☆20年ほど前、中島らものエッセイを読んでいたら、こんな話があった。
<・・・僕は会議やなんかで議論していて、長広舌で持論を語っていると、いつの間にやら、主張していたことと反対のことを言っている自分に気づき、「あっ!?」と思うときがある。>
これ、当時、酒の席などで友人と議論をすることの多かった若き私にもたびたび起こった現象で、何とも身につまされてよく分かった^^;
中島らもの言うことには共感すれども、私自身の中では、そんな「矛盾」は酷く不愉快なものだった。
で、何とか矛盾解消・整合性をつけようとすると、論旨は更に深みにはまり、何が何やら分からない主張になっていく。
◇
私は、なんでそんな「矛盾」が自ら生まれるのだろうと、ずーっと考えてきた。
で、十年ほど前からネット生活に入り、そこでも多くの議論をして、時には成功し、時には失敗し、その答えが次第に分かってきた。
「矛盾」はこのように生まれる。
自分の理屈があり、それを語っていると、議論相手は、「この場合はどうだ?」と幾つも具体例をぶつけてくる。
その具体例に、自分の持論を当てはめようとすると、どうしても無理が生じてくるのだ。
特に、議論相手は、議論しているのだから、こっちの理屈に合わない具体例をぶつけてくるものだ。
ここは謙虚に、その事実を素直に受けとれば、
それは自分の経験や、自分の理性から得た持論(抽象概念)は、他の具体例に当てはまるとは限らない、ということを意味する。
だから、私は、極力、抽象概念(理)と具体例(情)を区別して考えるようになった。
そうすると、私の日頃の主張とは相容れないように見える事例も、その事例を丹念に紐解いていけば、「ああ、その場合ならばしょうがないな」と理解できることも多いのだ。
◇
私は、このサイトにおいて、映画レビューを多く書いているが、時に、全く正反対の理屈の流れで映画を評す。
だが、他の映評ブロガーは、そこには文句を言ってくることはない。
何故なら、対象作品が違うからである。
似た作品に思えても、作品の構成要素の配合が異なるのを、映評ブロガーたちは自分の経験に照らし合わせて理解できているからだろう(たまに、青い人もいるけれど・・・^^;)。
◇
しかし、政治思想や論壇・文壇は違う。
深い世界だが、こうしてネット上で繰り広げられると、間口も広く、浅はかなのに、異常に凝り固まった人間が多く進入してきて、生息している。
そう言った人間は頑固な保守派に多そうで、実は左翼に多い。
「いかなる戦争も反対」などと言う左翼標語一つ取っても、その偏見に辟易させられる。
だが、保守派と左翼は住み分けも出来ているので、表舞台でしか対決し得ない点もある。
始末に悪いのが、保守派内の標語野郎だ。
例えば、「反フェミ」の野郎の、あまりにもイッちゃっている、現実と全く折り合いのつかない戯言を聞いていると、イライラしてくる。
そういうヤカラに対すると、私はさすがに無視することにしている。
と、ちょっと話が逸れた^^;
◇
何でこんなことを書いているかと言うと、小林よしのり氏にムカついているからだ。
彼は、『ゴーマニズム宣言』において、ずーっと、中島らもの言うところの「あっ!?」を繰り返し続けている。
数年前の前言を翻して翻して翻し続けているのである。
今など、その「天皇論」で、個別の具体例に踊らされ続けていて、保守派の中で孤立を深めている。
私は特に、新田均先生への無礼には腹が立っている。
(参考)<新田均のコラムブログ>(クリック!)
