「昭和の仕事」 澤宮優 弦書房 2010年発行
綿打ち直し屋
昔の敷布団は綿花の綿が詰まっていた。
湿気と体の重みで綿が固くなってしまう。
いわゆる煎餅布団の状態になる。
綿を機械でほぐして、ふくらませるのを打ち直しという。
これによって綿の体積が4~5倍に膨れあがり、再び布団の中に戻す。
4~5年に一回は打ち直しをやっていた。
純喫茶
音楽を聴きながらコーヒーが飲める店。
バーやカフェーなどの特殊喫茶と区別していた。
昭和30年代には歌声喫茶など、歌う喫茶戦もあった。
個人経営だから、喫茶店も一軒ごとに顔があった。
八百屋
野菜、果物を売る店。
昭和60年代までどこでも八百屋は見られたが、大型チェーンスーパーの進出によって姿を消してしまった。
訓導・代用教員
訓導は小学校の正規の教員のこと。
代用教員は、正式な教員免許を持っていない人。
一年契約で、旧制中学出身者に多かった。
自転車預り所
地方の駅に行くと、自転車置き場がないので、自転車を預かる店があった。
かつては社会人の利用も多かったが、今は高校生が利用している。
銭湯
昭和20年代、30年代がもっとも客足が多かった。
昭和60年代まで学生は、ほとんど下宿住まいで、銭湯を使った。
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「昭和の消えた仕事図鑑」 澤宮優 原書房 2016年発行
馬方(馬子)
馬に荷物や人を乗せて商売する人。
炭鉱夫
三井三池炭鉱は、昭和前期まで囚人労働が主で、女性の坑夫、朝鮮人労働者もいた。
「掘進」と「採炭」に分かれ、
掘進は坑道を掘る仕事である。火薬で岩を崩し、崩れた岩を運びやすいように小さく砕く。トロッコで運ぶと、天井が崩れ落ちないように板や木で枠組みをする。
採炭はツルハシとスコップで炭層を掘り、トロッコに載せ坑道出口まで運んだ。
1日に3m進んだ。「採炭」は炭鉱夫にとって花形で、給料もよかった。
1日3交替の1週間交代。
現場は通風も悪く、暑くなった。
昭和30年代半ばになると政府が、エネルギーの中心を石油に替えたことから、石炭は重視されなくなった。
傷痍軍人
人通りの多い場所に立ち、アコーデオンなどで軍歌、哀調のある曲などを演奏し、通りがかった人から賽銭を貰う。
これが儲かると知った失業者達も、どっと参入して、傷痍軍人の木綿の白い服さえあれば生活費を稼げると思い、街角に立つようになった。
昭和50年代でもよく見かける光景だったが、
さすがに平成に入ると姿を見ることはなくなった。
女衒(ぜげん)
遊郭など性的産業に人を売る人買いのこと。
売春を専門に娘を女郎屋に売る仕事。
女衒は日中戦争、第二次世界大戦の時期は、兵隊の慰安のために娘たちを日本軍の占領地に運んだ。
東南アジアに売られた女性を「からゆきさん」と呼ぶ。
女衒は江戸時代に「忘八」とも呼ばれた。儒教の徳目を忘れた人という意味で、
まさにその本質を突いている。
「昭和の消えた仕事図鑑」 澤宮優 原書房 2016年発行
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「昔のお仕事大図鑑」 日本図書センター 2020年発行
和傘職人
和傘づくりには100以上の工程があり、完成するまでには数か月かかりました。
それぞれの工程に高い技術が必要で、十数人の職人による分業でつくりました。
1・骨を組み立てる
竹を削って太い軸と細い骨をつくり、糸でつないで組み立てる。
2・傘張り
骨に和紙を張る。
3・油ぬり・乾燥
傘の表面に防水のため、植物からとった油をぬり、天日で乾燥させる。
養蚕農家
大正から昭和初期にかけて、生糸は日本の重要な輸出品であったため、
日本各地の農家が専業や副業で養蚕をおこない、収入を得ていました。
桑を畑で育て、日に何度も桑の葉を摘んでカイコに与えなくてはいけませんでした。
カイコは35~45日ほどで繭となり、仲買人を通して製糸業者に売られました。
畳屋
畳は芯の部分の畳床に、イグサで織られた畳表(ゴザ)をかぶせ、ふちに畳べりという布をぬいつけてつくります。
畳屋は、畳を家に敷く作業や、古くなった畳表の張替もおこないます。
塩づくり職人
海水から水分を蒸発させて、塩をつくる仕事です。
まず、海水の塩分濃度を高くして、煮詰めて塩をとる、という方法で塩をつくりました。
炭焼き職人
木炭は、山でナラやカシなどの木を切り倒し、小さく木を切りそろえたあと、
炭焼き窯で焼いてつくります。
窯の入口を土でふさぎ、蒸し焼きにすることで、木材は燃えても灰にならず黒い塊になります。
鍛冶屋
