9,301位 / 1,490,269
昨日 :6135歩
起床時間 :9時57分
血圧 :119 75
脈拍 :65
体温 :35.6℃
体重 :67.0㎏
テレビをつける、すでに9時57分であった。妻と西武園ゆうえんちで開催の2010リサイクルカーニバルに行く予定であった。下に行くとすでに妻は支度が済んでいた。と言うのも、次男が高校時代の友人たちと奥多摩のマス釣り上へバーベキューで、6時に起きて出かけたので日曜日にしては早起きしていたのだ。私と言えばDVDを見ていて寝たのが6時近かったので起きられなかった。部屋に戻り、着替えて自転車で、読売新聞販売店へいき、西武園の入場券2枚を頂いて来る。家に戻り支度をする。妻が外寒かったよ、と言うので、皮ジャンを着て行く、10時15分家を出る、前差をのバス停に35分に着く、今回の目の前でバスが通り過ぎ次のバスまでかなり待たされてしまう。妻は自転車で来ればとしきりに言う。これも昨日、自転車で花小金井駅まで行こうと言うような事を、私が言ったらしいが本人はその事を忘れ、新しくした歩行計を試したくて、歩くつもりになっていた、だから古いほうの歩行計も着けていた。11時バスに乗り花小金井駅へ行く。11時22分の拝島行に乗る、
西武遊園地に行くには小平駅で迷う、アナウンスを聞いて始発は小平と聞こえたような気がしたのだ、前のウォーキングの時萩山で乗り換えたような気がした、急行を待っていたので、乗ってきた電車にまた乗り、萩山駅へ行く、30分着いた。時間表を見ると、西武遊園地駅行が51分、29分のが行ったばかりなのであった。今回は妻が先手を取った。いつもなら文句を言いだすのが私、それなのに妻が、こんなに待つのか、自転車で来ればよかったとか、池袋線で西武球場のほうから来ればよかったのにとか、私が愚痴を言う暇を与えなかった。12時西武園遊園地に着く。
前にも何度か来ているが、その時はプールの中で開かれていたが、今回のはその周りの通路、だから狭くて歩きづらい、なかなか見て行けない。
朝食も食べていないので腹も空いてくる。それでも魔法のじゅうたんあたりでテンガロンハット風の帽子、妻が今度の「手治虫生誕記念ウォーキング」の時、かぶって行くのに良いと言うので買ってもらった、ほか数点妻が買ってはいたが、あまりめぼしいものはなく1周して変えることにし西武遊園地駅へ行く。東久留米駅まで260円、来るときはバスが190円で電車が200円、こちらのほうが安上がりである。14時2分の山口線で西武球場へ行く、西所沢行に乗る、3番ホーム乗り換えで準急で東久留米駅へ、東久留米駅近くの満州へ行く、餃子だけの店だと思っていたが、食事ができる事を知らなかった、ラーメンセットを注文、屋台のラーメン風で、好きな味であった。餃子が6個ついてきたがそんなには食べられず、妻と半分分けしたのが丁度良かった。
落合川に出て、氷川神社でお参り、六仙公園の中を突っ切り、16時前家に戻った。こたつで休憩したが妻はすぐに買い物に出かけて行った。
部屋に戻ってDVDを見ていた、17時30分妻が帰ってくる。18時半次男がバーベキューから帰ってくる。19時45分夕食、鍋。私だけ小さい鍋でキムチ味にしてくれる。次男が疲れているのか、席に着くのが遅くなり長男がしきりになくなるぞと次男に言う。私の鍋も一人で食べるには多すぎるので、次男によかったらこっちも食べなと残して部屋に戻る。
20時過ぎメールチェックでYahooのページをチェックしていると次のような記事が目に入った。
「ヤマト」製作西崎さん転落死=父島の港で船から海に―海保
時事通信 11月7日(日)19時57分配信
海上保安庁によると、7日午後0時35分ごろ、東京都小笠原村の父島の二見港で、人気アニメ「宇宙戦艦ヤマト」のプロデューサーだった西崎義展(本名弘文)さん(75)が船から海に転落、同村の診療所に運ばれたが、間もなく死亡が確認された。
21時 次男が部屋に来てYahooにニュースが出ていることを、教えてくれた。そしてMNSで産経ニュースでは以下のようなニュースが出ていた。
「宇宙戦艦ヤマト」プロデューサー、西崎弘文さんが船から転落死
