コロナウィルス蔓延し始めているとか、そのために東京オリンピックが延期になったとか・・・・
吹く風がよそよそしく、僕の身近で吹いていると思えなくなってしまっている。
感染症は恐ろしい。
でも、恐ろしいのは人間で病原菌ではない。
そんな気がするだけだ。ウィルスだって生きている。
人間が増殖するように、ウイルスも繁殖しまくる。想像を絶するスピードで。
彼らの生きるスピードは人智を超えて宇宙空間へだって行ってしまう。
人々はウィルスそのものよりもウィルスに感染した人間を忌み嫌う。
それも半端じゃなく、感染者を排除し悪魔のように嫌う。
それは単に恐怖心からなのだろう。けれども邪悪な心で感染者を観るまなざしには
弱さを隠す卑怯者の犬のようだ。怯える犬は狂暴で、なり振りかまわず吠え、噛みつく。
抜けるような青い空が広がっていようがお構いなし。
普通に、いつもと同じように暮らしている。
外に出れば1メートル以内の人々には気を配り、嫌な気分にさせないように自分の場所を見つける。
家に帰れば丁寧に手を石鹸で洗い、顔を洗い嗽を二回する。
風呂には毎日入るし、食事はできうる限り決まった時間に食べるようにしている。
人と話すときには相手の目を見つめて好きになった事や、好きだった事柄を話し、
嫌いだと思うことはできるだけ話さない。
歯が痛めば歯医者に行き、熱が出れば医者に行き、院内ではマスクをする。診察が終わればマスクを外す。
そして、空を見上げ、深呼吸をする。
ここ数年前から続く天災のおかげで、NHKが言う防災セットを購入し、補充を怠らず日常の消耗品については
余裕を持った買い方をする。
マスクがなくなっているだとか、テッシュがないだとか、
マスコミの無責任な掛け声に踊らない。
ワイドショーのMCほど無責任な人間はいない。
信用という言葉からは、地球と月の距離ほど遠のいている。
「絆」だとか「心を一つにする」そんな腐ったリンゴのような標語を叫び続けることに意味があるとすれば
それは、危機感を煽るだけ煽りすべての人々の心を握りしめようとする。
別に一億人が同じ考え方で生きなくてもいいではないか。
鬼気迫る日々が存在すれば、一人ひとりがヤルべき事をやればみんなが安心して暮らせるはずなのだ。
そして、やるべきことが判らなかったり、できない人たちに向かって手を貸すのが礼儀というものなのだ。
決して責めることではないはずなのだ。
手を洗う水がなかったり、石鹸が手に入らなかったり、身を守る方法が理解できなかったり、
そんな人々こそ救わなかければならない。
今、自分の手の中にあるものを分けてあげなくてはいけない。
持つべき想像力を獲得して育みながら分けられるほどの力を持たなくてはならないはずなのだ。