☆・・・田中真紀子が文科省大臣だそうだ。
野田総理の、どのような思考回路の果ての帰結点なのかは分からないが、酷い。
酷過ぎる。
野田総理、最後に爆弾抱えて自爆するつもりなのか?
でも、この任命に代表される思考パターンやメンタリズムこそが、民主党の、紛う事無き本質なんだと思っている。
何をやらかすか分からないが、せいぜい楽しませて頂こう・・・。
◇
・・・人生、それでも長く生きていると、想像を絶するような「知らなかった事実」が立ち現われてくることがある。
それは、自分が、今まで、「なんかおかしい」と思っていたことでもあり、
全く疑問に思っていなかったことでもある。
正直、ここでその名を出してしまうと、以下、この文章を読んでくれなくなる人も多いと思うが・・・、
小林よしのりは、『戦争論』で、そんな「世界変容」の姿を垣間見せてくれた。
固定観念が覆された・・・。
まあ、今は、最下層の辺土の住人の思考回路しか持ち合わせていない劣化振りだが(正直、田中真紀子並みだ)、
彼が、真に輝いていた時期は、確かにあった。
まあ、今は、ヤツなど、どーでもいー・・・。
私は、そして、全国生活指導研究協議会(全生研)の行なった、「教育」という美名の「日本の全児童の洗脳計画」を知るにつけ、久し振りに、「世界変容」を体験させてもらっている。
1970年前半、私は、多感な小学校低学年であった。
そして、あの時代の、あの教室では、壮大な「教育実験」が行なわれていた。
今ならば、当然のように行なわれている、小学校の教室内で行なわれる「班分け」、
それは、1970年代前半に、唐突に現われたものなのである。
意外でしょ?
我々が受けた教育環境の、常識の前提としてあった「班」と言うものは、元々は、軍隊用語であった。
そして、敗戦とともに、軍隊用語は、占領軍の故意的にも、時間の経過の中での無意識としても忘れられていた言葉であった。
かろうじて、共産党の婦人団体「新婦人の会」が、内々の最小単位の組織を表わす言葉として使っていたぐらいだったそうだ(『滝山コミューン一九七四』より。まだ1/3くらいしか読んでないけど^^;)。
単純な、その事実だけで、これを読んでいる多くの方が「目うろこ」になったことだろう。
だって、俺らの時代には、教室内における「班」制度は、既に存在した「当たり前」の「常識」であった。
しかし、それはイリュージョンだった。
教室内「班」制度は、意外に歴史が浅い。
ただ、我々が、その変化の狭間にいなかっただけだ。
そして、そんな「班」制度を導入するにあたっては、何らかの意味がなくてはならない。
簡単に言うと、「現秩序の破壊」「新(共産主義的)秩序の構築」である。
「新婦人」「日教組」「全生研」・・・、全て共産主義組織である。
これらの組織は、結局は間違っていたのだが、そこに「正義」を求めていた。
が、その「方式」を輸出したソビエトには、「正義」の観念はなく、ただ、自分等の「思想」の伸長拡大の意味しかない
いや、最初は、アントン・マカレンコの集団教育法が正しいと思っていたのだろう。
しかし、既述だが、その瑕疵はすぐに判明、スターリン自ら、教育の方向を転換させた。
そのことについての資料は持たないが、前回、その片りんを書いたつもりだし、
下に転載した朝日新聞の記事での日本でのパターンから、ソビエトのかつての失敗を推察できる。
それが1930年代のこと。
だが、それから40年経った1970年代、日本で、その「集団破壊」の教育法が、大真面目に日本で実行され始める(『学校集団づくり入門 第二版』)。
そして、それから40年が経った現在、多種多様な教育現場の問題を伴って、一部の子供に、その災厄が集まり、
「いじめ」の形をとり、多くの生徒の自殺が発生し続けている。
◇
・・・眠いので、最後に転載し、今日は眠る。
全然 最終回じゃなくてすいませんし、そもそも、講演会の続きを書いてない^^;
≪(朝日新聞「今 学校で」 1973年7月11日)
・・・班競争がスタートしてみると、〔T君の母親の〕不安はますます大きくなり、期待は失望に変わった。
先生は、週ごとに子どもたちに努力目標を立てさせ、各班に持ち点五十点を与えて、オリンピックの体操競技さながらに減点法によって得点を競わせた。
目標は「給食時間を守る」「一日一回は必ず発言する」など。週番になった子どもたちは、毎日毎時間鉛筆とノートを片手に目を光らせて違反者を書きとめ、毎週土曜日に、最も減点の多かった班をボロ班と呼んでさらし者にしたという。
T君は、給食の時間中に、雨が降って来たのを見ようと立ち上がった。
たちまち週番の子から声がとんだ。「T君、減点一点!」
勉強の面でも班競争を活用する、彼の班に、三けたの掛け算ができない子がいた。先生はT君に言った。「今週中にあの子に掛け算を覚えさせなかったら、班長のお前の責任だぞ」
五月は二週続けてT君の班がボロ班になった。ほかの班は人数が四人~六人なのに、T君の班だけが八人と、不利な面もあった。しかし班員の間には、二度もボロ班になったことへの不満が高まって来た。
ある日、別な班の班長が、「T君は班長として不適当なのでリコールした方がいいと思います」と提案した班会議の結果、彼はその場で班長を解任された。・・・≫
・・・良くも悪くも、ジャイアン的生徒を放逐し、無個性の自動人形レギオン(「わが名はレギオン。我々は、大勢であるがゆえに」)を、
日本全国の教室に製造して行こうとしていた時代だ。
◇
すいません、眠ります^^;
(2012/03/02)
野田総理の、どのような思考回路の果ての帰結点なのかは分からないが、酷い。
酷過ぎる。
野田総理、最後に爆弾抱えて自爆するつもりなのか?