2010.11.7 20:22
このニュースのトピックス:有名人の訃報
西崎義展氏=昭和53年8月
海上保安庁に入った連絡によると、7日午後0時45分ごろ、アニメ「宇宙戦艦ヤマト」のプロデューサー、西崎義展(本名・弘文)さん(75)が、東京都小笠原村父島の海で船から転落し、死亡が確認された。
小笠原海上保安署によると、西崎さんは乗員8人とともに民間調査船「YAMATO」(485トン)に乗って父島沖の海上に出ていた。沖に停泊し、遊泳しようとしていたという。死因などを調べている。
西崎さんは劇場用アニメ「宇宙戦艦ヤマト 復活篇」でプロデューサー兼監督を務めていた。「ヤマト」の著作者は自分だとして漫画家の松本零士さんと訴訟となったが、平成15年に過去の作品は両者の共同著作とすることで和解が成立していた。
西崎 弘文さんが亡くなったというニュース、昭和46年「ふしぎなメルモ」(アポロの歌)虫プロ商事の営業であり大阪ABCとの放送をまとめていた。そのことで手塚プロにおいても一躍英雄となり、手塚治虫先生の絶大な信用を得たのであった。
私とは大阪ABCとの交渉などで一緒に動いたという思い出が残っている。印象は豪快で実直、手塚先生に対しての忠実な仕事ぶりが見えていた。そして青いトリトンのテレビ放送も決めてきたときには、すでに、私が命令できる所からは、外れていた。それほど手塚先生の信頼を得た。そんな西崎さんが突然なくなるなんて、私はこの先何を目的にして、生きていけば良いのだろうか、目標を失った。
信頼から、裏切り、手塚キャラクターの版権を騙し取り、その後も悪行の限りを尽くし、法に触れないように上手く立ち回り、巨大な帝国を作り上げ、私など到底手の届かない所に上り詰めていたのに、一つ覚せい剤で踏み外し、二度目の銃器での入牢。亡き手塚先生の無念を知らないはずはないのに、牢中では、少しも反省せず、上申書による泣き言ばかり並べ、自己主張ばかりしていた。そのたびに、いつかは自分の犯した罪を反省して悔い改める日が来るのではと、期待していたが、とうとうその期待にもこたえてくれないまま、手塚先生のもとへ行ってしまった。11月3日は手塚先生の生誕記念日に当たる。それを彼も知らないはずはなく死の間際どんな懺悔が脳裏をかすめたのであろうか、冥福を祈り、手塚先生に許しを請うことを祈るばかりである。
私同様手塚先生も彼の良いおもいでばかり残っているので、きっと許してもらえると思うが、気がかりなのは、この世であまりにも多くの業を積み重ねているので、手塚先生と同じように天国へ行けたかどうかが心配である。しばらく待っていてもらって、私が行ったなら、昔のように先生との中に入り仲介するのでそれまで待っていてもらいた。
最後に冥福を祈らずにはおられない。
22時風呂に入る、22時50分風呂から出る。岡部先生にメールを打つ22時56分電話をもらい西崎さんの冥福を祈る。お墓にも報告をしに行かなければなど考えるとまた眠れない。
昨日 :6135歩
起床時間 :9時57分
血圧 :119 75
脈拍 :65
体温 :35.6℃
体重 :67.0㎏
テレビをつける、すでに9時57分であった。妻と西武園ゆうえんちで開催の2010リサイクルカーニバルに行く予定であった。下に行くとすでに妻は支度が済んでいた。と言うのも、次男が高校時代の友人たちと奥多摩のマス釣り上へバーベキューで、6時に起きて出かけたので日曜日にしては早起きしていたのだ。私と言えばDVDを見ていて寝たのが6時近かったので起きられなかった。部屋に戻り、着替えて自転車で、読売新聞販売店へいき、西武園の入場券2枚を頂いて来る。家に戻り支度をする。妻が外寒かったよ、と言うので、皮ジャンを着て行く、10時15分家を出る、前差をのバス停に35分に着く、今回の目の前でバスが通り過ぎ次のバスまでかなり待たされてしまう。妻は自転車で来ればとしきりに言う。これも昨日、自転車で花小金井駅まで行こうと言うような事を、私が言ったらしいが本人はその事を忘れ、新しくした歩行計を試したくて、歩くつもりになっていた、だから古いほうの歩行計も着けていた。11時バスに乗り花小金井駅へ行く。11時22分の拝島行に乗る、
