『甘噛み^^ 天才バカ板!』 byミッドナイト・蘭

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[『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [前編]始まりの物語』を観た]

2012-10-08 21:47:34 | 物語の感想
☆   ・・・「初体験(あるいは援助交際での)」、
        大人になることへの罪悪感と良心の物語・・・。


   ◇

 この話題作・・・、もう語り尽くされた作品なのだろうが、映画版を期に、やっとこさ観ました^^

 うん、ここ数年では、桁違いに凄い作品ですな。

 ちょっと細かいことを書いて、そして、「この指摘について誰も語っていなかったらしめたもの!」として、ひとつ、書いてみる。

 「魔法少女」物としては、もちろん、「プリキュア」と同列に語ったら、お互いに失礼で、

 「リリカルなのは」で、私が感動した展開「少女受難」「ギミックの描き込み」を数千倍の密度で行なっている。

 各所に、『エヴァ』以降の演出が冴えている。

 魔法少女らが「魔女」と戦う異世界のシュール&アバンギャルドさも、

 作中現実世界の自然とテクノロジー、工場萌えと夕焼け描写も素晴らしい。

 また、ジョージ秋山の『ザ・ムーン』に求めて求められなかったテーマを高めた『ぼくらの(鬼頭莫宏著)』の影響は大きいと見える。

 「ぼくらの」のコエムシと、今作のキュウべぇの、メフィストフェレス的な役割などは、その表情に表わさない、彼にとっての合理的な口調ともども、ほぼ同じだ。

 また、前者のパラレルワールド設定と、後者の、おそらく(前編しか見てないから確証は無い)時間ループの設定も似ている。

 また、テーマとしての、両作品の「行いに対しての、大き過ぎる代償としての命」の問題だ。

 もっとも、死んだら考えることもなくなる。

 だから、「行いに対しての、大き過ぎる代償としての命」を考えた時の、主に良心との兼ね合いの苦悩の問題がある。

 昔から、報われない善行というのは、物語の大きなテーマだ。

 『ワーロック(1959 エドワード・ドミトリク監督)』、『どろろ(手塚治虫)』、『ザンボット3』などの主人公は、町を救うも、石もて追われていたものだ。

 それは、魔法少女たちの敵である「魔女」・・・、魔法少女たちが、その魔女へと変貌してしまう一要因だ。

   ◇

 女の子たちは、それぞれが個性的で、揃いも揃って、みんな可愛い。

 このような作品を見ると、自分の好きなタイプを見つけてしまうものだが、どの子も可愛いので、私、モテモテ気分で困ってしまう。

 先ずは、先輩魔法少女のマミの、他のキャラに比べてのムチムチ具合と、変身の時の足捌き(ステップ)と、変身完了後のバンデージに魅かれた。

 さやかは、私好みの「ときめき短髪元気美少女」で、それが、好意を抱いていた幼馴染の少年との関係や、魔法少女契約…、魔法少女としての無力さ…、報われぬことへの絶望…、などを通して一番 過酷な運命にさらされるのが、うん、良かった!^^(←こ、こいつ・・・)

