貢蕉の瞑想

青梅庵に住む貢蕉の日々のつぶやきです。

接待場所 ~江戸時代

2019-08-05 09:06:43 | 日記

接待場所 ~江戸時代

令和元年8月5日

 今日も心華やぐ一日となり

ますように!

 しきりに鳴く蝉たちの音楽を

耳にしながら…清水市へ。

 

 東海道本線が清見寺の間を

ぬって走る。

 

 

清見寺。二度目の参拝!

 奈良時代の創建。

 鎌倉時代に禅寺として復興し、

足利尊氏や今川義元の帰依を受け

て繁栄。

 また、その頃、徳川家康は今川氏

に人質としてあったが、当寺の住職

太原雪斎に師事し、当寺で勉強して

いた。

 「家康手習いの間」も残っている。


 

 この地は、交通の要衝であり、

武田氏による駿河侵攻の際には、

今川氏真が本陣を構えたものの、

薩埵峠の戦いによる家臣の相次

ぐ離反、武田方への内通により

戦わずして駿府城に撤退。 

 江戸時代には徳川氏の庇護を

受けた他、東海道の目の前にあ

ることから、朝鮮通信使や琉球

使の接待がここで行われる。   

 広島県福山市鞆町にある福禅

寺、岡山県瀬戸内市牛窓町にあ

る本蓮寺と共に朝鮮通信使遺跡

として国の史跡に指定されてい

る。

 また、庭園も国の名勝に指定

されている。

 家康お手植えの「臥龍梅」。

 明日は、庭園を楽しむことに!


もっと話し、もっと聴きたかった!

2019-08-04 09:34:09 | 日記

もっと話し、もっと聴きたかった!

令和元年8月4日

 今朝は昨日戴いた信州の

新鮮玉子で、半世紀ぶりかな?

玉子かけご飯をいただいた。

 黄身が満月のように輝き、

ぷりぷり。

 するするとご飯を包み込んで

しまう。

 改めて安心して食べられる

ことは幸せだな!

と実感する。

 さあ、観音堂から300段、

気をつけて下りよう。

 観音堂と百景の富士と芭蕉の

句碑とお別れ!

 そうそう、古い瓦もこんな風に

敷き詰められると、趣も一段と・・・。

 

 芭蕉の句に戻る。

 伊予の俳人井(せい)海(かい)から

贈られた歌仙一巻に対する返礼と

して「歌仙の讃」を送ったという。

その讃と句。

 天和3年夏、甲州にての作とさ

れているが、芭蕉が滞在した谷村

(都留市)から富士は見えない。

 嘱目の吟ではなく、観念の作?

 句碑の背面。細かく記載されて

いる。

 

「雲が走り、霧が急に立ち上る。

瞬間瞬間にその景色を変える富士の

景色。

 瞬く間に百景を形成する。

 この富士の美を表すに詩人も画工も

文人もかなわない。

 藐(は)姑(こ)射(や) の神人なら

それができるというのだろうか?」

※ 藐姑射とは、中国で超人的な神仙

が住むという山の名前だそう。  

 帰路は慎重にそして軽やか。

下る300段はあっという間である。

 まだ草取りをしているお二人に、

「いやあ、絶景でした。芭蕉の句碑が

あそこに建てられた意味が分かりま

した。」

と謝意を込めて感動を伝えると、

先程の女性がつうっと寄って来られ、

「この寺は、西行法師のものが残っ

ていて・・・。」

と西行のことを学生時代から慕って

きたことを語られる。

 芭蕉と西行の話、

 西行の最愛の人の話をしたり、

西行の最後は、花の下での自死だった

のではないかという説などで、

花が咲く。

 千葉のご出身ということで、余計

身近に!

 もっとゆったり話したいけれど、

先を急ぐ身、丁重に御礼を述べ、

お別れすることに・・・。  

 また機会があれば参拝したいと

願っている。


雲霧の暫時百景

2019-08-03 09:00:46 | 日記

雲霧の暫時百景

令和元年8月3日

 さあ、観音堂へ上るぞ!

 幾多の石仏地蔵などを左右に

楽しみながら、上りきった処に、

芭蕉の句碑。

「観音堂の手前の樹木を、やっと

伐採してださったので、清水港など

とても見晴らしがいいですよ!」

と、ご婦人が語っておられたとおり。

見事な光景が眼下に広がる!