西武遊園地に行くには小平駅で迷う、アナウンスを聞いて始発は小平と聞こえたような気がしたのだ、前のウォーキングの時萩山で乗り換えたような気がした、急行を待っていたので、乗ってきた電車にまた乗り、萩山駅へ行く、30分着いた。時間表を見ると、西武遊園地駅行が51分、29分のが行ったばかりなのであった。今回は妻が先手を取った。いつもなら文句を言いだすのが私、それなのに妻が、こんなに待つのか、自転車で来ればよかったとか、池袋線で西武球場のほうから来ればよかったのにとか、私が愚痴を言う暇を与えなかった。12時西武園遊園地に着く。
前にも何度か来ているが、その時はプールの中で開かれていたが、今回のはその周りの通路、だから狭くて歩きづらい、なかなか見て行けない。
朝食も食べていないので腹も空いてくる。それでも魔法のじゅうたんあたりでテンガロンハット風の帽子、妻が今度の「手治虫生誕記念ウォーキング」の時、かぶって行くのに良いと言うので買ってもらった、ほか数点妻が買ってはいたが、あまりめぼしいものはなく1周して変えることにし西武遊園地駅へ行く。東久留米駅まで260円、来るときはバスが190円で電車が200円、こちらのほうが安上がりである。14時2分の山口線で西武球場へ行く、西所沢行に乗る、3番ホーム乗り換えで準急で東久留米駅へ、東久留米駅近くの満州へ行く、餃子だけの店だと思っていたが、食事ができる事を知らなかった、ラーメンセットを注文、屋台のラーメン風で、好きな味であった。餃子が6個ついてきたがそんなには食べられず、妻と半分分けしたのが丁度良かった。
落合川に出て、氷川神社でお参り、六仙公園の中を突っ切り、16時前家に戻った。こたつで休憩したが妻はすぐに買い物に出かけて行った。
部屋に戻ってDVDを見ていた、17時30分妻が帰ってくる。18時半次男がバーベキューから帰ってくる。19時45分夕食、鍋。私だけ小さい鍋でキムチ味にしてくれる。次男が疲れているのか、席に着くのが遅くなり長男がしきりになくなるぞと次男に言う。私の鍋も一人で食べるには多すぎるので、次男によかったらこっちも食べなと残して部屋に戻る。
20時過ぎメールチェックでYahooのページをチェックしていると次のような記事が目に入った。
「ヤマト」製作西崎さん転落死=父島の港で船から海に―海保
時事通信 11月7日(日)19時57分配信
海上保安庁によると、7日午後0時35分ごろ、東京都小笠原村の父島の二見港で、人気アニメ「宇宙戦艦ヤマト」のプロデューサーだった西崎義展(本名弘文)さん(75)が船から海に転落、同村の診療所に運ばれたが、間もなく死亡が確認された。
21時 次男が部屋に来てYahooにニュースが出ていることを、教えてくれた。そしてMNSで産経ニュースでは以下のようなニュースが出ていた。
「宇宙戦艦ヤマト」プロデューサー、西崎弘文さんが船から転落死
2010.11.7 20:22
このニュースのトピックス:有名人の訃報
西崎義展氏=昭和53年8月
海上保安庁に入った連絡によると、7日午後0時45分ごろ、アニメ「宇宙戦艦ヤマト」のプロデューサー、西崎義展(本名・弘文)さん(75)が、東京都小笠原村父島の海で船から転落し、死亡が確認された。
小笠原海上保安署によると、西崎さんは乗員8人とともに民間調査船「YAMATO」(485トン)に乗って父島沖の海上に出ていた。沖に停泊し、遊泳しようとしていたという。死因などを調べている。
西崎さんは劇場用アニメ「宇宙戦艦ヤマト 復活篇」でプロデューサー兼監督を務めていた。「ヤマト」の著作者は自分だとして漫画家の松本零士さんと訴訟となったが、平成15年に過去の作品は両者の共同著作とすることで和解が成立していた。
西崎 弘文さんが亡くなったというニュース、昭和46年「ふしぎなメルモ」(アポロの歌)虫プロ商事の営業であり大阪ABCとの放送をまとめていた。そのことで手塚プロにおいても一躍英雄となり、手塚治虫先生の絶大な信用を得たのであった。