金属を打って強くし刃物などをつくる
鍛冶屋は、熱した金属を打ってじょうぶにしながら形成し、農具や刃物などをつくったり、修理したりする仕事です。
農具をつくるのを「野鍛冶」、包丁をつくるのを「包丁鍛冶」、つくるものによって呼び名が違いました。
桶屋
木の板をぴったり並べて水も漏れない桶や樽をつくる。
桶屋
桶は、丸みがつくように削った何枚もの細長い板を円筒形に並べ、箍(たが)と呼ばれる部品で、外側をしばってから底板をはめ込んで作ります。
水を一滴ももらさない桶をつくるには、板をていねいに削る作業や、板の組み合わせを見極める職人の技術が必要でした。
箍屋
箍屋はい竹を割って細く削って編み、箍をつくる仕事です。
桶は使っているうちに箍がゆるむので、箍をつけかえる修理もしました。
豆腐屋
豆腐を手づくりして売り歩く。
豆腐屋の朝は早く、早朝の4時や5時には豆腐づくりが始まりました。
豆腐は日持ちがしなかったため、毎日つくる必要がありました。
金魚売り
金魚を売り歩く仕事です。
水を張ったたらいに金魚を入れて、金魚鉢といっしょに天秤棒で担いで運びました。
思いたらいを運ぶのは重労働だったため、金魚売りには若者が多かったと言われています。
蒸気機関車
機関士
速度計を見ながらハンドルやブレーキを操作し、時刻通りに列車を走らせた。
機関助士
石炭をくべる機関助士。
機関助士の顔は、石炭が燃やしたときにでるすすで真っ黒になった。
蒸気機関士への長い道のり
蒸気機関士になるには、まず駅員としてはたらきながら、機関車についての勉強をしなければなりませんでした。
機関助士を数年務めたあと、試験を受けて機関士になるまでには5年から7年もの時間がかかりました。
渡し船の船頭
小さな船をあやつる人のことを「船頭」といいます。
多くの場合、水の事故を防ぐため、川の水位の変化に詳しい地域の住民が先祖代々務めました。
年中無休で地域の人達を運びました。
沖仲士
貨物船の荷物を陸へ運ぶ、きびしい肉体労働でした。
「沖荷役」ははしけで陸まで運び、「沿岸荷役」ははしけの荷物をトラックなどに移しました。
灯台守
灯台守は一日たりとも灯台を離れることができませんでした。
2006年最後の灯台守がいなくなりました。
電話交換手
市外への接続は電話交換手の仕事でした。
昭和401年代中期になると、市外への電話も自動化され交換手の仕事はなくなりました。
タイピスト
大正4年漢字とかなを印字できるタイプライターが発明され、役所や企業で公文書作成に用いられるようになりました。
大正から昭和初期にかけて、女性の花型仕事でした。
靴磨き屋
大正から昭和にかけてさかんになりました。
とくに第二次大戦後には、戦争で家族を失った戦争孤児や女性の多くが、靴磨きで生計を立てました。
下駄の歯入れ屋
すり減った歯を交換したり、鼻緒のすげかえをしました。
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羅宇屋(らうや)
煙管(きせる)は、「火皿」「羅宇」「吸い口」という部品でできています。
羅宇は使っているうちに、ヤニがつまったり折れたりするので、羅宇を修理したり、新品と取り換えたりします。
羅宇屋は熱い水蒸気でつまりを取り除いたほか、新品の煙管も売っていました。
鋳掛屋
直すものは、鍋ややかん、釜などが多かった。
昔の鍋ややかんは、今より質が悪く、よく穴があいた。
鋳掛屋は,火を起こす小さなふいごなどを乗せた自転車やリヤカーで、町を回りました。
蹄鉄屋
馬のひずめの裏には、補強の為に蹄鉄(ていてつ)というU字型の金具がつけられています。
この蹄鉄をつくり、
馬のひづめに取り付けるのが、蹄鉄屋の仕事です。
それぞれの馬のひづめにあわせて作り、定期的に交換していました。
貸本屋
昭和30年代には「貸本漫画」と呼ばれる子供向けのマンガが一大ブームになり、
貸本屋は多くの子供でにぎわいました。
質屋
質屋は質草の価値をその場で見定め、客にお金を貸します。
期限までにお金が返せない場合には、あずけた質草は質屋のものとなり、「流れる」といいます。
質屋には火に強い蔵や保管庫を備えることが法律で決められています。
下宿屋
大家さんが一緒に住み、トイレや洗面所は共同。
多くの下宿屋は、民家を改造したもの。
2階はすべて貸し出されていることが多かった。
紙芝居屋
紙芝居の道具を乗せた自転車でやって来て「はじまり、はじまり」と拍子木を打って子供たちを集めました。
観覧料の代わりに駄菓子を買って、それを食べながら紙芝居を見ました。
声の調子を上げたり下げたり、臨場感たっぷりに演じた。
