しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

女の一生

2022年01月01日 | 江戸~明治



(以下母の話・2001年1月1日 )


朝飯は朝炊く、昼の分もあわせて炊く。

足らにゃあ昼にも炊きょうた。

大勢のうちにゃあ、昼も炊きょうた。

丸山にゃぁ、是ッピ、昼になると炊きょうた。
主婦の朝・・・(いまでいう主婦でなく、農婦とでもいったほうがよいか?)


朝は起きて、まず「くど」の火をつける。

朝飯は(どこのうちもそうしょうたが)、前の晩にしかけとく。

米をといで釜にしかけとく。そうしたら米もやおうなってエエゆうてようた。

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「昭和の仕事」

2022年01月01日 | 江戸~明治
「昭和の仕事」 澤宮優 弦書房 2010年発行

綿打ち直し屋
昔の敷布団は綿花の綿が詰まっていた。
湿気と体の重みで綿が固くなってしまう。
いわゆる煎餅布団の状態になる。
綿を機械でほぐして、ふくらませるのを打ち直しという。
これによって綿の体積が4~5倍に膨れあがり、再び布団の中に戻す。
4~5年に一回は打ち直しをやっていた。

純喫茶
音楽を聴きながらコーヒーが飲める店。
バーやカフェーなどの特殊喫茶と区別していた。
昭和30年代には歌声喫茶など、歌う喫茶戦もあった。
個人経営だから、喫茶店も一軒ごとに顔があった。

八百屋
野菜、果物を売る店。
昭和60年代までどこでも八百屋は見られたが、大型チェーンスーパーの進出によって姿を消してしまった。

訓導・代用教員
訓導は小学校の正規の教員のこと。
代用教員は、正式な教員免許を持っていない人。
一年契約で、旧制中学出身者に多かった。

自転車預り所
地方の駅に行くと、自転車置き場がないので、自転車を預かる店があった。
かつては社会人の利用も多かったが、今は高校生が利用している。

銭湯
昭和20年代、30年代がもっとも客足が多かった。
昭和60年代まで学生は、ほとんど下宿住まいで、銭湯を使った。

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「昭和の消えた仕事図鑑」  澤宮優 原書房 2016年発行


馬方(馬子)
馬に荷物や人を乗せて商売する人。


炭鉱夫
三井三池炭鉱は、昭和前期まで囚人労働が主で、女性の坑夫、朝鮮人労働者もいた。
「掘進」と「採炭」に分かれ、
掘進は坑道を掘る仕事である。火薬で岩を崩し、崩れた岩を運びやすいように小さく砕く。トロッコで運ぶと、天井が崩れ落ちないように板や木で枠組みをする。
採炭はツルハシとスコップで炭層を掘り、トロッコに載せ坑道出口まで運んだ。
1日に3m進んだ。「採炭」は炭鉱夫にとって花形で、給料もよかった。
1日3交替の1週間交代。
現場は通風も悪く、暑くなった。
昭和30年代半ばになると政府が、エネルギーの中心を石油に替えたことから、石炭は重視されなくなった。

傷痍軍人
人通りの多い場所に立ち、アコーデオンなどで軍歌、哀調のある曲などを演奏し、通りがかった人から賽銭を貰う。
これが儲かると知った失業者達も、どっと参入して、傷痍軍人の木綿の白い服さえあれば生活費を稼げると思い、街角に立つようになった。
昭和50年代でもよく見かける光景だったが、
さすがに平成に入ると姿を見ることはなくなった。

女衒(ぜげん)
遊郭など性的産業に人を売る人買いのこと。
売春を専門に娘を女郎屋に売る仕事。
女衒は日中戦争、第二次世界大戦の時期は、兵隊の慰安のために娘たちを日本軍の占領地に運んだ。
東南アジアに売られた女性を「からゆきさん」と呼ぶ。
女衒は江戸時代に「忘八」とも呼ばれた。儒教の徳目を忘れた人という意味で、
まさにその本質を突いている。

「昭和の消えた仕事図鑑」  澤宮優 原書房 2016年発行

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「昔のお仕事大図鑑」 日本図書センター  2020年発行

和傘職人
和傘づくりには100以上の工程があり、完成するまでには数か月かかりました。
それぞれの工程に高い技術が必要で、十数人の職人による分業でつくりました。
1・骨を組み立てる
竹を削って太い軸と細い骨をつくり、糸でつないで組み立てる。
2・傘張り
骨に和紙を張る。
3・油ぬり・乾燥
傘の表面に防水のため、植物からとった油をぬり、天日で乾燥させる。

養蚕農家
大正から昭和初期にかけて、生糸は日本の重要な輸出品であったため、
日本各地の農家が専業や副業で養蚕をおこない、収入を得ていました。
桑を畑で育て、日に何度も桑の葉を摘んでカイコに与えなくてはいけませんでした。
カイコは35~45日ほどで繭となり、仲買人を通して製糸業者に売られました。

畳屋
畳は芯の部分の畳床に、イグサで織られた畳表(ゴザ)をかぶせ、ふちに畳べりという布をぬいつけてつくります。
畳屋は、畳を家に敷く作業や、古くなった畳表の張替もおこないます。

塩づくり職人
海水から水分を蒸発させて、塩をつくる仕事です。
まず、海水の塩分濃度を高くして、煮詰めて塩をとる、という方法で塩をつくりました。

炭焼き職人
木炭は、山でナラやカシなどの木を切り倒し、小さく木を切りそろえたあと、
炭焼き窯で焼いてつくります。
窯の入口を土でふさぎ、蒸し焼きにすることで、木材は燃えても灰にならず黒い塊になります。

鍛冶屋
金属を打って強くし刃物などをつくる
鍛冶屋は、熱した金属を打ってじょうぶにしながら形成し、農具や刃物などをつくったり、修理したりする仕事です。
農具をつくるのを「野鍛冶」、包丁をつくるのを「包丁鍛冶」、つくるものによって呼び名が違いました。

桶屋
木の板をぴったり並べて水も漏れない桶や樽をつくる。




桶屋
桶は、丸みがつくように削った何枚もの細長い板を円筒形に並べ、箍(たが)と呼ばれる部品で、外側をしばってから底板をはめ込んで作ります。
水を一滴ももらさない桶をつくるには、板をていねいに削る作業や、板の組み合わせを見極める職人の技術が必要でした。
箍屋
箍屋はい竹を割って細く削って編み、箍をつくる仕事です。
桶は使っているうちに箍がゆるむので、箍をつけかえる修理もしました。

豆腐屋
豆腐を手づくりして売り歩く。
豆腐屋の朝は早く、早朝の4時や5時には豆腐づくりが始まりました。
豆腐は日持ちがしなかったため、毎日つくる必要がありました。

金魚売り
金魚を売り歩く仕事です。
水を張ったたらいに金魚を入れて、金魚鉢といっしょに天秤棒で担いで運びました。
思いたらいを運ぶのは重労働だったため、金魚売りには若者が多かったと言われています。

蒸気機関車
機関士
速度計を見ながらハンドルやブレーキを操作し、時刻通りに列車を走らせた。
機関助士
石炭をくべる機関助士。
機関助士の顔は、石炭が燃やしたときにでるすすで真っ黒になった。

蒸気機関士への長い道のり
蒸気機関士になるには、まず駅員としてはたらきながら、機関車についての勉強をしなければなりませんでした。
機関助士を数年務めたあと、試験を受けて機関士になるまでには5年から7年もの時間がかかりました。

渡し船の船頭
小さな船をあやつる人のことを「船頭」といいます。
多くの場合、水の事故を防ぐため、川の水位の変化に詳しい地域の住民が先祖代々務めました。
年中無休で地域の人達を運びました。


沖仲士
貨物船の荷物を陸へ運ぶ、きびしい肉体労働でした。
「沖荷役」ははしけで陸まで運び、「沿岸荷役」ははしけの荷物をトラックなどに移しました。

灯台守
灯台守は一日たりとも灯台を離れることができませんでした。
2006年最後の灯台守がいなくなりました。


電話交換手
市外への接続は電話交換手の仕事でした。
昭和401年代中期になると、市外への電話も自動化され交換手の仕事はなくなりました。

タイピスト
大正4年漢字とかなを印字できるタイプライターが発明され、役所や企業で公文書作成に用いられるようになりました。
大正から昭和初期にかけて、女性の花型仕事でした。

靴磨き屋
大正から昭和にかけてさかんになりました。
とくに第二次大戦後には、戦争で家族を失った戦争孤児や女性の多くが、靴磨きで生計を立てました。

下駄の歯入れ屋
すり減った歯を交換したり、鼻緒のすげかえをしました。

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羅宇屋(らうや)
煙管(きせる)は、「火皿」「羅宇」「吸い口」という部品でできています。
羅宇は使っているうちに、ヤニがつまったり折れたりするので、羅宇を修理したり、新品と取り換えたりします。
羅宇屋は熱い水蒸気でつまりを取り除いたほか、新品の煙管も売っていました。