 富士山から白雲が自ら音楽を奏で、

見事な清水の港町が眺められる。

 観音堂参拝

 

 この一番見事な景色を、永久に

見守っているところに芭蕉句碑も

建立されると察知。

 こんなに映えた句碑もないだ

ろう!    

「雲霧の 暫時百景を 

    尽くしけ理」 芭蕉

 改めて富士の美しさに、暫く我を

忘れる。

天女も舞うだろう。きっと!

一気に上った階段を、ほんと、

滑り落ちないよう一歩一歩、

確かめながら下りる。

 風も緑風。地蔵も楽しみながら・・・!

最高の旅となる。

 


朱印寺領って?

2019-08-02 06:59:31 | 日記

朱印寺領って?

令和元年8月2日

「朱印領および黒印領とは、

 江戸時代幕府大名より神社

寺院の領地(寺社領)として安堵

(領有権の承認・確認)された土地

のことである。

 朱印領は幕府より朱色の印(朱印

が押された朱印状により、黒印地は

大名より黒の印(黒印)が押された

黒印状により所領の安堵がなされた

ことに由来する

 元々寺社寺領・神領などと呼ば

れる広大な所領を有していたが、

戦国時代に諸大名により所領が

次第に侵蝕され、豊臣秀吉太閤検地

でほとんどが所領を失なう。

 江戸時代に入り、各寺社に、かつて

領有していた土地の一部が返還され、

幕府・大名より朱印状・黒印状に

よってその所領が安堵された。

 朱印地・黒印地は寺社の私有地

ではなく公領という扱いであるが、

領内の租税は免除されており、

収益は全て寺社のものとなった。

 しかし、その土地は最も広い

高野山日光東照宮でも1万石程度、

最も狭いものではわずか1石で、

朱印地・黒印地からの収益だけで

寺社の経営が成り立った例はほとん

どなく、多くは自ら開墾した土地、

あるいは大名などから寄進された

金銭で経営を維持していた。」

ということ。

  さて、鉄舟寺の由緒。

 飛鳥時代藤原氏の出身である久能

忠仁が、現在の久能山東照宮付近に

建立した堂に始まる。

 その後、奈良時代の僧行基が

来山して久能寺と号したという

(『久能寺縁起』)。

 平安時代に入って天台宗に改め

られ、建穂寺と駿河を二分する

勢いで栄える。

 永禄13年(1570)、武田信玄が

久能山に城を作るため現在地に

移され、宗旨も変わる。 

 江戸時代には朱印寺領として

200石余りを与えられ、多くの

支坊を有したが、江戸時代後期

あたりから衰退。

 明治に入ると無住になって寺は

荒廃してしまう。 

 その後、旧幕臣で明治以降に静岡

藩権大参事も務めたこともある

山岡鉄舟が、臨済寺から今川貞山を

招いて復興し、寺号も鉄舟寺と改

める。

 そのため、鉄舟の書跡の遺品も多い。

 鉄舟寺のいわれもよく分かった。

 この人が、鉄舟。

鉄舟の略歴碑

鐘楼

文殊地蔵

身代わり観音


一気に300段!

2019-08-01 08:55:48 | 日記

一気に300段!

令和元年8月1日

 昨日は、

『ぼくの細道 芭蕉の小径 パートⅡ』

が完成したとの連絡があり。

 受領!

 校正だけで、8ヶ月を費やした

労作である。感慨深し!

 今日も猛暑日。

 梅干しも3日目。梅のいい香り!

 さあ、鉄舟寺へ。 

 鉄舟寺は二度目の参拝!

 山門前で二人の女性が除草作業。

 挨拶をして違う所から入る。

先ず、鉄舟寺参拝。

 鉄舟寺裏山の観音堂手前に、

芭蕉句碑があるという情報。

 裏山らしき処を探索。

 それらしき物見当たらず。

 半ば諦め、草取りをしている方に

尋ねることに。

「観音堂はどこにありますか。

そこに、芭蕉の句碑があると

聞いてきたのですが…?」

 作業を中止し、観音堂へ上る

処まで案内してくださる。

「300段ぐらい階段がありま

すが、大丈夫ですか。」

と、私の足などを一瞥、心配し

てくださる。

 「大丈夫でしょう。」と応え、

登り始める。

 物腰、品性からいい、

「鉄舟寺はもともと観音・・・。」

という語りから推測。 

 この寺の奥様らしい。

 276段以上はあったが、

一気にあがることができ、多少

足腰に自信もついてきた。