紙芝居は決まって「つづきは明日」と話を終わらせました。
屋根葺き職人
屋根の葺き替えは、職人を中心として、村の人々が協力しておこないました。
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ここまで、
↑↑ 「昔のお仕事大図鑑」 日本図書センター 2020年発行
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「失われゆく仕事の図鑑」 永井・高野共著 グラフィック社 2020年発行
キャバレーのホステス
キャバレーチェーン「ハリウッド」を経営してキャバレー太郎の異名をとっていた福富太郎に著作「昭和キャバレー秘話」によると、
ホステスという呼び名が使われるようになったのは1964年の東京オリンピックからで、
不幸な家庭や男女関係、恵まれない環境など、人生の暗い影を背負った女たちが多いと書いている。
屋上遊園
百貨店が、それまでの木造の建物から高層ビルに建て直されたときに生まれた。
百貨店は出入り自由、商品を見るだけも、屋上に行くのも自由。
大食堂で食事をしたり、おもちゃ売り場で買い物をしたりすれば経営者の思うつぼ。
屋上庭園はやがて、子供向けの遊具などを置いて客を惹きつけるようになる。
観覧車、コースター、豆汽車もあった。
踏切番
踏切の操作を手動で行っていた。
早く閉めても、遅く閉めてもいけない。
バスガール
バスの車掌は主に女性の仕事だった。
未舗装の道で、クッションも効いていない車両、長時間の立ち仕事に耐えられる体力、精神力が必要だった。
ガマ口のようなバッグをかけ、乗ってくる利用客に切符を売った。
「お降りの方はございませんか」と確認し、客の乗降のたびにドアを手で開け閉めし、運転手に「発車オーライ」と合図する。
狭い道路で対向車があるときは、バスを降り、周囲の安全を確認しつつ運転手を誘導した。
都内で初めてワンマンカーが登場したのは1961年。
「降車ブザー」「運賃箱」が登場した。
食堂車・ビュッフェ
特急・新幹線にあった。
ビュッフェは軽食やコーヒーを立食できる。
新幹線の食堂車は2000年3月に姿を消した。
アイスキャンデ-売り
自転車の荷台に大きな木箱を乗せ、のぼりを立てて、チリンチリンと鐘を鳴らせて売り歩く。
昭和の夏の風物詩。実はそれほど長くはない。
1950年代後半から強力なライバルが登場する。雪印、森永、共同乳業などの大手メーカーがアイスクリームや氷菓の大量生産を始め、冷蔵庫が普及し、冷たいお菓子の選択肢はひろがっていった。
1960年代の後半には、もはや懐かしい存在になっていた。
映画看板師
映画館は近くにある看板屋に発注していた。
昭和30年代は週替わりで新しい看板を描かねばならないので、映画以外手の回らない看板屋がいた。
傷痍軍人
白い衣類に身を包み、残った片方の脚を投げ出して、もう一方の脚が失われていることが見る人にわかるような姿勢をとってゴザのうえに座っていた。
楽器にはアコーディオンが多かった。
成人映画館
1960年代、テレビ時代の到来で映画会社がつぶれ、多くの映画館が成人映画に切り替わった。
新東宝が1961年に倒産、多数のスタッフ等が宙に浮き,彼らによって『肉体市場』がその1号といわれる。
1971年には日活ロマンポルノが始まった。
遣り手婆
やりてばあ
長屋のように並ぶ遊郭の店には、それぞれに遣り手婆がいる。
遊郭の女性が、自から客引きをすることは決してない。
彼女らが客の相手をするのは、あくまで遣り手婆が客を引き込んだあとからだ。
灯台守
灯台守の特色として僻地勤務と転勤の激しさが挙げられる。
田舎の人里からはるか離れた、岬の先端や孤島がざらだ。
買物も不自由なために、魚を釣り、小さな畑を耕し、雨水を貯め生活用水にする生活だった。
転勤は数年おき、北海道から沖縄まで広範囲で、半自給自足生活が待ち構えていた。
コンパニオン
1964年、東京オリンピックの際に29名のコンパニオンが選ばれた。
コンパニオンは、英語が堪能であり、知的で、柔軟で、対応力があり、
あこがれの職業となった。
表具屋
床の間や襖に飾られた書画。
サーカス
はっきりと覚えているのは、
オートバイが網目状の鉄球のなかをぐるぐる回る演目だ。
エンジンの爆音と排気ガスの匂いがすごかった。
60年ほど前には、20本以上のサーカスが、全国を巡演していたが、
現在も活動をつづけているのは木下サーカスただひとつ。
レコード屋
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