鋳掛屋
直すものは、鍋ややかん、釜などが多かった。
昔の鍋ややかんは、今より質が悪く、よく穴があいた。
鋳掛屋は,火を起こす小さなふいごなどを乗せた自転車やリヤカーで、町を回りました。

蹄鉄屋
馬のひずめの裏には、補強の為に蹄鉄(ていてつ)というU字型の金具がつけられています。
この蹄鉄をつくり、
馬のひづめに取り付けるのが、蹄鉄屋の仕事です。
それぞれの馬のひづめにあわせて作り、定期的に交換していました。

貸本屋
昭和30年代には「貸本漫画」と呼ばれる子供向けのマンガが一大ブームになり、
貸本屋は多くの子供でにぎわいました。

質屋
質屋は質草の価値をその場で見定め、客にお金を貸します。
期限までにお金が返せない場合には、あずけた質草は質屋のものとなり、「流れる」といいます。
質屋には火に強い蔵や保管庫を備えることが法律で決められています。

下宿屋
大家さんが一緒に住み、トイレや洗面所は共同。
多くの下宿屋は、民家を改造したもの。
2階はすべて貸し出されていることが多かった。

紙芝居屋
紙芝居の道具を乗せた自転車でやって来て「はじまり、はじまり」と拍子木を打って子供たちを集めました。
観覧料の代わりに駄菓子を買って、それを食べながら紙芝居を見ました。
声の調子を上げたり下げたり、臨場感たっぷりに演じた。
紙芝居は決まって「つづきは明日」と話を終わらせました。

屋根葺き職人
屋根の葺き替えは、職人を中心として、村の人々が協力しておこないました。

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ここまで、
↑↑  「昔のお仕事大図鑑」 日本図書センター  2020年発行
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「失われゆく仕事の図鑑」  永井・高野共著  グラフィック社 2020年発行

キャバレーのホステス
キャバレーチェーン「ハリウッド」を経営してキャバレー太郎の異名をとっていた福富太郎に著作「昭和キャバレー秘話」によると、
ホステスという呼び名が使われるようになったのは1964年の東京オリンピックからで、
不幸な家庭や男女関係、恵まれない環境など、人生の暗い影を背負った女たちが多いと書いている。

屋上遊園
百貨店が、それまでの木造の建物から高層ビルに建て直されたときに生まれた。
百貨店は出入り自由、商品を見るだけも、屋上に行くのも自由。
大食堂で食事をしたり、おもちゃ売り場で買い物をしたりすれば経営者の思うつぼ。
屋上庭園はやがて、子供向けの遊具などを置いて客を惹きつけるようになる。
観覧車、コースター、豆汽車もあった。

踏切番
踏切の操作を手動で行っていた。
早く閉めても、遅く閉めてもいけない。

バスガール
バスの車掌は主に女性の仕事だった。
未舗装の道で、クッションも効いていない車両、長時間の立ち仕事に耐えられる体力、精神力が必要だった。
ガマ口のようなバッグをかけ、乗ってくる利用客に切符を売った。
「お降りの方はございませんか」と確認し、客の乗降のたびにドアを手で開け閉めし、運転手に「発車オーライ」と合図する。
狭い道路で対向車があるときは、バスを降り、周囲の安全を確認しつつ運転手を誘導した。
都内で初めてワンマンカーが登場したのは1961年。
「降車ブザー」「運賃箱」が登場した。


食堂車・ビュッフェ
特急・新幹線にあった。
ビュッフェは軽食やコーヒーを立食できる。
新幹線の食堂車は2000年3月に姿を消した。

アイスキャンデ-売り
自転車の荷台に大きな木箱を乗せ、のぼりを立てて、チリンチリンと鐘を鳴らせて売り歩く。
昭和の夏の風物詩。実はそれほど長くはない。
1950年代後半から強力なライバルが登場する。雪印、森永、共同乳業などの大手メーカーがアイスクリームや氷菓の大量生産を始め、冷蔵庫が普及し、冷たいお菓子の選択肢はひろがっていった。
1960年代の後半には、もはや懐かしい存在になっていた。

映画看板師
映画館は近くにある看板屋に発注していた。
昭和30年代は週替わりで新しい看板を描かねばならないので、映画以外手の回らない看板屋がいた。

傷痍軍人
白い衣類に身を包み、残った片方の脚を投げ出して、もう一方の脚が失われていることが見る人にわかるような姿勢をとってゴザのうえに座っていた。
楽器にはアコーディオンが多かった。

成人映画館
1960年代、テレビ時代の到来で映画会社がつぶれ、多くの映画館が成人映画に切り替わった。
新東宝が1961年に倒産、多数のスタッフ等が宙に浮き,彼らによって『肉体市場』がその1号といわれる。
1971年には日活ロマンポルノが始まった。

遣り手婆

やりてばあ
長屋のように並ぶ遊郭の店には、それぞれに遣り手婆がいる。
遊郭の女性が、自から客引きをすることは決してない。
彼女らが客の相手をするのは、あくまで遣り手婆が客を引き込んだあとからだ。

灯台守
灯台守の特色として僻地勤務と転勤の激しさが挙げられる。
田舎の人里からはるか離れた、岬の先端や孤島がざらだ。
買物も不自由なために、魚を釣り、小さな畑を耕し、雨水を貯め生活用水にする生活だった。
転勤は数年おき、北海道から沖縄まで広範囲で、半自給自足生活が待ち構えていた。


コンパニオン
1964年、東京オリンピックの際に29名のコンパニオンが選ばれた。
コンパニオンは、英語が堪能であり、知的で、柔軟で、対応力があり、
あこがれの職業となった。

表具屋
床の間や襖に飾られた書画。

サーカス
はっきりと覚えているのは、
オートバイが網目状の鉄球のなかをぐるぐる回る演目だ。
エンジンの爆音と排気ガスの匂いがすごかった。
60年ほど前には、20本以上のサーカスが、全国を巡演していたが、
現在も活動をつづけているのは木下サーカスただひとつ。


レコード屋

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綿を作る②機織り、その後裁縫

2022年01月01日 | 江戸~明治
「暮らしの世相史」 加藤秀俊 中公新書 2002年発行

機織りと裁縫

農家で木綿をみずから栽培し、それを織って衣料品を作る、というのはついこのあいだまでごくあたりまえのことであった。
明治末期の村では、
一家の主婦のしごとのなかでは機織り、裁縫というのがおおきな比重をしめていて、彼女たちは毎晩のように機を織り、針仕事をして家族成員すべての衣料品を用意することが期待されていたし、
婦人たちもそれを当然の作業としてみずからに課していたのである。
かつての農村では老若男女をとわずハダカに近い恰好をしていたようである。
機織りの音と裁縫する主婦のすがたは明治の文明開化によってもたらされた「ゆたかな社会」の象徴であったのかもしれない。
みずから機織りをしたり、あるいは綿布を購入して着物を縫ったりするようになったのはせいぜいここ百年ほどのあたらしい現象だったのだ。

「味噌や醤油、豆腐や漬物などの一切を自給し、家族全員の外出着や仕事着を夜なべに織る。
蚕の屑繭から袖や羽二重の背広布地を織り、綿を紡いでは縞の着物やモンペを作る。
母は愚痴一つこぼさずやってのけた。
その織物は7人兄弟の上から下に着継がれても破れないほどの厚地であった」

針仕事は、かつての日本の婦人にとっての最低必要な技能のひとつでもあったのだ。
裁縫の腕は娘たちの競争の領域であり、また結婚にあたっての資格でもあった。
嫁入り道具のなかには、かならず「針箱」があったし、「絎台(くけだい)」もすべての家庭の常備品だった。
技能さえしっかりしていれば、女性にとっての数少ない「内職」のひとつでもあった。
主婦の仕事のなかに、つくろいというのがあった。
穴のあいた靴下にツギをあてたり、ほつれをなおす作業があった。




「金光町史」

裁縫

機織りが終わると、裁縫が女の仕事のように言われた。
明治末から大正にかけて女の子は女学校か、高等科2年がすむと、裁縫学校へ行ったり、近所の仕立物をしているところで裁縫を習ったりした。
布は織らなくなっても、衣は手縫いであった。
和服は仕立て直しが出来るし、当たりを替えるといい、
すり切れた個所は、着物の別の個所の布と交換して縫い直した。
子供は成長が早く、
着物はすぐ着れなくなる。
幾人もの子供を持つ母親は、祭り、正月等の行事に新しいものか、さっぱりしたものを着せるに忙しかった。

裁縫は小学4年生ぐらいから、運針、雑巾、前掛け、一つ身の着物など、
女学校では大人の本裁ちの浴衣、単衣や袷の着物、羽織、袴なども雛形を作って一通りは習った。
当たりを替えて着物の仕立て直しの出来ることが一人前だった。