私とは大阪ABCとの交渉などで一緒に動いたという思い出が残っている。印象は豪快で実直、手塚先生に対しての忠実な仕事ぶりが見えていた。そして青いトリトンのテレビ放送も決めてきたときには、すでに、私が命令できる所からは、外れていた。それほど手塚先生の信頼を得た。そんな西崎さんが突然なくなるなんて、私はこの先何を目的にして、生きていけば良いのだろうか、目標を失った。
信頼から、裏切り、手塚キャラクターの版権を騙し取り、その後も悪行の限りを尽くし、法に触れないように上手く立ち回り、巨大な帝国を作り上げ、私など到底手の届かない所に上り詰めていたのに、一つ覚せい剤で踏み外し、二度目の銃器での入牢。亡き手塚先生の無念を知らないはずはないのに、牢中では、少しも反省せず、上申書による泣き言ばかり並べ、自己主張ばかりしていた。そのたびに、いつかは自分の犯した罪を反省して悔い改める日が来るのではと、期待していたが、とうとうその期待にもこたえてくれないまま、手塚先生のもとへ行ってしまった。11月3日は手塚先生の生誕記念日に当たる。それを彼も知らないはずはなく死の間際どんな懺悔が脳裏をかすめたのであろうか、冥福を祈り、手塚先生に許しを請うことを祈るばかりである。
私同様手塚先生も彼の良いおもいでばかり残っているので、きっと許してもらえると思うが、気がかりなのは、この世であまりにも多くの業を積み重ねているので、手塚先生と同じように天国へ行けたかどうかが心配である。しばらく待っていてもらって、私が行ったなら、昔のように先生との中に入り仲介するのでそれまで待っていてもらいた。
最後に冥福を祈らずにはおられない。
22時風呂に入る、22時50分風呂から出る。岡部先生にメールを打つ22時56分電話をもらい西崎さんの冥福を祈る。お墓にも報告をしに行かなければなど考えるとまた眠れない。
つまり西崎氏が取得したという版権は、
タイトルや名称などの商標権やデザインの意匠権などでなく、
手塚先生のキャラクターの著作権ということでしょうか。
それで、西崎氏が手塚キャラクターを取得して、手塚先生が
自由にキャラクターを使えなくなったのは1972年5月頃であると。
ただ不思議なのは、一時とはいえ権利が西崎氏のものになったのなら
(C)手塚治虫となっているクレジットが(C)西崎義展になってないことです。
>ですから版権を買戻し始めるまでは、手塚先生の作品の中に今までは
>虫スタートして登場させていた「ひょうたん次や火の鳥、アトム、」
>など、まったく登場していないはずです。
1972年5月に西崎氏にキャラクターを奪われたとのことですが、
年譜を見ると、「鉄腕アトム」を「小学一年生」に1972年4月から10月まで
「小学四年生」では1972年4月から翌年3月まで連載しているのです。
1973年には一時復刊した「COM」の8月号で「火の鳥乱世編」も掲載されています。
さらに1973年11月から手塚キャラクター総出演の「ブラックジャック」の連載が
「少年チャンピオン」で連載スタートです。
当時の手塚キャラクターの著作権を西崎氏が所有していたのであれば、
手塚先生とは別に何らかの形で西崎氏の名前が漫画にクレジットされていたと思います。
>版権が入らなく(使えなく)なって昭和48年8月虫プロ商事が倒産し
>11月には虫プロも倒産しました。
「サンデー毎日」1973年1月14日号「奇跡的によみがえる鉄腕アトム・
手塚治虫の超能力」という記事でこんな記述がありました。
「代表作『鉄腕アトム』の主人公の図柄をつければ、子供の
ものなら何でも売れるというので、その権利をめぐって
あらゆる業者がやってくる。手塚さんの側近、あるいは側近を
自称する人たちが、勝手に意匠登録を売ったとか、売る約束を
したとか。つまり、明治製菓も占有権を主張し、(以下略)」
この側近というのが西崎氏だったのでしょうか。意匠登録ということ
なので、著作権ではなく意匠権の方だと思います。
手塚先生も1980年から1981年の日本テレビで放送のリメイク版「鉄腕アトム」
のコメントで明治製菓の問題について触れていました(「マイアニメ」1982年2月号)
「アトムの前のスポンサーだったM製菓が、アトムのお菓子の権利をずっと
