大人になることへの罪悪感と良心の物語・・・。
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この話題作・・・、もう語り尽くされた作品なのだろうが、映画版を期に、やっとこさ観ました^^
うん、ここ数年では、桁違いに凄い作品ですな。
ちょっと細かいことを書いて、そして、「この指摘について誰も語っていなかったらしめたもの!」として、ひとつ、書いてみる。
「魔法少女」物としては、もちろん、「プリキュア」と同列に語ったら、お互いに失礼で、
「リリカルなのは」で、私が感動した展開「少女受難」「ギミックの描き込み」を数千倍の密度で行なっている。
各所に、『エヴァ』以降の演出が冴えている。
魔法少女らが「魔女」と戦う異世界のシュール&アバンギャルドさも、
作中現実世界の自然とテクノロジー、工場萌えと夕焼け描写も素晴らしい。
また、ジョージ秋山の『ザ・ムーン』に求めて求められなかったテーマを高めた『ぼくらの(鬼頭莫宏著)』の影響は大きいと見える。
「ぼくらの」のコエムシと、今作のキュウべぇの、メフィストフェレス的な役割などは、その表情に表わさない、彼にとっての合理的な口調ともども、ほぼ同じだ。
また、前者のパラレルワールド設定と、後者の、おそらく(前編しか見てないから確証は無い)時間ループの設定も似ている。
また、テーマとしての、両作品の「行いに対しての、大き過ぎる代償としての命」の問題だ。
もっとも、死んだら考えることもなくなる。
だから、「行いに対しての、大き過ぎる代償としての命」を考えた時の、主に良心との兼ね合いの苦悩の問題がある。
昔から、報われない善行というのは、物語の大きなテーマだ。
『ワーロック(1959 エドワード・ドミトリク監督)』、『どろろ(手塚治虫)』、『ザンボット3』などの主人公は、町を救うも、石もて追われていたものだ。
それは、魔法少女たちの敵である「魔女」・・・、魔法少女たちが、その魔女へと変貌してしまう一要因だ。
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女の子たちは、それぞれが個性的で、揃いも揃って、みんな可愛い。
このような作品を見ると、自分の好きなタイプを見つけてしまうものだが、どの子も可愛いので、私、モテモテ気分で困ってしまう。
先ずは、先輩魔法少女のマミの、他のキャラに比べてのムチムチ具合と、変身の時の足捌き(ステップ)と、変身完了後のバンデージに魅かれた。
さやかは、私好みの「ときめき短髪元気美少女」で、それが、好意を抱いていた幼馴染の少年との関係や、魔法少女契約…、魔法少女としての無力さ…、報われぬことへの絶望…、などを通して一番 過酷な運命にさらされるのが、うん、良かった!^^(←こ、こいつ・・・)
まどかは、ひたすらに困り続けるのが、女の子・女の子していて可愛い(昔の彼女と似ている。つ、コチラ)。
ほむらは、クールビューティーだ。
仁美は、育ちの良いお嬢様。
杏子は、その活きの良さがたまらん。
・・・で、私が考えるのは、この作品、対象が「プリキュア」視聴者のような子供じゃないんだよね。
だったら、何のための「可愛い魔法少女」設定なんだろうと考えてしまうのだ。
なんか、初歩的なことを言ってるようだが、可愛い魔法少女らを、いい大人「だけ」が、アニメで鑑賞するのが、妙におかしく感じてしまうのだ。
子供が見れない・見ても理解できない「魔法少女物語」を、本来の対象ではない大人だけが楽しむ、てのはなんかおかしい。
だったら、「プリキュア」を見て、子供とは違う観点だが、楽しむという点においては同じ「大きいお友達」のほうが自然だと思っちゃったりする。
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・・・でも、この作品、性的なものは全く排除されている。
そこがいいところかな、と、見ていてずーっと思っていたのだが、
終盤になって、「ああ、これは、物語の全てが性的なものの暗喩だ!」と理解した。
魔法少女になるということは、初体験を済ますことと同義なんだな。
そういう目で見ると、彼女らの苦悩の全てが分かる。
まどかと仁美以外の女の子たちは、済ませた後の苦悩を抱き、
まどかは、経験をすべきかの苦悩をずーっと持っている。
まどかのお母さんも、まどかに言っている。
「早く大人になっちまいなよぉ。大人は辛いけど、そのぶん、楽しいぞぉ…^^」
そして、仁美は、くるべき時が来れば、それは自然に訪れると落ち着いている。
となると、さやかの魔法少女契約後の苦悩、その解釈が難しいか?
いや、簡単だ。
魔法少女契約による経験は、「売春」的な罪悪を伴うのだ。
だから、魔法少女になった彼女らは、「肉体的」「精神的」の二重の意味で、もう、戻れない・・・。
マミが天涯孤独の身で、あんなマンションに住んでいられるのも、援助交際を繰り返して、金に困っていないことの暗喩だ。
・・・それでも、この作品は面白い!
♪そ・れ・で・も、好・き・だ・よ!
(2012/10/08)