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戦後の第二回総選挙

2022年01月01日 | 江戸~明治



「昭和二万日の全記録6」 講談社  1990年発行


昭和22年4月25日 第23回衆議院議員選挙

戦後2回目の総選挙が行われた。
前回(昭和21年4月20日)の総選挙は旧憲法による帝国議会の衆議院議員選挙だったから、
新憲法によって主権者となった国民にとっては、初めての「主権在民」投票だった。
この月は、衆議院だけでなく
参議院、知事・市町村長や都道府県議会議員、市町村会議員と、
国政・地方をあげていっせいに選挙が行われた。

新憲法が22年5月から施行されるために、それまでに国会と地方自治体を、憲法の精神に合致するよう改革しておく必要があった。

知事・市町村長の選挙は4月5日だった。
住民の直接選挙で選ばれた。




(社会党が第一党になった)
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2022.2.26 (野菜)

2022年01月01日 | 江戸~明治
2022.2.26-2
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「野菜まるごと辞典」 成美堂出版
「野菜まるごと辞典」 成美堂出版 2012年発行
・・
キャベツ
世界最古の野菜の一つ。
日本では明治以降に広まり、千切りキャベツは日本の洋食屋で生まれた。
・・
シュンギク
ヨーロッパでは花を観賞用、アジアでは食用としている。
室町時代に日本にわたったとされる。
独特の香り成分は、食欲増進に効果的。
・・
タケノコ
先端は和えもの、穂先はタケノコご飯や煮物、根元に近い部分は煮物、炒め物。

・・
タマネギ
日本では黄タマネギが主流。
一ヶ月半干し、皮を乾燥させて出荷する。
みじん切り
横に切り、縦に切り、最後に細かく切る。
くし切り
繊維に沿って放射線状に切る。煮物や味噌汁に。
スライス
縦半分、繊維に沿って縦にまたは直角に。生食に向く。
輪切り
揚げるなどの料理に使う。
・・
ニラ
旬は冬から春先。スタミナ食。
「・・
ネギ
 ・・

ハクサイ
・・
フキ
日本各地に自生。
・・
ブロッコリー
昭和50年代から食用として広まった。
・・

・・
モロヘイヤ
日本には1980年代に渡った。
夏場の栄養補給によい健康野菜。
・・・
レタス
平安時代後期「ちしゃ」と呼ばれ、多くの種類がある。
・・
ラッキョウ
日本では江戸時代に広まり、漬物・煮物で食べた。
・・
オクラ
アフリカ原産。広まったのは昭和30年代。

・・
カボチャ(南瓜)

・・・
キュウリ(胡瓜)
昭和の初期から栽培が盛んになった。
・・
トウガン(冬瓜)
夏が旬のウリですが、丸のまま保存すれば冬まで持つことから「冬瓜」の名がついてます。
・・・
トウモロコシ
米・麦とともに主食としても食べられる世界三大穀物。
・・・
トマト
・・
ナス(茄子)
江戸時代の『農業全書』に「紫・白・青の三色あり、また長きあり丸きあり」と記述されているように、日本でも昔から多くの品種が栽培されていたようです。
漬物、蒸しもの、煮物、炒め物と幅広く使える野菜。
油との相性がよい。
・・・
ニガウリ(ゴーヤ)
・・・
ピーマン
トウガラシの辛味のない品種改良されたもの。
日本では明治時代にはいった。
パプリカはピーマンの大型種。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
根もの

カブ
春の七草「すずな」としても知られる。
葉も栄養が豊富。
漬物、蒸し煮物、炒め物、すりおろしなど。

・・
ゴボウ
薬草として使われていた中国から、平安時代に日本に伝わった。
世界中で食用としているのは日本だけ。
・・・
・・・
サトイモ(里芋)
日本では稲作よりも早く、縄文時代から食べられていた。
中央の親芋のまわりに子芋、孫芋がつく。
ずいき
葉柄はずいきとして食用にされる。
ハスイモ
葉柄専用として作られるサトイモ。葉柄のみ食べる。
・・
ジャガイモ(馬鈴薯)
南米アンデスが原産。江戸時代初期オランダ人によって長崎に渡り、
「ジャガタライモ」と呼ばれました。
明治以降に栽培されるようになりました。
春先に出るのが新ジャガ。
・・・
・・
ショウガ・ニンニク
カラカラになるまで干して、瓶などに保存する。
・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ニンジン
細長い東洋系ニンジンと、
太く短い西洋系ニンジンがある。
日本でよく食べられているのは西洋系ニンジン。

・・
レンコン(蓮根)
沼や田んぼの水の中で栽培され、
サラダ、酢漬け、煮る、焼く、蒸すなど料理次第でさまざまな食感が楽しめる。
・・
くわい
芽が出ている形から「めでたい」と年末市場に出回る。
・・・・
コンニャクイモ
粉にして、水や消石灰などを加えてコンニャクが作られる。
ほとんどが食物繊維で、腸内の有害な物質を排出し、
血圧やコレステロール値を下げる働きもある。
低カロリーでダイエット食としても人気。

 
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・・・
エンドウ(豌豆)
サヤごと食べる、サヤエンドウとスナップエンドウ。
実を食べる、グリンピースなどがあります。
サヤエンドウが代表で、彩りとして使われるが栄養価が高い。

・・
ラッカセイ(落花生)
「南京豆」と呼ばれる。

・・・
ソラマメ(空豆・蚕豆)
「味も栄養も収穫から3日まで」、鮮度が落ちやすい野菜。
・・・・
ササゲ
別名「大角豆」、小豆は煮ると皮が破れるが、
ササゲは敗れにくいため縁起が良いとされ、主に赤飯に使われる。
・・・
ゴマ(胡麻)
ゴマは古くから世界各地で食され、香辛料や油としても利用されてきました。
食べるのは種子の部分で、炒ると香りがよく、風味付けにもなります。
秋には、サヤの中にびっしり実が出来る。乾燥させてサヤのなかからゴマを出す。

・・・

・・・

雑穀
米・麦以外の穀物を「雑穀」と呼びます。
アワ
黄色い、うるち種はアワおこし、飴など。
もち種はアワ餅、だんごなどに。米といっしょに炊いてもよい。
キビ
うるち種、もち種がある。餅やだんご、菓子などに使われる。
ハト麦
卵形の種子。煎じたものがハト麦茶。かゆにしたり、だんご・パンに使う。
押し麦
大麦を加熱して、圧縮してつぶしたもの。米に混ぜて炊く。
ソバ
三角形の形が特長。ひいて粉にして打ち、麺にする。
タカキビ
草丈が高いので名付けられた。
白米と一緒に炊くと赤飯のような色になる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・

山菜・キノコ
エリンギ
日本での歴史は浅く1990年代に栽培されるようになったばかり。
歯ごたえがあり、キノコとしては日持ちがよく、栽培種でいつでも手にはいる。

・・・

・・
マツタケ(松茸)
秋の味覚の代名詞。
人工栽培が難しい高価なキノコ。
秋のほんの一時期しか食べられない。
成分よりも香りと風味を楽しむものといえるでしょう。
外国産が安く手に入る。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

香りの野菜
サンショウ(山椒)
ミカン科の低木で、日本全国に自生しています。
古くから香辛料や薬用に使われており、抗菌・殺菌効果があります。

・・
シソ(紫蘇)
葉だけでなく、
若い芽、花穂、実も薬味やつまものなど、
さまざまに利用される代表的な香味野菜。
栄養面でも注目の日本のハーブ。
青ジソ
大葉ともよばれ、香りがよく、苦みがある。
赤ジソ
梅干しや漬物の色づけや、ふりかけなどに使われる。

・・
ショウガ(生姜)
薬味や酢漬け、生などさまざまに使える香味野菜。
ヨーロッパではスパイスとして乾燥ものを使う、
生で食べるのは日本独特の食習慣です。
冷え性や風邪には温かい加熱したショウガがよい。
・・・
ニンニク(大蒜)
独特な香りがスタミナの元!
昔から疲労回復、強壮効果があることで知られています。
昭和になってから食用として普及したようです。
ネットに入れてつるして数か月は使える。
・・・
パセリ
香りだけなく栄養価も高い。
1.2月が旬。
飾りだけでなく積極的に食べたい野菜です。

・・・

ミョウガ
食欲のない夏場の薬味や夏バテ防止にもおすすめ。
・・・
ミツバ
春を告げる日本の香草。
日本の野山に自生していた香草を改良したもの。
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果物・フルーツ


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小学館の図鑑「野菜と果物」  小学館 2013年発行

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トマト
明治時代に栽培されるようになり、
サラダで食べるようになったのは、戦後のことです。

・・・
ナス

一年草。
初夏から秋まで実がつきますが、若い果実を収穫します。
日本では奈良時代に最初の記録があります。
「奈須比」と呼ばれ、煮物や漬物に人気のある野菜でした。

・・・
キュウリ
昔のキュウリは味が苦く人気はありませんでした。
生で食べるようになったのは、戦後に品種改良されてからです。
・・・
オクラ
日本には明治に入りましたが食べる人は少なかったようです。
ふつうに食べられるようになったのは、近年のことです。
・・・・
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茂平の磯で食べれるもの
2022年01月02日 | 江戸~明治
海で捕るもの

