jazzが若者の特権意識の先頭を走っていた。
暗いジャズ喫茶の片隅で貧乏揺りでリズムをとる振りをしていたけれど、遅いテンポだと合わなくなる。帳尻を合わせる為には困惑した振りで貧乏揺すりをやめなくてならない。でも、リズムが余ってしまったことの戸惑を気付かれないようにしなくてはならなかった。そんな薄いプライドと狭量な感性の中でビル・エバンスのピアノは最も合わせにくく美しい旋律に圧倒されてしまった僕はこれはjazzではない。と、突き放すことで友人たちから優位性を示そうとしていた。
全く呆けた話しだ。
「ビル・エヴァス。タイム、リメンバード」
を観た。彼の51年間を親類縁者、バンドメンバーなどが彼についての良き話しをする映画だった。悪口はほとんどない。口を揃えて褒め倒すのだ。しかし、実態は良い事柄だけではないはず。そんな思いを頭の隅から消し去ることができずにこの映画を見続けた。そして、誰だかは忘れたが、「彼はワガママで自己中心的で厄介な奴だった。」とのたまったのだ。そのはずなのだ。あれだけの音楽を残すには人生の大半をピアノに注ぐしかない。大切な人間を、その殆どを自殺で亡くしていれば喪失感は計り知れない哀しみで埋め尽くされていただろう。
美しさの源泉は美しさではなく、哀しみだったんだろ。
自分自身を支えているものは他者ではなく、後悔と懺悔。モチベーションなど糞の役にも立ちはしないのだ。自分自身を支えるのは哀しみだったんだろう。
誰かが言ってた。
長い時をかけての自殺なのだ。
彼の死は…
しかし、50枚ぐらいか?彼のレコードは。
僕はその内の2枚を持っている。
そのレコードを聴くたびに思うだろう。
なんて美しいのだ!と、
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