でも、この任命に代表される思考パターンやメンタリズムこそが、民主党の、紛う事無き本質なんだと思っている。
何をやらかすか分からないが、せいぜい楽しませて頂こう・・・。
◇
・・・人生、それでも長く生きていると、想像を絶するような「知らなかった事実」が立ち現われてくることがある。
それは、自分が、今まで、「なんかおかしい」と思っていたことでもあり、
全く疑問に思っていなかったことでもある。
正直、ここでその名を出してしまうと、以下、この文章を読んでくれなくなる人も多いと思うが・・・、
小林よしのりは、『戦争論』で、そんな「世界変容」の姿を垣間見せてくれた。
固定観念が覆された・・・。
まあ、今は、最下層の辺土の住人の思考回路しか持ち合わせていない劣化振りだが(正直、田中真紀子並みだ)、
彼が、真に輝いていた時期は、確かにあった。
まあ、今は、ヤツなど、どーでもいー・・・。
新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論 | |
小林 よしのり | |
幻冬舎 |
私は、そして、全国生活指導研究協議会(全生研)の行なった、「教育」という美名の「日本の全児童の洗脳計画」を知るにつけ、久し振りに、「世界変容」を体験させてもらっている。
1970年前半、私は、多感な小学校低学年であった。
そして、あの時代の、あの教室では、壮大な「教育実験」が行なわれていた。
今ならば、当然のように行なわれている、小学校の教室内で行なわれる「班分け」、
それは、1970年代前半に、唐突に現われたものなのである。
意外でしょ?
我々が受けた教育環境の、常識の前提としてあった「班」と言うものは、元々は、軍隊用語であった。
そして、敗戦とともに、軍隊用語は、占領軍の故意的にも、時間の経過の中での無意識としても忘れられていた言葉であった。
かろうじて、共産党の婦人団体「新婦人の会」が、内々の最小単位の組織を表わす言葉として使っていたぐらいだったそうだ(『滝山コミューン一九七四』より。まだ1/3くらいしか読んでないけど^^;)。
滝山コミューン一九七四 (講談社文庫) | |
原 武史 | |
講談社 |
単純な、その事実だけで、これを読んでいる多くの方が「目うろこ」になったことだろう。
だって、俺らの時代には、教室内における「班」制度は、既に存在した「当たり前」の「常識」であった。
しかし、それはイリュージョンだった。
教室内「班」制度は、意外に歴史が浅い。
ただ、我々が、その変化の狭間にいなかっただけだ。
そして、そんな「班」制度を導入するにあたっては、何らかの意味がなくてはならない。
簡単に言うと、「現秩序の破壊」「新(共産主義的)秩序の構築」である。
「新婦人」「日教組」「全生研」・・・、全て共産主義組織である。
これらの組織は、結局は間違っていたのだが、そこに「正義」を求めていた。
が、その「方式」を輸出したソビエトには、「正義」の観念はなく、ただ、自分等の「思想」の伸長拡大の意味しかない
いや、最初は、アントン・マカレンコの集団教育法が正しいと思っていたのだろう。
しかし、既述だが、その瑕疵はすぐに判明、スターリン自ら、教育の方向を転換させた。
そのことについての資料は持たないが、前回、その片りんを書いたつもりだし、
下に転載した朝日新聞の記事での日本でのパターンから、ソビエトのかつての失敗を推察できる。
それが1930年代のこと。
だが、それから40年経った1970年代、日本で、その「集団破壊」の教育法が、大真面目に日本で実行され始める(『学校集団づくり入門 第二版』)。
そして、それから40年が経った現在、多種多様な教育現場の問題を伴って、一部の子供に、その災厄が集まり、
「いじめ」の形をとり、多くの生徒の自殺が発生し続けている。
◇
・・・眠いので、最後に転載し、今日は眠る。
全然 最終回じゃなくてすいませんし、そもそも、講演会の続きを書いてない^^;
≪(朝日新聞「今 学校で」 1973年7月11日)
・・・班競争がスタートしてみると、〔T君の母親の〕不安はますます大きくなり、期待は失望に変わった。
先生は、週ごとに子どもたちに努力目標を立てさせ、各班に持ち点五十点を与えて、オリンピックの体操競技さながらに減点法によって得点を競わせた。
目標は「給食時間を守る」「一日一回は必ず発言する」など。週番になった子どもたちは、毎日毎時間鉛筆とノートを片手に目を光らせて違反者を書きとめ、毎週土曜日に、最も減点の多かった班をボロ班と呼んでさらし者にしたという。
T君は、給食の時間中に、雨が降って来たのを見ようと立ち上がった。
たちまち週番の子から声がとんだ。「T君、減点一点!」
勉強の面でも班競争を活用する、彼の班に、三けたの掛け算ができない子がいた。先生はT君に言った。「今週中にあの子に掛け算を覚えさせなかったら、班長のお前の責任だぞ」
五月は二週続けてT君の班がボロ班になった。ほかの班は人数が四人~六人なのに、T君の班だけが八人と、不利な面もあった。しかし班員の間には、二度もボロ班になったことへの不満が高まって来た。
ある日、別な班の班長が、「T君は班長として不適当なのでリコールした方がいいと思います」と提案した班会議の結果、彼はその場で班長を解任された。・・・≫
・・・良くも悪くも、ジャイアン的生徒を放逐し、無個性の自動人形レギオン(「わが名はレギオン。我々は、大勢であるがゆえに」)を、
日本全国の教室に製造して行こうとしていた時代だ。
◇
すいません、眠ります^^;
(2012/03/02)