あさりとつぶくれぃじゃ。

ところてんは拾いにいきょうた。
毎年できるゆうもんじゃあ、無かった。

藻の先にできる。
まちごうて他のを採ったりする。

たべるものがないのでそれでも食びょうた。

作者の小学時代、何回か採取してつくってたべて。もちろん、子供だけで、すべて(採る、作る、食べる)

2000・12・24

たいらげ
三角形のような。ねべぃ所におった。
砂のあるところにゃぁおらん。

つぶ

つぶはなんぼうでもどこでも。石があるとこ。


こおまい蟹がおった。そりょを獲ってたいてたびょうた。
ちいとの時はたかん。なんぼかようけい獲った時にじゃ。
親指くれいじゃ。おいしかった。

漁師が「こりょを獲ってたべりゃあうめんど」ゆうてようた。
こまいんで、獲るのが(ある程度の数まで)たいぎじゃった。

(母の話)いしもち蟹をたびょうた。


2001年10月7日
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芋飴
2022年01月02日 | 江戸~明治

母の話)
芋あめは売りにきょうた。

たくみさんのとこで。戦後神戸から帰ってきて。
おばさんは「テンプラはどうですか?」いうて売りにきょうた。

おじさんは自転車でトウフを売りにきょうた。
トウフは朝作って、それから芋飴をつくりょうた。

子供のいーさんは1番じゃった。中学を卒業する時に引揚げて神戸にいんだ。


金浦からは小麦を買いにきょうた。小麦を出せば、ちいとばあ「せんべい」をくれてんじゃ。
大事にしておやつにして食びょうた。

そのころはポン菓子が来ればようしょうた。


(父の話)
さつま芋で。芋を買うて作りょうたんじゃけい、高いもんにつく。

狭い家に住んどったが、なんでもやりょうた。

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岡山ふだんの食事
2022年01月02日 | 旅行メモ/下書き
「岡山ふだんの食事」  鶴藤鹿忠  岡山文庫  平成12年発行

昭和40年代にはいると、米は過剰となる。
昭和45年頃から、麦飯や雑穀食、サツマ芋食はしなくなっていった。
昭和46年から、稲作転換が行われた。麦類の栽培はやめた。


海の魚
刺し身、塩干物
一般に刺し身を食べるようになったのは明治時代からである。
それまでは生ものを食べる習慣はなかった。
江戸時代以前は、魚は塩干物であった。
明治以降も塩干物が主体である。
生魚(鮮魚)は無塩(ぶえん)といって、尊ぶ風があった。
無塩は,日もちがよくないので、遠方まで運ぶことができなかった。
塩物や干物は、焼いたり、焦がしたりしたが、
味付けする時には、塩物は水につけて塩抜きし、干物は水でもどした。

県南の海の魚
瀬戸内海に近い村々でも、普段には、塩サバとか塩イワシなどを月に1~2回買う程度であった。


カツギ(担ぎ)
結婚式とか建前には、例えば笠岡市西浜(ようすな)の漁村で買い求めてのカツギ(担ぎ、担ぎ人)は魚籠を一荷にして、オーコ(天秤棒)で担ぎ、何人かのカツギがリレーで駆けて交代で吉備高原まで運んだ。
カツギは、運んだ距離によって賃金をもらった。
昭和10年頃までのことである。

サワラ
5月初め魚島でよく捕れる。
寄島町安倉などの漁港に荷揚げして、何人かのカツギがリレー式に魚籠を担いで、県中部(吉備高原)の村々に春のサワラを売った。
刺し身、煮つけ、塩焼き、なます、あら煮、吸い物、茶漬け、味噌漬けにする。
寒ザワラは、脂がのっておいしい。

ブリ
出世魚で祝い品、贈答品として使われる。
正月における本来の年玉である。


岡山の食風俗
2022年01月02日 | 旅行メモ/下書き
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行


子供の間食

冷や芋、蚕豆や大豆の炒り豆、
春にはユスラ、ビービー、苺、スモモ、フームーサー、野苺、イタドリ、竹の実・・。
夏には、桑の実、野苺、オオカワイチゴ、ホンボロイチゴ、ビワ・・・。
秋には、トウガキ、ザクロ、アサダレ、ヤマブドウ、ナツメ、ニッケー・・。
冬には、アラレ。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

雑炊
ゾウスイ、ゾウシイという。オジヤは現代風で上品な呼び名である。
羽釜に2~3合の米と水を一杯いれ、野菜を沢山いれる。
団子や餅をいれれば団子雑炊という。大根が多ければ大根雑炊・・・・。


白粥
水文の多少によって三分粥、七分粥などの区別があり。
梅干しとかコーコとかがあう。

小豆粥、ササゲ粥、ブンドウ粥、芋粥、栗粥、黍粥がある。

「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行


「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

食用油
昭和20年代までは、庶民は1~2合、油を買ってきて、
ごく少しずつ大事に使ったものである。
ナスビとかタマネギに一滴か二滴落として食べたものである。



庶民は橙酢、柚、梅酢などを用いた。

砂糖
江戸時代末期になってサトウキビが作られ、砂糖の製造が始まった。
大正時代までは黒砂糖、昭和になって白砂糖をも買うようになった。
紋日のほかはほとんど用いなかったものである。



カブラ、カブともいう。
主として冷涼な地方で栽培されている。

茄子
ナスともいうが、ナスビと呼ぶことが多い。
平安時代すでに栽培されていた。

胡瓜
キュウリ、
日本には10世紀に伝わった。

唐辛
トウガラシ、
日本には桃山時代に伝わった。
辛くない唐辛はピーマンという、第二次大戦後広く食用とされるようになった。

カボチャ
南瓜とも唐茄子、サツマ、ボウブラともよばれている。
日本には16世紀に渡来した。
一般には味噌か醤油で煮て、おかずにして食べる。

トマト
明治に渡来し、昭和期になってから急速に普及した。

干瓢
夕顔の果実を細長く切って干したもの。
カビが生じやすいので保存する前に硫黄で蒸したりする。

蓮根
蓮根はハスの地下茎で、古く大陸から渡来した。
池、沼などに植えられ、水田の端で作ることもある。

「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

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果物


日本に原生していただろうといわれている。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行


日本の中部以南に原生した日本梨、すなわちヤマナシが明治30年代に改良された長十郎や二十世紀が作られている。
岡山県では桃や葡萄とともに作られている。

ミカン

種種は多い。
庭木の菜園に一本とか二本、または畑の隅に一本とか植えておいて自給する。

イチジク
笠岡市茂平は産地で干イチジクにして出荷している。

枇杷
日本に自生していたようで、県南地方で家に近いところに一本程度植えておいて自給することがある。

「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

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和52年発行

梅漬

奈良時代には既に花をめでていたが、梅漬は江戸時代からである。
梅漬には、シソやショウガをいれる。
五升から一斗程度の甕に漬けておいて年中利用したものである。
弁当箱の飯に梅干一つを埋めて国旗弁当などと言ったものである。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

里芋
里芋は腐りやすいので、一日くらい干して裏山などに横穴を掘ってスクモをいれてかこっていることが多い。
繁殖した子芋を食べるほか、親芋も食べるし、ズイキ(芋茎)も食べる。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行



・「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行
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魚肉

無塩
生魚はブエン(無塩)といって尊ばれるふうがあった。
吉備高原や中国山地の村々では塩鰯や塩鯖またはイリボシなどの干物の魚を行商人がまれに売りに来る程度であった。
刺身を食べるようになったのは明治以後のことである。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

鰯と鯖
鰯と鯖は庶民にとって、最も代表的な魚である。
高瀬舟の復り荷物に積載した物資は塩鰯、塩鯖、イリコ。
月に一回も買わない家もあった、昔は米で支払ったものである。
塩鯖は年に5回くらい買ったという。塩鰯や塩鯖についている塩がまたよい麦飯のおかずになったという。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行


5月初め魚島には、出買船が海上でサワラを買い集めて笠岡市西浜とか寄島町安倉などの漁港に荷揚げしてそれを何人かがリレー式に魚篭を担いで吉備高原まで運んだものである。
高原の村々では春の鰆として買ったものである。

その他
打瀬漁師が打瀬網でとったシャコなどをその日とれた分を売りに来たり、鯖、ボラ、メバル、アジ、カレイなどを行商に来た時、少しずつ買っていた。
秋には児島湾産の塩アミとか笠岡湾産のモガイまたはアサリなどをまれに売りに来ることがあった。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行


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「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行



山羊
明治以後飼育の家畜である。
第二次大戦以降、欧米食の浸透が獣肉食を普遍化していった。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行


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甘酒
笠岡地方では、旧1月11日の鍬ぞめにはカドに並べた農具や門松に甘酒を少しずつ供え、人も飲んだ。
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ヤッコメ
やっこめ・焼き米・・おやつにつくりょうた。生でも、湯にかけても食べれる。ササゲを混てもしょうた。

