歳を重ねると楽しいとか賢くなるとか・・・・みんな戯言なんだよ。

感じるままに、赴くままに、流れて雲のごとし

人生は自分探しじゃないし、何かを見つけることでもないし、自分を作り出せることこそ人生なのだ。

2020-06-15 | その他

長い間読みたいと思い続けた本を読み、見直したかった映画を観て、ブルースギターの練習を繰り返した日々だった。

集中したわけではないけれど、雑事に脅かされることがなく、疲れて飽きてしまうまで時間をついやせたのが嬉しかった。こんなに自分自身のために時間を使ったのは初めてのような気がした。

行きづりの哲学者のようだ。辿り着こうなどと思いもしない。ただひたすら目の前や心の底に訪れる自分の声を聴き、風のような風景を観ることに専念できたような気分なのだ。

空っぽの自分に「きっと、何かが潜んでいるはず。そう、自分に適した場所や能力があるはず・・・・」

などと、傲慢に思い続けたあの日の自分はすでにここにはいない。

格好をつけて一人旅にでたりもしたけれど自分など何処にも見つからなかったし、居心地の良い場所もなかった。ましてや最適な職業など見つける手がかりさえも得られなかった。

あたりまえなのだ。

理不尽に遭遇し、納得できぬ仕事をこなし、落ち着きのない部屋で目覚め、どうしてだ?疑問符が毎日100個も空っぽの頭の中に湧き上がる。世間知らずもいい加減にしなよと自分自身に叫ぶことが、今となっては救いだったのだ。目の前に横たわっているのが現実で幻ではないのだ。その現実の一つ一つを噛みしめて呑み込み、血として、肉として、骨として作り上げてしまわなければ生きて行けなかったのだ。

その不条理らしきものも決して悪いものではない。

理不尽さの原因や、不条理を強要した犯人を探し出し、復讐を試みても大した満足を得られはしない。

それは仕方のないこと・・・・それが結論なのだ。

それはそれで渦中の人間にはそんな余裕はない。生き抜くためには憎しみや復讐心は異常なほどのエネルギーになるわけだし、それも仕方のないこととメモ帳に書き留めておけばいいだろう。

ただ、生き延びてしまっていたのなら、たった一人で生き抜いたわけじゃないことに気が付く。神輿に乗っているのであれば、その神輿を担ぐ人がいて、神輿を担ぐ人の草鞋を作る人がいるわけで、一人じゃ生きてはいけなかったことに気が付くはず。そして、「ありがとう」と声に出して言うだけだ。

しかし、感謝するのはまだ早すぎる。まだ、終わっちゃいないからだ。

 

 


孤独のまま群れあうことが愚かな行動を生み出しているのか・・・・

2020-05-30 | その他

FBやTWなどを見ることをほとんどやめてしまった。

読んだり見たりしていると空しくて悲しくてやりきれなくなってしまうからだ。

特に毎日、いや、日に3度ぐらいの間隔で写真でアップしたり、

取り留めもない空っぽな感覚をコメントしたりしている。読むのが阿保らしく思えてくる。

でも、知り合いだからぽちっと押す。悪いから・・・・そんな事を思う、もういいやぁ!などと最近思ってしまっている。

 

そう、僕も最初の頃はそうだった。

直に触れ合うことのない友達へ、関心を惹くように書き込んだりしていた。

「いいね」が欲しいばかりに・・・・このサインを貰うと、

「僕に関心を持ってくれているのだ。僕の書き込みを待っていてくれてるんだ」

だから、四六時中ネタを探してたりしていた。

 

ふと、今の自分を振り返ってみれば・・・「なんだかメンドクサイなぁ。また書き込んじゃってるよ、この人・・・」

そして、ろくに読まずに“いいね”を押している。

そう、誰も僕の書き込みなど待っているわけではない。単なる時間潰しでスマホの画面を見ているだけなのだ。

無意識は本音に近いものがある。そんな幻想にどっぷりと浸り安っぽい感傷を共感だと錯覚してしまう。

人と人との繋がりはそう簡単に手に入れられるものではない。

喜びや楽しいことは、とかく共感しやすいのだ。単純だからだ。

しかし、笑いと哀しみと言う感情は、少なからずも複雑で混沌としていて捉えどころがなかったりする。

下手に口出しすればしっぺ返しが待っている。だから、言葉にせずにそばにいることが精いっぱいなのだ。

それでも、「一人にしてくれ!同情などまっぴらだ」と罵られたりする。

大切なのはそんな罵りを浴びせられたとしても、傍にいることなのだ。

 

SNSには哀しみがない。

 

僕は二度とネットで代替えできるなどと称して、現実を安易に犠牲にする発想を許したりしない。

 

今年の夏は暑くなりそうだ。

 

 


生きること、それ自体が不要不急なのだろう。

2020-05-18 | 日記

午後から雨は中途半端にふり、夜半過ぎに本格的になった。

中途半端が嫌いなわけではない。白か黒かはっきりしなくては生きて行けないわけじゃないしね。

感染症騒ぎも一段落し、新しい生活を始めろと世間は叫び始めた。しかも、その生活と言うのが関西のお笑いタレントのネタのようだ。マスクをして掌の皮が擦り剝けるまで洗い他人と濃密接触をしないこと・・・・その他諸々となれば、もはや声を出して笑うしかないではないか。

おまけに、“不要不急”などと正義の御旗をかざし始めたから始末に負えない。

だからというわけじゃない。「要」と「急」について思いふけってしまった。特に「要」。

そう、

今までだって、何故働くのか?

