを入れそのまましばらく待つ。電気をつける。明るすぎるので蛍光灯を片方だけつけるとちらちらと、切れかかっているのか、仕方なく両方をつけて置く。検索、クラシック作曲家、年代を調べる。シューマン、そしてクララシューマン。手塚フアンなら何を調べようとしたかわかるであろう。そう「野ばらよいつ歌う」である。
 初めて読んだのが、虫プロに第5スタジオが出来る寸前、まづは、波多まさみ先生のファンタジアと言うプロダクションが引越しをした。もと幼稚園、その東側の一室を借りた。外注として仕事の依頼に良く行ったが目的はそれだけではなかった。虫プロでは麻雀が出来ないと、仲間はずれになった。(一寸オーバーかな)そこで一生懸命麻雀を勉強するわけだが、プロ並みの腕を持った先輩たちに教わったのでは、月謝がいくらあっても足りなかった。月2回の給料片方が、月謝として消える事も有る。
 波多先生が麻雀の勉強を始めたのを切欠に、進行仲間が加わった。進行と言うのは待ち時間が多いので2抜けなどすれば、結構時間の都合が付いたのだ。
 5スたがスタートするまで、そこが溜まり場みたいになったが、順番が来るのを待つ間、波多さんが、雑誌連載の漫画を大事にファイルしたノートが置いてあった。麻雀より夢中になってそれらを読んだ。ちばてつやのママのバイオオリンや、連載中のユキの太陽などとであったのが、そのとき。
 すっかり少女漫画が気に入った私に、ならもっと凄いのが有るよといって大事にしていたファイルを見せてくれたのが、手塚治虫先生の「野ばらよいつ歌う」であった。
 音楽が好きであった私はあっという間に、その作品の虜になっていた。是非映像化したいと思ったものである。
 手塚先生にもその事を言った。未完のままでは残念でも有ると。すると「虹のプレリュード」と言う作品を送ってくれた、と勝手に私は思っているが。その作品は残念ながら私し好みではなかった印象が有る。
 手塚ファン大会で復刻版が出たことを知り、既に手に入らないその本を、何とか無理を言ってお借りして久しぶりに、読むことが出来たのだ。そうすると夢がどんどん膨らんできた。
 8人も子供を生んだクララを先生はどのように描いたのであろうか。指が動かなくなったシューマンがピアニストを諦め作曲家の道を選ぶエピソード、それより昭和35年の少女サンデーの廃刊で急遽結婚する?所で終わらせてしまっているが、ピアノの師匠と、弟子であるシューマン、が師匠の愛娘に恋したのであって、あの時代ならものすごい反対があっただろうし、その辺を今の韓国映画ぐらいには描いたのではないかと言う期待。シューマンの最後の言葉「私は知っている」をどのように描いたか、
その後の息子の描き方、ヨハネス・ブラームスと恋愛関係になったという説が私も当時は信じたが、手塚先生がどのようにえがいたか。そんな想像が、このごろは私の眠りに入る時間を遅らせている。
 私だったら、音楽をどんな風に使おうか。例えば、男装しての場面流浪の民を踊る場面など私は「流浪の民」より「愉快なジプシー生活」の民謡のほうが良いなと、メルモのあと、企画したときに、思ってきたことなどが甦ってくる。また手塚先生のお母様の部屋で伴奏していただきその歌を歌っていた事なども合わせて思い出している。2時はとうに過ぎていた。

コメント
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