 やっこめを漢字で書くと『焼き米』です。
 保存食として作られるようになったのが始まりのようですが、お菓子の代わりとして食べられることもあったようで、岡山県では主に県北で食べられてきました。
 
作り方

 青刈りしたもち米、うるち米を水に浸けておきます。
 1昼夜ほど寝かしておいて、これを釜で煎ります。

 煎った米を臼でつき、その行程で籾殻を除去しておきます。
 この臼でつく行程で、独特の平べったい形が出来上がります。

 早めに食べる場合は茹でた大豆やササゲを入れておきますが、保存食として長く置いておく場合はそのまま保管します。

 保存食としてのやっこめの食べ方は、お湯と塩を加えて戻した上で食べます。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

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「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行
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「岡山の作物文化誌」 臼井英治 岡山文庫 平成18年発行

「岡山の作物文化誌」 臼井英治 岡山文庫 平成18年発行

キャベツ
大正時代以来品種改良が進み、急速に各地に広がって、
品種や種まき期、栽培地などの生み合わせで周年生産ができるようになった。
現在ではダイコンに次いで第二位の生産高になっている。
キャベツは、健康野菜として古代ギリシャ、ローマ時代から知られていた。
「岡山の作物文化誌」 臼井英治 岡山文庫 平成18年発行

エンドウ
江戸時代には栽培も広まり完熟果を利用するほか、青刈りの緑肥としても用いられていた。
本格的な栽培は明治時代から。

イチゴ
江戸末期、長崎に伝えられた。
「福羽」が明治32年生まれ以後、70年間作り続けられる。
「岡山の作物文化誌」 臼井英治 岡山文庫 平成18年発行

ジャガイモ
慶長年間に長崎に伝えられた。
わが国で本格的に栽培が始まるのは明治以降で、北海道の開拓と共に進められた。
岡山県南では3月初めてと9月初めが植え時で、「彼岸の20日目になったら種芋を植える」とおしえられた。
「岡山の作物文化誌」 臼井英治 岡山文庫 平成18年発行

スモモ
すでに「古事記」や「日本書紀」に登場している。
江戸時代の食べ方は生食が中心であるが、いろいろな加工もさえていたようでもある。
「三太郎」はサンタローザのなまりである。
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「岡山の作物文化誌」 臼井英治 岡山文庫 平成18年発行

ヒョウタン
「ひょうたんの里」として知られる岡山市灘崎町では、ヒョウタンの生産組合を作って生産と加工に力を入れている。
近年、青森県三内丸山遺跡の貝塚からもヒョウタンの種子が発見されたことから、
縄文時代すでに渡来しており農耕も始まっていた。
果実の外皮が硬いので、乾燥させて水や酒などの容器として、あるいは二つに割って水を汲む道具として利用されてきた。

サトイモ
わが国への渡来はイネよりも早く、稲作以前の主食であったとする説もある。
鍬を入れると、親イモのまわりに子イモがたくさんつき、さらに孫イモもついている。
その様子は子孫繁栄を象徴するようで、これも縁起のよい食べ物とされた。

アズキ
昔は祝い事がると必ず赤飯を焚き、親類や知人に配ったり、配られたりしたものである。
この赤飯やぜんざい、餡や和菓子などの原料として広く用いられているアズキは重要な食べ物である。
弥生時代遺跡からアズキが出土している。
江戸時代には菓子としての用途が広がった。
岡山県の中山間部でも良質のアズキが生産されている。
かつてアズキは作柄が不安定で投機の対象となって「赤いダイヤ」と呼ばれたことがあった。
今は外国産の輸入によってダイヤではなくなった。




コンニャク
五穀の収穫の少ない山村を中心に栽培された。
庭先に堀り上げたコンニャクの球茎が、クワイほどの小さいものからカボチャ大のまで、大きさによって仕分けられている。
コンニャクの球茎は肥大が遅いので、出荷できる大きさに育つまで四年ほどかかる。
その間、毎年掘り上げと植え付けを繰り返すのである。
集荷できる四年玉の他は、すべて来春の植え込み用に貯蔵しておく。
「岡山の作物文化誌」 臼井英治 岡山文庫 平成18年発行

ダイコン
人々は古くから体験的にその栄養と薬効を知っていたのであろう。
ダイコンの料理法の多様さは他の野菜の追随を許さないものがある。
栽培面積も生産高も、わが国の野菜のなかでは群を抜いている。
ダイコンは日本を代表する野菜なのである。
わが国へは中国から渡来し「古事記」に登場している。
ダイコンは品種も多いので、播種期も収穫期もいろいろで、年中栽培することができる。
「岡山の作物文化誌」 臼井英治 岡山文庫 平成18年発行


クワイ
クワイが正月のおせち料理に用いられるのは、「芽が出るように」という開運の縁起をかつだものである。
クワイが数多くの子球を増やすことから、子孫繁栄の願いも込められたのだろう。
植え付けは6月下旬、田ごしらえした水田に種球を一個ずつ手植えする。
11,12月に収穫・出荷する。泥の中から拾い集めるという手間のかかる重労働である。
「岡山の作物文化誌」 臼井英治 岡山文庫 平成18年発行

ゴボウ
芳井地区では春から初夏にかけて播種し、晩秋から初冬に掘り上げる。
二本鍬で深く掘る作業は重労働で、現在は重機を組合で購入し堀り採るようになった。
「岡山の作物文化誌」 臼井英治 岡山文庫 平成18年発行
井原町史

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「革新と戦争の時代」   山川出版社   1997年発行

海軍はついに松の根から油を作る松根油計画に着手し、
農林省は昭和19年10月に松根油増産大綱を決定した。
「200の松根は一機を一時間飛ばせる」というスローガンで、
農業会を通じ全国民が松根油堀に駆り出された。
一日当たり125万人を動員して昭和19年度に6万キロリットル、
20年度に30万キロリットルの松根油生産が計画された。
約47.000の乾溜釜が全国に作られ、 
昭和20年6月には月産11.000キロリットルに達したが、精製技術上の難点はついに克服できず、
敗戦時までに生産された航空機用ガソリンは海軍第三燃料廠(徳山)での480キロだけだった。
敗戦後アメリカ軍が試験的にジープに用いたところ、数日でエンジンが止まり、使いものにならなかったといわれる。

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「革新と戦争の時代」   山川出版社   1997年発行

航路の途絶
攻撃や機雷の敷設によって商船は次々に失われ、
昭和18年以降、日本は遠方の航路から順次に放棄することになった。
まずラバウル、クェゼリン、ニューギニアが空襲激化とともに放棄され、
昭和19年6月サイパン上陸とともにトラック・サイパン、8月にはパラオとの連絡が切れた。
揚子江はに機雷が敷設され鉄鉱石輸入は不可能になった。
昭和19年7月、タイ、仏印からの外米輸入が閉鎖され、満州からの雑穀に切り替えられた。
本土決戦の大量の軍事米が必要となり、端境期までもちこたえる見通しがたたなくなった。
食塩は生存に必要な最低限まで切り詰められていたが、爆薬生産のために必要な工業塩と衝突した。
南洋航路は石油船団だけにしぼられ、石油輸送に全力をあげたが、昭和20年2月を最後に途絶した。

内海航路
昭和20年3月、関門海峡に機雷、4月には阪神港へ機雷、
日満支航路と九州炭の関西への輸送が困難。
東京・横浜・名古屋も封鎖された。
7月、青函連絡船が全滅し、とりわけ北海道炭の供給途絶により石炭と食糧の不足は危機的な状況に達した。
「革新と戦争の時代」   山川出版社   1997年発行

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衣料
昭和19年現物の衣料は底をついていた。
「革新と戦争の時代」   山川出版社   1997年発行

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「邑久町史」  邑久町役場  昭和47年発行

農民には国策遂行のため食糧増産が指示され、薄荷や煙草などの商業的農業にかわって米・麦・馬鈴薯・甘藷・南瓜などの食料中心の農業となった。
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「岡山市百年史・下」  岡山市  平成3年発行

明治40年に旧陸軍第十七師団がこの地に置かれて以来、
岡山地方における軍の拠点であった兵営と練兵場が、
ほぼそっくり学問の殿堂である大学と、県民市民の健康と憩いの場であるスポーツ公園に変わったのである。
このことは、旧軍事施設の平和利用として全国的にも高く評価された。
後に、昭和25年警察予備隊が発足し、27年保安隊、29年自衛隊へと肥大化していく過程で、両施設はそれらの補強の一環として幾度か基地化の危機に見舞われた。
しかし、地元住民の強力な反対運動や市民の声を反映して県、市などの適切な対応により、危機を免れ、平和の施設として維持されたのである。
なお、上伊福にあった海軍衣糧廠跡には21年11月から岡山県庁が移り、
32年に現庁舎へ移転した後は県立岡山工業高校となった。
また、同所の岡山陸軍病院跡は国立岡山病院となり、同病院が南方に新築移転したあとは昭和37年から県立短期大学が使用している。

