人の感情の起伏は時には低く、時には高くなったりする。
なんでもないことに急にムカッ!なんて来ることはなかった。
嘗てはね・・・・
歳を重ねると、どうなんだろうて思うぐらい、怒りのハードルが低くなるのだろうか。
それはきっと、今までに抑圧されていたものから解き放たれたのだからだろうか・・・・
社会的な関わりが稀薄になってしまったからなんだろうか。
そう、守るべきものの為に耐え忍ぶ・・・そんな我慢のしどころを喪失してしまったのかもしれない。
喜怒哀楽。
喜びや怒りや楽しさは他人と共有しやすいのかもしれないね。
人の怒りや楽しさは伝染しやすい。特に「怒り」はね。。。
同じように腹を立ててくれれば嬉しかったりするものなのだ。
共通の敵を見いだせれば連帯感となって一緒に戦おう!なんて口々に叫びだしたりする。
愉しさも、同調してくれれば高揚度増すばかりだしね。
しかし、どうなんだろう?
「哀」は・・・・・・・
なかなか共有するには難しい。
それは「哀」には複雑なパターンがあるし、個人差は大きいしね、
ヘタに慰めようものなら反発を買い、余計に落ち込ませてしまったりする。
厄介なのだ。
応えられないんだ。誰もがその苦しみにはね。
ほっといて!と叫ぶしかないんだ。
ただただジット黙って話を聞いて、頷くしかないんだ。
それでいいんだ。
しかし、それを傍観者として観るものには真逆になってしまったりする。
ひたすら哀しむ者だけの気持ちを分かろうとする。
被害者への共感は計り知れない。
そして、共通の敵を互いに見出してしまい
“あいつ”の所為にしてしまう。
実にシンプルな成り行きなんだ。
“共通の敵”となった者の気持ちなど誰も想像したりはしない。
いや、できないのだろう。
その気持ちになってしまったら共通の敵幻想は崩壊するからね・・・・・
もう、こんな世界から足を洗うはずだったのが、長居をしてしまったようだ。
そろそろ、この世界とも別れを告げる時が来たようだ。
少し遅すぎた気配。
でも、仕方ないんだ。
誰でも人生の大半は後悔で成り立っているからね。
満足してしまった人生などありはしない。
やはり、最終的にはウソはつかないに越したことはない。
憎まれたって、正直でありたい。
嫌われたって、ウソつきにはなりたくはない。
もう、最後に近いのだから・・・・