私はかつて、小林よしのりの「それ(変節)」に対して、「具体例が異なるから、矛盾ではない」と擁護したことがある。
しかし、実は、その私の概念も、小林よしのり氏には当てはまらない。
・・・小林よしのり氏は、ただ単に「青かった」と断じるしかない。
『ゴーマニズム宣言』にかぶれて、政治や歴史・思想を論じる者を「コヴァ」とネット上では揶揄されている。
「コヴァ」は青く、そして、小林よしのりも、実は青かったのだ。
小林よしのりは、その主張をコロコロ変えるのだが、何で変わるのかのシステムを簡単に記そう。
例えば、小林よしのりは、つい最近まで、天皇の女系などは認めていなかったのだ。
しかし、多くの具体例が押し寄せてきて、それに自分の考え方を整合させようと四苦八苦しているうちに、「あっ!?」と、いつの間にやら、逆の主張をしている自分がいたに過ぎないのである。
そこには、自分の理と、外界の具体例を別個のものとし、細分化し検討し考えていく「大人の視点」が存在していなかったのである。
◇
(例え話)
母親を殺人鬼に殺された子供がいたとする。
ずーっと、母親の理不尽な不在を嘆き、彼は「人はけして殺してはならない」と言う考え方を持つに至ったとする。
だが、その後も、その殺人鬼は人を殺し続ける。
彼は、遂に、その殺人鬼と対峙する。
逃せば、その殺人鬼はこれからも殺人を犯し続けるだろう。
彼は、殺人鬼を殺す。
すると、途端に彼は、「殺人しても別にいい」と言う考え方を持ち、「人はけして殺してはならない」と言う考え方を捨て去る。
・・・突拍子もないが、それが小林よしのりの「変節」の流れである。
◇
自分の考えに固執続けた故に、その考えが当てはまらない事例を前に、それが「例外(別の理屈の概念)」であることに考えを移行できず、それまでの思想を完全に捨て去ってしまうのだ。
おかしいのである。
母親の死を契機に、殺人を認めていなかった自分なのに、いつの間にやら、母親の殺人さえも容認するような思考の「矛盾」を生じさせるのだ。
小林よしのりの言説には、かような、思考の初動を完全に破壊するような結論が多い。
命の大切さを主張していたはずが、いつしか、命を蔑ろにするようなことを言う。
優しさを至上としていたはずが、憎しみの権化と化す。
自己の存在の基底を平気でぶち壊して、それを異常事態と感受する精神もない。
アイデンティティーの喪失である。
しかも、小林よしのりが「変節」するときの「起伏」は、それ以前の「起伏」よりも必ず矮小化している。
年々、よりちっちゃな事件で「変節」を繰り返している。
◇
・・・そんな人物に振り回される周囲の者や読者はたまったもんじゃない。
それまでの自分の考え方や直感や経験を、瑞々しく記憶でき得ない者は、保守派でもない。
(2010/11/11)
<・・・僕は会議やなんかで議論していて、長広舌で持論を語っていると、いつの間にやら、主張していたことと反対のことを言っている自分に気づき、「あっ!?」と思うときがある。>
これ、当時、酒の席などで友人と議論をすることの多かった若き私にもたびたび起こった現象で、何とも身につまされてよく分かった^^;
中島らもの言うことには共感すれども、私自身の中では、そんな「矛盾」は酷く不愉快なものだった。
で、何とか矛盾解消・整合性をつけようとすると、論旨は更に深みにはまり、何が何やら分からない主張になっていく。
◇
私は、なんでそんな「矛盾」が自ら生まれるのだろうと、ずーっと考えてきた。
で、十年ほど前からネット生活に入り、そこでも多くの議論をして、時には成功し、時には失敗し、その答えが次第に分かってきた。
「矛盾」はこのように生まれる。
自分の理屈があり、それを語っていると、議論相手は、「この場合はどうだ?」と幾つも具体例をぶつけてくる。
その具体例に、自分の持論を当てはめようとすると、どうしても無理が生じてくるのだ。
特に、議論相手は、議論しているのだから、こっちの理屈に合わない具体例をぶつけてくるものだ。
ここは謙虚に、その事実を素直に受けとれば、
それは自分の経験や、自分の理性から得た持論(抽象概念)は、他の具体例に当てはまるとは限らない、ということを意味する。
だから、私は、極力、抽象概念(理)と具体例(情)を区別して考えるようになった。
そうすると、私の日頃の主張とは相容れないように見える事例も、その事例を丹念に紐解いていけば、「ああ、その場合ならばしょうがないな」と理解できることも多いのだ。
◇