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大正時代の城見村①生業
小田郡史(大正13年版)の城見村史より

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生業
本村は一般に農耕にて極めて僅少の商工者あるのみ。
農業は普通作にして傍ら果樹園芸除虫菊等の特用作物を栽培す。
副業としては麦稈及び真田紐製造養鶏等なり。

1・普通作物(大正4年調べ)
田 一毛作56町  二毛作27町


主要生産物
米 1567石 大麦4石 裸麦1936石 小麦496石
その他(栗、黍、蕎麦、大豆、小豆、そらまめ、ささげ、胡麻、甘藷。

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食事③果物・漬物・魚・肉   (吉永町史)
2020年08月31日 | 市町村史
「吉永町史」 吉永町史刊行委員会編 吉永町  昭和59年発行
記述は、昭和35年ごろまでの食事である。

果物

カキ
フユウガキや渋ガキがある。
渋ガキは、
ゆでて渋抜きをして食べたり、
皮をとって、干し柿にする。


ナシ
古くからある。買って食べる。


イチジクその他
気温が低いので育ちにくいといわれる。
柑橘類も育ちにくい。
ユズはユズ味噌にしたりユズ風呂にはいる。


海魚

昔は魚行商人が来なかったので、塩イワシとか塩サバなどや煮干し(いりぼし)なども、出かけたときに買ってきたという。
結婚式のなどの祝い事のときには、
片上や日生、赤穂や相生まで買いに行った。
ところによっては、行商人が天秤棒で担いで、煮干しなどの干し物や塩サバなどを売りにきた。
盆にはコブとかワカメなども売りに来た。
いつのころからか、無塩(鮮魚)のイワシやサバ、タコ、イカ、シャコなどを日生や片上から行商にきた。


淡水魚

フナ、白アエ、ウナギ、ジャコなどは谷川で釣るし、石垣の穴に手をいれて握り捕る。
竹串に刺して焼き、干す。
客がみえると、焙っておかずに出すとか、祭りに利用した。
半ば専業に川魚を捕って行商をし、生計を立てた人たちがいた。
川べりに、草ぶき屋根で、小屋掛け程度の簡素な家を建て、ウナギとかハエを捕って、無塩または干し魚にして売りにきた。



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(暮らし)

風呂

昭和の初期ごろまでは、木桶の五右衛門風呂を据えていたが、鉄(かな)風呂へとかわる。
かけ湯や、抜き捨て湯は、下に掘ってある壷に入る。
せわしい農家にとって、度々風呂を沸かすわけには、いかなかった。
クミイケなどから、水たごで2~3荷運んでいれる。
焚くには時間がかかった。
風呂を沸かすとお互いに、隣近所で知らせあった。
夏ならスイカを割って食べさせるとか、冬なら炬燵に入って、氷餅を食べながら世間話をする。
貰い風呂はコミュニケーションになった。


庭木

屋敷内に植えて、よい木とわるい木がある。
よい木としては、
松、竹、梅、カエデ、カシノキ、クスノキ、サルスベリ、モックなどである。
わるい木としては、
ザクロ、ビワ、イチョウ、フジ、ヤナギ、ゴヨウノマツなどだという。


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蚤(ノミ)を捕る
2016年07月10日 | 暮らし
母の話・2001.1.1

ノミを捕る

(母は蚤捕りの名人と思えるほどノミを捕るのが上手かった)
ノミは今はおらんようになったけぇようなった。


履物

女学校はズックじゃ、それより前は・・・もう、おぼえとらん。




乗り物で行く遠足
旅行の時は汽車に乗って笠岡の城山に行きょうた。
遠足は
嫁要らずの観音さま。ちょうどええ距離で定番じゃった。
美星の方まで歩いていきょうたこともある。


賀山の摩利支天さま
戦時中には、あれに大勢参りょうた。
それで、拝む人が要るゆうて
あがりこぐちのよねやんゆう人が専属で拝むようになった。
戦争の神様じゃゆうて、
「元気に帰れますように」拝みょうた。
郷の方からも拝みにきょうた。

今は正月3日に棟上げをするようになった。

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子供のおやつ
2015年11月29日 | 暮らし
おやつと言えば「ふかし芋」が一番多かった。
珍しいと言えば、カブトガニ。
美味かったのは、食用ガエル。
蜂の幼虫や雨蛙は遊びを兼ねて食っていた。


岡山県史・民族1より転記

大正の初め頃まで田舎の農家では、盆正月・祭り・婚礼・葬式・祝い事などや、町からの来客のみやげのもらい物の生菓子、饅頭が口に入るくらいだった。
食い意地盛りの子供たちは、家のまわりの柿・梨・栗・ナツメ・ビワ・グイビ・ユスラ・山ナスビ・野イチゴ・スカンポ・万太郎ミツ・松緑・ガブ(野ぶどう)・アケビなどに気を配っていた。
栗の木の虫を焼いて食べたことなど今の子供にはないだろう。

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昭和20年 農作物9月12月 報告表
2015年07月18日 | 昭和20年(戦後)
小田郡城見村の役場綴りに保管されている。
終戦当時の畑作物がわかる。



小田郡城見村 昭和20年9月末日

作物名 面積 実収高・貫
タマネギ 2反 450
キュウリ 7 1600
カボチャ 3町0 5800
スイカ 1 400
トマト 4 1230
秋播キャベツ 1 285
マクワウリ 0 0
ユウガホ 1 16
ラッキョウ 9 1800
エンドウ 2 400
ソラマメ 3町4 32石
ジョチュウギク 栽培面積6町9 収穫面積 14.町9 1242貫
タケノコ 1町 1町 850貫
コウゾ 0 0
ミツマタ 0 0
モモ 16町2  40750貫
ビワ 4町5  7200貫
ウメ 0 0 110貫(畦等で栽培)
イチジク 4町1 83000貫


小田郡城見村 昭和20年12月末日

秋植馬鈴薯 9町8反 18620
小豆 13町3反 10石
キビ 3町0 30
アワ 6反 7
ヒエ 0 0
ソバ 3町5反 34
サトイモ 7反 1190貫
ダイコン 1町9反 5700
カブラ 0 0
ニンジン 0 0
ゴボウ 7反 2400
ナス 5反 1500
春播キャベツ 1 400
結球白菜 4 1200
非結球漬菜 1 350
トウガラシ 0 0
ヤマイモ 0 0
ゴマ 1 1石
イチビ 0 0
ワタ 0 0
ミカン 3町1反 ○540貫(注・ミカンの数量は間違いもあり)

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「金光町史」
昭和恐慌

金光町、鴨方町辺でも麦稈真田の輸出減退により価格が大暴落した。
麦稈真田の不振と養蚕業の低迷から抜け出す方途として製帽工業や葉煙草に見出そうとする農家が増えている。

岡山県でも、農業の不況と農村の疲弊が深刻化する中で、
農家経済を維持するため各種の商品作物、家畜などを導入し経営の多角化を図り、
副業の奨励を図った。
農家にとっては別の自衛措置への道でもあった。
葉煙草などと共に、桃、ブドウ、日本ナシ、西洋ナシ、カキなどの生産にも力が入れられ、岡山の「果樹王国」への基礎がつくられた。
・・・



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「真備町史」  真備町史編纂委員会  昭和54年発行

隣組の班長
隣組の班長は重大な責任があった。
この隣組は戦時中大政翼賛会下部組織として制度化されたのが昭和15年3月。
その後内務省令により全国的に組織され、毎月何回か常会を開いて物資の配給の仕事や国債の割当や国防献金、金属の供出、出征兵士の見送り、防空演習など近所同志助けあう手段であって、これに回覧板がよく廻ったもので、それが現在まで尾をひいている面もあり、各地区ごとにこの町でも行政連絡員が居り、諸種の伝達事項を扱ったりしている。・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「日本歴史21 近代8」 岩波講座  1977年発行

開戦後の大政翼賛会第二次改組

翼賛会はすでに、もっぱら内務官僚が主導する上意下達の行政補助機関さらには戦意昂揚のたまめの国民運動機関となっていた。
東条内閣は開戦後、翼賛会強化のための機構改革方針を示した。
それが42年5月15日の機能刷新に関する閣議決定である。

要点は、
第一に
官製国民運動を一律に翼賛会の傘下に統合すること。
戦意昂揚の啓蒙運動や増大する戦時行政事務を、国民に負担させる中間組織としての性格を強めた。
第二に
町内会・部落会・隣保班(隣組)を直接に翼賛会の指導下におくことだった。
約154万人の世話役と世話人が誕生し、翼賛会は部落会・町内会・隣組の指導者を丸抱えすることになった。

こうして国民は、居住地において世話役と世話人をつうじて内務官僚と警察の支配下におかれ、
隣保によって相互に監視させられ戦争協力にかりたてられることになった。
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とくに戦時下の国民生活において部落会・町内会・隣組のはたす役割は決定的であった。
急増する戦時下の行政事務はいっそう部落会・町内会に転嫁され、末端の隣組をつうじて国民に伝達された。

