長い間読みたいと思い続けた本を読み、見直したかった映画を観て、ブルースギターの練習を繰り返した日々だった。
集中したわけではないけれど、雑事に脅かされることがなく、疲れて飽きてしまうまで時間をついやせたのが嬉しかった。こんなに自分自身のために時間を使ったのは初めてのような気がした。
行きづりの哲学者のようだ。辿り着こうなどと思いもしない。ただひたすら目の前や心の底に訪れる自分の声を聴き、風のような風景を観ることに専念できたような気分なのだ。
空っぽの自分に「きっと、何かが潜んでいるはず。そう、自分に適した場所や能力があるはず・・・・」
などと、傲慢に思い続けたあの日の自分はすでにここにはいない。
格好をつけて一人旅にでたりもしたけれど自分など何処にも見つからなかったし、居心地の良い場所もなかった。ましてや最適な職業など見つける手がかりさえも得られなかった。
あたりまえなのだ。
理不尽に遭遇し、納得できぬ仕事をこなし、落ち着きのない部屋で目覚め、どうしてだ?疑問符が毎日100個も空っぽの頭の中に湧き上がる。世間知らずもいい加減にしなよと自分自身に叫ぶことが、今となっては救いだったのだ。目の前に横たわっているのが現実で幻ではないのだ。その現実の一つ一つを噛みしめて呑み込み、血として、肉として、骨として作り上げてしまわなければ生きて行けなかったのだ。
その不条理らしきものも決して悪いものではない。
理不尽さの原因や、不条理を強要した犯人を探し出し、復讐を試みても大した満足を得られはしない。
それは仕方のないこと・・・・それが結論なのだ。
それはそれで渦中の人間にはそんな余裕はない。生き抜くためには憎しみや復讐心は異常なほどのエネルギーになるわけだし、それも仕方のないこととメモ帳に書き留めておけばいいだろう。
ただ、生き延びてしまっていたのなら、たった一人で生き抜いたわけじゃないことに気が付く。神輿に乗っているのであれば、その神輿を担ぐ人がいて、神輿を担ぐ人の草鞋を作る人がいるわけで、一人じゃ生きてはいけなかったことに気が付くはず。そして、「ありがとう」と声に出して言うだけだ。
しかし、感謝するのはまだ早すぎる。まだ、終わっちゃいないからだ。