私は、このサイトにおいて、映画レビューを多く書いているが、時に、全く正反対の理屈の流れで映画を評す。
だが、他の映評ブロガーは、そこには文句を言ってくることはない。
何故なら、対象作品が違うからである。
似た作品に思えても、作品の構成要素の配合が異なるのを、映評ブロガーたちは自分の経験に照らし合わせて理解できているからだろう(たまに、青い人もいるけれど・・・^^;)。
◇
しかし、政治思想や論壇・文壇は違う。
深い世界だが、こうしてネット上で繰り広げられると、間口も広く、浅はかなのに、異常に凝り固まった人間が多く進入してきて、生息している。
そう言った人間は頑固な保守派に多そうで、実は左翼に多い。
「いかなる戦争も反対」などと言う左翼標語一つ取っても、その偏見に辟易させられる。
だが、保守派と左翼は住み分けも出来ているので、表舞台でしか対決し得ない点もある。
始末に悪いのが、保守派内の標語野郎だ。
例えば、「反フェミ」の野郎の、あまりにもイッちゃっている、現実と全く折り合いのつかない戯言を聞いていると、イライラしてくる。
そういうヤカラに対すると、私はさすがに無視することにしている。
と、ちょっと話が逸れた^^;
◇
何でこんなことを書いているかと言うと、小林よしのり氏にムカついているからだ。
彼は、『ゴーマニズム宣言』において、ずーっと、中島らもの言うところの「あっ!?」を繰り返し続けている。
数年前の前言を翻して翻して翻し続けているのである。
今など、その「天皇論」で、個別の具体例に踊らされ続けていて、保守派の中で孤立を深めている。
私は特に、新田均先生への無礼には腹が立っている。
(参考)<新田均のコラムブログ>(クリック!)
私はかつて、小林よしのりの「それ(変節)」に対して、「具体例が異なるから、矛盾ではない」と擁護したことがある。
しかし、実は、その私の概念も、小林よしのり氏には当てはまらない。
・・・小林よしのり氏は、ただ単に「青かった」と断じるしかない。
『ゴーマニズム宣言』にかぶれて、政治や歴史・思想を論じる者を「コヴァ」とネット上では揶揄されている。
「コヴァ」は青く、そして、小林よしのりも、実は青かったのだ。
小林よしのりは、その主張をコロコロ変えるのだが、何で変わるのかのシステムを簡単に記そう。
例えば、小林よしのりは、つい最近まで、天皇の女系などは認めていなかったのだ。
しかし、多くの具体例が押し寄せてきて、それに自分の考え方を整合させようと四苦八苦しているうちに、「あっ!?」と、いつの間にやら、逆の主張をしている自分がいたに過ぎないのである。
そこには、自分の理と、外界の具体例を別個のものとし、細分化し検討し考えていく「大人の視点」が存在していなかったのである。
◇
(例え話)
母親を殺人鬼に殺された子供がいたとする。
ずーっと、母親の理不尽な不在を嘆き、彼は「人はけして殺してはならない」と言う考え方を持つに至ったとする。
だが、その後も、その殺人鬼は人を殺し続ける。
彼は、遂に、その殺人鬼と対峙する。
逃せば、その殺人鬼はこれからも殺人を犯し続けるだろう。
彼は、殺人鬼を殺す。
すると、途端に彼は、「殺人しても別にいい」と言う考え方を持ち、「人はけして殺してはならない」と言う考え方を捨て去る。
・・・突拍子もないが、それが小林よしのりの「変節」の流れである。
◇
自分の考えに固執続けた故に、その考えが当てはまらない事例を前に、それが「例外(別の理屈の概念)」であることに考えを移行できず、それまでの思想を完全に捨て去ってしまうのだ。
おかしいのである。
母親の死を契機に、殺人を認めていなかった自分なのに、いつの間にやら、母親の殺人さえも容認するような思考の「矛盾」を生じさせるのだ。
小林よしのりの言説には、かような、思考の初動を完全に破壊するような結論が多い。
命の大切さを主張していたはずが、いつしか、命を蔑ろにするようなことを言う。
優しさを至上としていたはずが、憎しみの権化と化す。
自己の存在の基底を平気でぶち壊して、それを異常事態と感受する精神もない。
アイデンティティーの喪失である。
しかも、小林よしのりが「変節」するときの「起伏」は、それ以前の「起伏」よりも必ず矮小化している。
年々、よりちっちゃな事件で「変節」を繰り返している。
◇
・・・そんな人物に振り回される周囲の者や読者はたまったもんじゃない。
それまでの自分の考え方や直感や経験を、瑞々しく記憶でき得ない者は、保守派でもない。
(2010/11/11)