その内容は、住民の登録、生活物資の配給、国債の割当消化、貯蓄の奨励、金属回収、一部税金収納事務、労働力提供、政府の宣伝の普及、警察情報の提供、出征兵士の歓送、戦災の証明、防空活動など国民生活のあらゆる側面にわたった。

しかもこれらの動員のため国民一人々々の私生活の監視・干渉がすすみ、
日常生活の画一化が極端におしすすめられた。
同調しなければ周囲から「非国民」「国賊」の避難をまぬがれないという社会的雰囲気がもたらされた。

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「岩波講座 日本歴史21」 1977年発行

1945年8月の第二次世界大戦における日本の敗北は、日本歴史上もっとも大きな転換点であった。
政治、経済、社会のあらゆる面に、敗戦がもたらせた衝撃は、かつてどのような事件にもまして大きいものがあった。
戦前と戦後の日本を比較すると、短時日の間におこったその変動の量と質は、
他に比べるものがないほど大きい。
しかし一面からいえばその変化は、8・15によって突然もたらされたものでないことはいうまでもない。
この変化を生み出す条件は、未曽有の大戦争をたたかい続ける中であらゆる面にわたって進行していたものであり、
それが敗戦によって行われたのである。

。。。。。。。。

本土決戦は全国民を死のみちづれにすることが明らかでありながら、
戦争指導者たちは具体的な戦争の終結への動きを示さなかった。
それが始まるのは、本土空襲が激化し、民心の離反が明らかになり、
体制存続の危機を感じとった時以後であった。

1944年11月7日のロシア革命記念日の演説で、スターリンは日本を侵略国と呼んだこと、
1945年2月ソ連の極東兵力の増強が見立ちはじめたこととあいまって、
ソ連の対日参戦の危機がせまっていることを陸軍は強く憂慮しはじめた。
4月27日チタにいた中ソ大使館対武官浅井中佐から
「1日12~15列車におよび開戦前夜を思わしむものがあり。
ソ連の対日参戦は今や不可避と判断される」との電報が参謀本部に到着していた。
5月にはいると極東ソ連軍の兵力増強はますます顕著になってきた。
こうしたソ連軍の増強にたいして、関東軍の兵備はとうていこれにたちうちできない状態になっていた。
大部分は南方、沖縄などに引き抜かれていたが、残っていた3個師団を本土に転用したことによって、常設師団は皆無となった。
この穴埋めに新たに装備の劣る新設師団を作り、在留日本人を根こそぎ動員して、
ようやく16個師団となったが、その実態は装備も劣り、とうていソ連軍の攻撃に耐える力を持たない状態であった。

大本営は45年4月末から本格的な対ソ戦の検討を始めた。
中国戦線を放棄するか、満州をも放棄して本土決戦に専念するか、結局は東南部の山岳にたてこもることになった。
いずれにせよソ連の参戦は、日本の戦争遂行にとって最悪の事態をまねくという認識では一致していたのである。

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「日本軍事史」  高橋・山田・保谷・一ノ瀬共著 吉川弘文館  2006年発行

戦死者の墓はなぜ大きいか

日中戦争期、戦死者用の墓の建て方「マニュアル」として編まれた『遺族よ墓は斯う建てよ』なる書物は、その理由を端的に示す。

ある戦死者の母が「尽忠報国の武勲は対等であっても、富めるが故に墓石が大きく、貧しきが故に小さければ,後代への心残りも伴ひます」、
国が墓石の規格を決めてくれないか、というのが要旨である。

戦死者には「賜金」、正式には死没者特別賜金が、戦死・戦病死者の遺族に国から与えられる金で、
陸軍一等兵で1.300円と当時としてはかなりの大金であった。
遺族たちが墓の大きさを競争に走り得た背景には、そうした事情があった。

遺族たちが墓の大きさにこだわったのは、「みすぼらしいものでは故人に申訳ない」という心情によるものだった。
だが、それは
「遺児の養育,其他、将来益々家門を顕揚する為」という賜金本来の趣旨にも、
戦死者の意にも添わなかっただろう。

心情は、近隣間の体面、名誉の競争という横の方向へと向かい、
けっして”反戦”というかたちで上に向かうことはなかったのである。

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「岡山の女性と暮らし 戦前・戦中の歩み」 岡山女性史研究会 
自家製塩の奨励
塩田労働者を徴兵・徴用に奪われて、塩の生産も落ち込んだ。
前年晩秋から、漬物用の塩不足が問題となり、この年5月国は専売法での製塩制限を撤廃して、自家製塩の奨励を始めた。
燃料不足で、鹹水(かん水)をそのまま利用せよ、という指導に変わった。
さらに輸送不足も加わり、漬物用塩の特配が遅れ、山間部で深刻な問題となった。

・・・


「日本の農業4果物をそだてる」 岩崎書店 2010年発行
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小学館の図鑑「野菜と果物」  小学館 2013年発行

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・・・
ナス

一年草。
初夏から秋まで実がつきますが、若い果実を収穫します。
日本では奈良時代に最初の記録があります。
「奈須比」と呼ばれ、煮物や漬物に人気のある野菜でした。
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キュウリ
昔のキュウリは味が苦く人気はありませんでした。
生で食べるようになったのは、戦後に品種改良されてからです。
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サツマイモ
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「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

子供の間食

冷や芋、蚕豆や大豆の炒り豆、
春にはユスラ、ビービー、苺、スモモ、フームーサー、野苺、イタドリ、竹の実・・。
夏には、桑の実、野苺、オオカワイチゴ、ホンボロイチゴ、ビワ・・・。
秋には、トウガキ、ザクロ、アサダレ、ヤマブドウ、ナツメ、ニッケー・・。
冬には、アラレ。

雑炊
ゾウスイ、ゾウシイという。オジヤは現代風で上品な呼び名である。
羽釜に2~3合の米と水を一杯いれ、野菜を沢山いれる。
団子や餅をいれれば団子雑炊という。大根が多ければ大根雑炊・・・・。


白粥
水文の多少によって三分粥、七分粥などの区別があり。
梅干しとかコーコとかがあう。

小豆粥、ササゲ粥、ブンドウ粥、芋粥、栗粥、黍粥がある。


食用油
昭和20年代までは、庶民は1~2合、油を買ってきて、
ごく少しずつ大事に使ったものである。
ナスビとかタマネギに一滴か二滴落として食べたものである。


庶民は橙酢、柚、梅酢などを用いた。

砂糖
江戸時代末期になってサトウキビが作られ、砂糖の製造が始まった。
大正時代までは黒砂糖、昭和になって白砂糖をも買うようになった。
紋日のほかはほとんど用いなかったものである。


カブラ、カブともいう。
主として冷涼な地方で栽培されている。

茄子
ナスともいうが、ナスビと呼ぶことが多い。
平安時代すでに栽培されていた。

胡瓜
キュウリ、
日本には10世紀に伝わった。

唐辛
トウガラシ、
日本には桃山時代に伝わった。
辛くない唐辛はピーマンという、第二次大戦後広く食用とされるようになった。


干瓢
夕顔の果実を細長く切って干したもの。
カビが生じやすいので保存する前に硫黄で蒸したりする。

蓮根
蓮根はハスの地下茎で、古く大陸から渡来した。
池、沼などに植えられ、水田の端で作ることもある。
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「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行
ミカン

種種は多い。
庭木の菜園に一本とか二本、または畑の隅に一本とか植えておいて自給する。

「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

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梅漬

奈良時代には既に花をめでていたが、梅漬は江戸時代からである。
梅漬には、シソやショウガをいれる。
五升から一斗程度の甕に漬けておいて年中利用したものである。
弁当箱の飯に梅干一つを埋めて国旗弁当などと言ったものである。

里芋
里芋は腐りやすいので、一日くらい干して裏山などに横穴を掘ってスクモをいれてかこっていることが多い。
繁殖した子芋を食べるほか、親芋も食べるし、ズイキ(芋茎)も食べる。
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魚肉

無塩
生魚はブエン(無塩)といって尊ばれるふうがあった。
吉備高原や中国山地の村々では塩鰯や塩鯖またはイリボシなどの干物の魚を行商人がまれに売りに来る程度であった。
刺身を食べるようになったのは明治以後のことである。

鰯と鯖
鰯と鯖は庶民にとって、最も代表的な魚である。
高瀬舟の復り荷物に積載した物資は塩鰯、塩鯖、イリコ。
月に一回も買わない家もあった、昔は米で支払ったものである。
塩鯖は年に5回くらい買ったという。塩鰯や塩鯖についている塩がまたよい麦飯のおかずになったという。


5月初め魚島には、出買船が海上でサワラを買い集めて笠岡市西浜とか寄島町安倉などの漁港に荷揚げしてそれを何人かがリレー式に魚篭を担いで吉備高原まで運んだものである。
高原の村々では春の鰆として買ったものである。