そんな馬鹿みたいな質問を投げかけ続けられ、自分自身にも問いかけ、

暮らしを維持する為に必要な金を稼ぐためだし、労働に不条理はつきものだ。

そう答えてきた。そして、残念なことには、やっている仕事にはどんな意味があるか?

そんな問いかけには答えてはいなかった。それは無意味な仕事ばかりをしてきたからだ。

しかし、今頃になって気が付いた。やっている仕事が好きだっただけなのだ・・・・そんな単純なことだ。

好きな仕事だから自分で納得するように考え行動してきた。世間のために役立つのかは分からない。

極端だけれど、別にその仕事が存在しなくても世間は困りはしない。そんな内容なのだ。

限られた人々が多少なりとも笑ったり泣いたり怒ったりしただけだ。

でも、仕掛けた僕はそれでも結構楽しくやれた仕事だった。そして、程々に幸せだったのだ。

 

そんな事をだらだら考えて過ごしている。

ホントはこの騒動が永遠に続いてくれればいいとさえ思う。

煩わしい人間と会わなくてもいいし、好きでもない酒を酔ったふりしながら飲まなくてもいいし、

ホントに親しい人たちとは人目を忍んで会いに行けばよいだろう。そのうち密会酒場などと言う酒場が出現するだろう。

世の中のルールは大概、破り捨てるために存在するものだ。

やたらと正義を振りかざす人々は“変態“の素養充分で、

人の汚れを忌み嫌わなければ自分の清潔感を満足させられないのだ。

自己満足のためには人を責め苛む必要があるだけなのだ。

 

バカげた世の中になってしまったものだ。人はいつも多少の罪悪感を抱えていないと、親切心を失くしてしまうのだ。

 

 


芝居のフィナーレのような桜の花びらが舞っていた・・・・

2020-04-28 | その他

矢上川の土手を散歩するのが日課になってしまって、感染症のお陰でのんびりとした日々を過ごしている。

これでいいのだろうか? と、思えるほどにだ。

余りにも時の流れと世間の移り変わりに敏感でありすぎた。

両隣の人々の顔色を窺いすぎてしまっていた2か月前とは大違いだ。

長閑な日常を退屈な日々と固定してしまうのは危険な状況の前触れ。

始まりがあれば終わりはやってくるわけで、終わりは誰の所為でもなく、吹き荒れる風の所為なのだ。

 

いままで、僕の周辺の人々の本当の気持ちも少し理解できてしまうことも喜びの一つなんだろう。

それは、その人を好きとか嫌いとか、そんなことではなく、ただ、そう思うのだ。

そんな思いを心に書き留めておくだけなのだ。

そんなことで、今の今を過ごして少しばかりの未来を見つめて生きていく。

大切なものは一体何?

そんなバカげたことに思いを馳せてしまうのは愚かな欲張りのすること。

木々の緑の葉の一つ一つを見続ければ判るはず。

葉っぱはすでに芽吹いた葉のじゃまにならぬように生えそろう。

それは考えないからなんだろう。あるがままに持って生まれた樹木の持つ生命力の感覚に倣っているだけなのだ。

暮らしの日々のなかで、こんなに静かな気持ちで樹木たちを見つめ続けたことはなかった。

こんな日々に巡り合えたことを記憶の中に留めておきたいものだ。


孤独は夢が支えている。夢は孤独が支えている。

2020-04-15 | 音楽

もはや、曖昧で猥褻な国など信頼するに価せず、自らの身は自らの努力で守るしかないわけで、家族があれば家族のリーダーとしての役割を言い聞かせて行動するしかないのだ。

至極、当たり前の話だ。溢れかえる情報を自らの脳髄で処理し行動に移す。それを繰り返すことで学習しながらも自らの感覚を信じて身を守る。老人ならではの能力を存分に発揮すればよいだけではないのか。

“ぼっち”を恐れてばかりいては埒があかない。

人は生まれてきた時も死ぬ時も“ぼっち”なのだ。そして必ず死ぬ。

不条理もまた必然なのだ。人間のすることなのだから間違うのは当たり前。

あるがままに頭のなかのホワイトボードに書き殴っておけばよい。

誰それが、そう言っていた。書いていた。と。

そして、合理的に効率の良い方法で利益を得る。

そんな考え方は誰も幸せにしないことが判明したのだ。

経済力や軍事力では国民を守ったり幸せにできないことが判った。

為政者はコロナ禍が終わった時、自分たちの立場の事ばかりを心配する。

大切なのは未来ではなく、今なのだ。

いずれ収束する。開けぬ夜はない。雨はやがて止む。そんな思いだけが蔓延している。

しかし、降りやまぬ雨もあるかもしれぬ。人間はコロナウィルスで絶滅することだってあり得るのだから・・・

そんな考え方で腐った頭を使っていたってこの厄災は終焉を迎えないだろう。

止める方法は自らの力を信じて行動するだけだ。

そのためには自らの五感と第六感を研ぎ澄ませフル稼働させ、感染しないこと。

もし感染したら静かに息を整えること。軽症であれば抗体が生まれ治癒する。

自浄作用を信じることだ。

ただ、忘れてならないのは60歳以上の老人には決して近ず、そして何よりも病院に近ずいてはならない。

そのためには孤独になることを恐れず、寂しさを味わい尽くすのだ。