 まどかは、ひたすらに困り続けるのが、女の子・女の子していて可愛い(昔の彼女と似ている。つ、コチラ)。

 ほむらは、クールビューティーだ。

 仁美は、育ちの良いお嬢様。

 杏子は、その活きの良さがたまらん。

 ・・・で、私が考えるのは、この作品、対象が「プリキュア」視聴者のような子供じゃないんだよね。

 だったら、何のための「可愛い魔法少女」設定なんだろうと考えてしまうのだ。

 なんか、初歩的なことを言ってるようだが、可愛い魔法少女らを、いい大人「だけ」が、アニメで鑑賞するのが、妙におかしく感じてしまうのだ。

 子供が見れない・見ても理解できない「魔法少女物語」を、本来の対象ではない大人だけが楽しむ、てのはなんかおかしい。

 だったら、「プリキュア」を見て、子供とは違う観点だが、楽しむという点においては同じ「大きいお友達」のほうが自然だと思っちゃったりする。

   ◇

 ・・・でも、この作品、性的なものは全く排除されている。

 そこがいいところかな、と、見ていてずーっと思っていたのだが、

 終盤になって、「ああ、これは、物語の全てが性的なものの暗喩だ!」と理解した。

 魔法少女になるということは、初体験を済ますことと同義なんだな。

 そういう目で見ると、彼女らの苦悩の全てが分かる。

 まどかと仁美以外の女の子たちは、済ませた後の苦悩を抱き、

 まどかは、経験をすべきかの苦悩をずーっと持っている。

 まどかのお母さんも、まどかに言っている。

「早く大人になっちまいなよぉ。大人は辛いけど、そのぶん、楽しいぞぉ…^^」

 そして、仁美は、くるべき時が来れば、それは自然に訪れると落ち着いている。

 となると、さやかの魔法少女契約後の苦悩、その解釈が難しいか?

 いや、簡単だ。

 魔法少女契約による経験は、「売春」的な罪悪を伴うのだ。

 だから、魔法少女になった彼女らは、「肉体的」「精神的」の二重の意味で、もう、戻れない・・・。

 マミが天涯孤独の身で、あんなマンションに住んでいられるのも、援助交際を繰り返して、金に困っていないことの暗喩だ。

 ・・・それでも、この作品は面白い!

   ♪そ・れ・で・も、好・き・だ・よ!

                                           (2012/10/08)

[映画『ボーン・レガシー』を観た(短信)]

2012-10-08 19:50:57 | 物語の感想

☆実は、この「ボーン」シリーズ、初めての鑑賞であった。

 前三部作からは主役が代わったとのことで、物語も仕切りなおしで、とっつき易いかなと思い、見た。

 最初は、前作との絡みで分かりにくかったが、どうにか理解できていると思う。

 簡単に言うと、CIAと言う組織からの「抜け忍」の物語と思えば合点がいこう。

 作品背景が掴めてきてから、私は、凄まじく面白さを感じた。

 こういった肉体アクションへの回帰の流れは知っていたが、実際に見ると、身体にビシビシくるね!^^

 と同時に、私は、『スリーデイズ』の時も思ったのだが、

 この肉体系アクションを彩るのは、逃走不可の状況からの脱出と言う「密室殺人」的なシチュエーションだと思うのだ。

 舞台は、孤立した雪の山岳地帯(『THE GREY 凍える太陽』よりも面白い^^)、自分(主人公:アーロン)に有益な情報を持つ女科学者の家、マニラの薬品工場、マニラ市街…、と戦いが続くが、いずれも、不可能からの脱出状況である。

 しかも、その肉体酷使が、高度に情報管理化された中での逃走の形で為されるので、その、アナログとデジタルのミスマッチと、それゆえの、人間単体の可能性を示してくれていて気持ちいい^^

 しかし、CIAの「超戦士計画」みたいので育成された戦士は9人だと言うし、なんか「サイボーグ009」みたいだ。

 また、以前にも「009」と似た設定の『アイ・アム・ナンバー4』があったが、

 日本の9人が1人として欠けていないのに対し、「アイ・アム・ナンバー4」も、この「ボーン・レガシー」も数人があっさり消されている・・・。

 途中から、<抜け忍>アーロンに、CIAは別計画の殺人マシーン(アーロン的な超人から人間性を省いた戦士)を<追い忍>として差し向ける。

 ここなんか、009たちに、<ブラック・ゴースト>が差し向けた「0010」「0011」「0012」「0013」のような趣だ^^

 その、<追い忍>が、すぐにクライマックスの場に現われ、<T-1000型>張りに猪突猛進でアーロンを追い詰めていく。

 私としては、一回 間があって第2ラウンドがはじまるのかと思っていたら、そのまま決着を迎えるので、とてもまだるっこしさがなくて良かった。

 まあ、この作品においては、とにかく、追うも逃げるもスピーディーさが要求されるのだな。

 いや、私、とっても楽しみました。

 前三部作もビデオで見てみます。

 アーロン篇も、二作後辺りには、絶対に、前シリーズの主人公 ジェイソン・ボーンと共闘することになりそうだからなぁ^^

 主人公を演じたジェレミー・レナーは、ちょっと野暮ったい容姿がいいね。

 おっと、ヒロインのレイチェル・ワイズも良かったです^^v

 私、震災の前日に、レイチェル主演の『アレキサンドリア』を見たんだけど、今 思うと、あの作品ともども、ちょっと感慨深い。

                                          (2012/10/08)