久しぶりにTV放映されたのを観ました。
※美少年タジオを演じるビョルン・アンドレセン
トーマス・マンの同名小説を映画化したもので名作の呼び名が高い作品ですが、これといったストーリーはなく、要約すると『老芸術家がヴェニスを訪れ、美少年にひと目惚れするが、別に何かをするワケでもなく、その姿を追っているうちにヴェニスを去る機会を失い、当時猛威を振るっていた流行り病で亡くなる』って、こう書くとミもフタもありませんナア。
※どこへとも知れず向かう汽船・・・写真はタイタニック号(映画の汽船はもっと小さい)です。
冒頭、マーラーの「アダージェット(交響曲第5番第4楽章)」が陰鬱な響きを奏でる中、老芸術家を乗せた汽船が煙を吐きながら現れるシ-ンは夢の中の景色のようです。私は夏目漱石『夢十夜』の第七夜冒頭のシーンを思い出してしまいました。
何でも大きな船に乗っている。
この船が毎日毎夜すこしの絶間なく黒い煙(けぶり)を吐いて浪を切って進んで行く。凄じい音である。けれどもどこへ行くんだか分らない。
主人公アッシェンバッハ氏は原作では小説家だけれども、映画では音楽家に変更されています。そして友人からファーストネームで "グスタフ" と呼ばれ続けるンですが、これでますますマーラー本人と重なってくる仕掛けになっています。
作品の中でアッシェンバッハ氏(マーラー?)と友人(シェーンベルク?)が音楽論を闘わせ、最後にマーラーが絶対的な美を前に屈服する(↓脚注①参照)という、そういう映画です。
美の象徴となる少年タジオを演じるのがビョルン・アンドレセン。
タジオは単に美の象徴であるだけで、無邪気で何も考えない存在です。
主人公アッシェンバッハ氏の苦悩や恋心に一切気づきません(アッシェンバッハ氏がそのことをタジオの前では口に出さないのですから、当然と言えば当然ですが)。
それは、ただそこにそうしてあるだけで美しい存在なのです。ボッティチェリの描くヴィーナスのように。
※サンドロ・ボッティチェリ『ヴィーナスの誕生(部分)』
タジオは没落したポーランド貴族の末裔という設定で、ヴィスコンティの映画を観ているヒトなら『さもありなん』です。没落貴族やら頽廃はヴィスコンティの大好きなテーマですから。
そうしてロンドン留学中に鬱になった夏目漱石のように『ただ見るだけで何もしない主人公』・・・ヴェニスでは疫病が発生し、観光局がそれを伏せている。主人公はヴェニスを離れるよう勧められるが、荷物発送の手違いから、また元のホテルに舞い戻るハメに・・・。
※疫病のはびこるヴェニスの街・・・シロッコ(↓脚注②参照)が疫病を運んでくる
舞い戻ってまたタジオの姿を見ることができたのを喜ぶ主人公(ああ・・・こりゃダメだわ!)。
※瀕死のアッシェンバッハ氏
やがて疫病はヴェニスに蔓延し、街中に消毒液が撒かれ、病死した人間の家具や衣服が燃やされて、その煙が立ち込める中、体調を崩したアッシェンバッハ氏は海辺の椅子に腰かけて亡くなります。水着姿のタジオが指さす彼方の世界を見つめながら・・・。
※タジオが指し示す彼方にあるものは?
※脚注①:このような考えは『耽美主義』と呼ばれます(以下ウォルター・ペイター『ルネサンス』結論から抜粋)。
『人間の精神に対して、哲学、あるいは思弁的な教養の果たす役割は、この精神を覚醒し、刺戟して、それに絶えず熱心に観察させるような生活を営ませることにつきる。刻々過ぎる瞬間に、何らかの形態がたとえば手とか顔とかにおいて完璧なものとなることがある。山や海の呈するある色合いが他の部分よりも際立って美しく見えることがある。情熱とか、洞察とか、知的な興奮とかから生じるある気分が、抗しがたい魅力とリアリティを感じさせることがある。しかし、これらはその瞬間のあいだのみ起こるのである。とはすなわち、経験がもたらす結果ではなく、経験それ自体が目的ということにほかならない。しかもこの多彩な、劇的な生活に関して、ある一定の脈搏数を数えられるだけの時間しか私たちには与えられていない。ではこのほんのわずかの時間内に、最も微妙な感覚によって認めうるものすべてを見逃さないためには、どうすればよいだろうか? きわめて迅速に時点から時点へと移動し、最も多くの活力がその最も純粋なエネルギーと化してひとつとなっている焦点に、どうしたら私たちはつねに存在することができるだろうか?
こうした硬い、宝石のような焰で絶えず燃えていること、この恍惚状態(エクスタシー)を維持すること、これこそが人生における成功ということにほかならない。』
※脚注②:シロッコは、初夏にアフリカから地中海を越えてイタリアに吹く暑い南風。 サハラ砂漠を起源とする風で、北アフリカでは乾燥しているが、地中海を越えるためにイタリア南部到達時には高温湿潤風となり、時に砂嵐を伴う。その化身は『魔神パズズ』とされ、映画『エクソシスト』では主人公に憑りついた悪魔として描写された。