持っていて、ほかのお菓子会社がスポンサーにつけない事情とか、そのほかにも
いろいろです。しかし、そういった問題がやっと解決したので、天下晴れて、
アトムが再製作できるようになったわけです」
もともと「鉄腕アトム」のリメイク企画だった「ジェッターマルス」でも、
ヒゲオヤジやスカンク草緯などの手塚キャラクターは登場しており、
手塚先生は1976年にも「鉄腕アトム」を漫画で発表しており、アニメでなければ
自由に使えたようファンからは見えます。
「ムーミン」については、ズイヨーの製作です。最初の26話は東京ムービーが下請けで
作っていたものを下請け先が虫プロになったという経緯で、もともとアニメ版の
著作権はズイヨーで、最初から虫プロには権利がありません。
http://www.mushi-pro.co.jp/%E7%89%88%E6%A8%A9%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E6%B3%A8%E6%84%8F%E4%BA%8B%E9%A0%85/
「ムーミン」については原作者のトーベ・ヤンソン氏がズイヨー版ムーミンを
気に入っておらず、平成になって他社で「ムーミン」のアニメがリメイクされた
(「楽しいムーミン一家」)ことがDVD化に影響しているのだと思います。
ズイヨー製作で虫プロが制作というのは他に「アンデルセン物語」がありますが、
こちらはDVDになっていますね。
生前、版権を取り戻そうとした手プロは、先生の許可を得るため「西崎との、交渉」と言おうとして西と言っただけで、[その人の名前は言わないでください]
と、烈火のごとく怒りだしたと言います。
西崎が先生を、だましたのは海のトリトンの制作が始まって居た頃ですから昭和の47年5月ごろでした。このころは手プロとスタッフルームとで交互に10本制作していたころです。その後、それまでの手先生のキャラクターがまったく使用できなくなりました、ですから版権を買戻し始めるまでは、手先生の作品の中に今までは虫スタートして登場させていた「ひょうたん次や火の鳥、アトム、」など、まったく登場していないはずです。
版権が入らなく(使えなく)なって昭和48年8月虫プロ商事が倒産し11月には虫プロも倒産しました。
あなたの言う葛西さんや変な詐欺師が登場するのは先生の負債に関してです。虫プロ名義と言うのはフイルムでありあくまで虫プロダクションのことですので、手治虫個人の作品の版権ではありません。
虫プロ作品でも西崎の登場でいまだにDVDにできない作品が数あります、虫プロのムーミンなどがそうですよね。
今の虫プロ(㈱ の伊藤社長は倒産後最後まで残って社員を守るためとても苦労をなさっております。それを見た手先生が虫プロの作品は虫プロ(㈱に、と言う約束ができたのです。
先生は生前とてもお金に困っていました、
しかし現在手プロはほとんどの版権を大金を払って取り戻していますので、そのおかげで今いる手プロの社員は、版権収入だけでもやっていけるそうだと聞いております。
最後に私たちの仲間に悪い人はいないと思っております、西崎さんもとても良い人で手先生からも絶大な信用を短時間で得た人です。私的にも、友人でしたし、同じ苦労をした仲間でしたので、あまり触れたくはないのですが、事実は事実ですし、ほかに、この事を知っている生き残りが居ないので虫プロ倒産時期の記録が暗黒になってしまっているので、書かせてもらっているわけです。
ご理解ください
実は手塚キャラクターの版権が西崎氏に奪われたということですが、以前から気になっていていたことがあるのです。
版権というのは商標権のことでしょうか。
巽尚之著『鉄腕アトムを救った男』によれば、虫プロ倒産時に600以上あった虫プロ名義の手塚作品の登録商標がアップリカの葛西健蔵社長の名義に変更されたことで、商標が債権者から守られたという記述があります。その後、葛西氏から手塚先生に商標は戻されたというのです。
著作権が奪われたというのなら、(C)などの著作権表記が西崎氏になったはずですが、なぜかそうなってるものを見かけたことがありません。
何か事情があったのでしょうか。