その他
打瀬漁師が打瀬網でとったシャコなどをその日とれた分を売りに来たり、鯖、ボラ、メバル、アジ、カレイなどを行商に来た時、少しずつ買っていた。
秋には児島湾産の塩アミとか笠岡湾産のモガイまたはアサリなどをまれに売りに来ることがあった。
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山羊
明治以後飼育の家畜である。
第二次大戦以降、欧米食の浸透が獣肉食を普遍化していった。

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「最新日本の農業図鑑」 八木宏典 ナツメ社 2021年発行

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「最新日本の農業図鑑」 八木宏典 ナツメ社 2021年発行

アズキ
餡、和菓子に使用。

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ソラマメ
炒り豆菓子。
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エンドウ
煮豆、甘納豆、餡
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ササゲ
赤飯に使用する。
岡山産は色・味ともに優良。
「最新日本の農業図鑑」 八木宏典 ナツメ社 2021年発行
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果樹とは
農水省は、果樹を「概ね2年以上栽培する草・木で、果実を食用とするもの」と定義している。
栗や梅は「くだもの」と呼ばれないが果樹、
メロンやイチゴやスイカは野菜ということになる。
「最新日本の農業図鑑」 八木宏典 ナツメ社 2021年発行
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果樹の生産
日本国内で果樹栽培が本格的に始まったのは1870年代のことである。
消費
欧米諸国では果実が日々の食事の一部で、
日本では嗜好品としての性格が強く消費量が、欧米諸国の1/2に満たない。
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「最新日本の農業図鑑」 八木宏典 ナツメ社 2021年発行
「「最新日本の農業図鑑」 八木宏典 ナツメ社 2021年発行
最新日本の農業図鑑」 八木宏典 ナツメ社 2021年発行



あああああああああああああああああああああああああああああああああ

さしみ

年に数えるほどじゃ。

(隣は漁師だったが、魚をくれたのではないか?)

そりゃ、売ったあとのかすじゃ。さしみにゃあ、なりゃあへん。

じゃこやこくりょうた。おいしかった。

2000年12月24日

あああああああああああああああああああああ

はったい粉(煎粉・いりこ)

どこにも精米所があった。大宣にも、伏越にも。大門にもあった。


2001年10月7日
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いかなご

ししゃもみにしてたびょうた。

うまかった。

ししゃは、てでつまんでたべてもようがいかなごといっしょならうまかった。

春になればいかなごを売りに来る。

あれがおおきゅうなるまで買うてくようた。

ししゃもみじゃいやぁいかなごじゃった。

2000・12・17
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2022.1.1-1

2022年01月01日 | 江戸~明治
2022.1.1-1




「昭和で失われたもの」
2022年01月01日 | 旅行メモ/下書き
「昭和で失われたもの」 伊藤嘉一 創森社 2015年発行

かき氷は夏の風物詩
かき氷は夏の風物詩だった。
氷屋のおじさんがハンドルを回すと「シャリ、シャリ」と見る見るうちに氷が新雪のような山となり、涼しさが伝わってくる。
赤いイチゴのシロップをかけてもらって、一口食べると、ツーンとおでこが痛くなった。

チキンラーメンは「もてなしの味」

東京タワーができた年にチキンラーメンが売り出された。
ラジオで盛んに「すぐおいしく、すごくおいしい」と宣伝していた。
35円。
家で簡単につくれて、おいしいのでびっくりした。
友達が来るとこれでもてなし、喜ばれた。

かまどは一日のスターター
かまどは台所の象徴であり、一日の生活が始まる場所である。
早朝かまどに松葉や藁を入れて火を起こす。
釜の二タの下から白汁が漏れ出し、ご飯のにおいが漂うころ夜が明ける。

井戸水は冷蔵庫代わり
水をバケツや洗面器に汲んで、畑から取ったばかりのスイカやトマトやウリを冷やす。
冷蔵庫のない時代、果物や野菜を冷やして食べることは精一杯の贅沢だった。

蚊帳の中の楽しみ
毎夜蚊帳を吊った。
蚊帳の中に蛍を放ち、電気を消すと星座のように幻想的だった。

夏は縁台で夕涼み
軒先に縁台を出して夕涼みをした。
縁台は家族の憩いの場だった。
将棋をしたり、おしゃべりをしたり、各自各様に過ごした。
夏の夕方、家のなかは暑いので、ただこうしているだけだった。

金魚りは初夏の風物詩
初夏になると、「キンギョー、キンギョー」と張りのある声が通りに響く。
金魚売りは初夏の風物詩だった。

電報は喜怒哀楽のメッセンジャー
電報にはいつも期待か不安がつきものだった。
入学試験の合格「サクラサク」は喜びだが、「ハハキトク」や「スグカエレ」は大きな不安だった。

駅弁売りは早業の達人
列車が止まると、駅弁売りが「お弁当にお茶~」とせわしくホームを走りまくる。
乗客は窓を開け、お金を差し出して弁当とお釣りを受け取る。
列車が走り出してからも追ってきて弁当とお釣りを手渡す。
秒単位の早業である。

 
「花嫁修業」
「金襴緞子の帯締めながら 花嫁御寮はなぜ泣くのだろう~」
かつて結婚は女性にとって究極の目標だった。
そのため料理、生け花、お茶などの習い事をして結婚に備えた。

「黒ダイヤ」の悲劇
炭坑のガス爆発や落盤事故が続いた。
体育館には煤けた炭坑マンの遺体が累々と並べられた。
56年の北炭や59年の三井三池探鉱の事故では何百人もの命が失われた。
閉山が相次いた。
平成2年夕張炭鉱の閉山で、日本の炭鉱はすべて終わった。

ツイギー
42年に英国の女優、モデル、歌手のツイギーが来日した。
彼女の名前(ツイギーは小枝)のように超やせ形で、彼女のはいていたミニスカートが人気になり、日本でもミニスカートブームになった。
ある日地下鉄に乗ると、正面の座席に座ってる若い女性たちが全員同じ格好をしていた。
赤いタータンチェックのミニスカートをはき、黒いブーツをはいていた。


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昔のお仕事大図鑑
2022年01月01日 | 江戸~明治
「昔のお仕事大図鑑」 日本図書センター  2020年発行

和傘職人
和傘づくりには100以上の工程があり、完成するまでには数か月かかりました。
それぞれの工程に高い技術が必要で、十数人の職人による分業でつくりました。
1・骨を組み立てる
竹を削って太い軸と細い骨をつくり、糸でつないで組み立てる。
2・傘張り
骨に和紙を張る。
3・油ぬり・乾燥
傘の表面に防水のため、植物からとった油をぬり、天日で乾燥させる。


畳屋
畳は芯の部分の畳床に、イグサで織られた畳表(ゴザ)をかぶせ、ふちに畳べりという布をぬいつけてつくります。
畳屋は、畳を家に敷く作業や、古くなった畳表の張替もおこないます。

塩づくり職人
海水から水分を蒸発させて、塩をつくる仕事です。
まず、海水の塩分濃度を高くして、煮詰めて塩をとる、という方法で塩をつくりました。

炭焼き職人
木炭は、山でナラやカシなどの木を切り倒し、小さく木を切りそろえたあと、
炭焼き窯で焼いてつくります。
窯の入口を土でふさぎ、蒸し焼きにすることで、木材は燃えても灰にならず黒い塊になります。

鍛冶屋
金属を打って強くし刃物などをつくる
鍛冶屋は、熱した金属を打ってじょうぶにしながら形成し、農具や刃物などをつくったり、修理したりする仕事です。
農具をつくるのを「野鍛冶」、包丁をつくるのを「包丁鍛冶」、つくるものによって呼び名が違いました。

桶屋
木の板をぴったり並べて水も漏れない桶や樽をつくる。




桶屋
桶は、丸みがつくように削った何枚もの細長い板を円筒形に並べ、箍(たが)と呼ばれる部品で、外側をしばってから底板をはめ込んで作ります。
水を一滴ももらさない桶をつくるには、板をていねいに削る作業や、板の組み合わせを見極める職人の技術が必要でした。
箍屋
箍屋はい竹を割って細く削って編み、箍をつくる仕事です。
桶は使っているうちに箍がゆるむので、箍をつけかえる修理もしました。

豆腐屋
豆腐を手づくりして売り歩く。
豆腐屋の朝は早く、早朝の4時や5時には豆腐づくりが始まりました。
豆腐は日持ちがしなかったため、毎日つくる必要がありました。

金魚売り
金魚を売り歩く仕事です。
水を張ったたらいに金魚を入れて、金魚鉢といっしょに天秤棒で担いで運びました。
思いたらいを運ぶのは重労働だったため、金魚売りには若者が多かったと言われています。

蒸気機関車
機関士
速度計を見ながらハンドルやブレーキを操作し、時刻通りに列車を走らせた。
機関助士
石炭をくべる機関助士。
機関助士の顔は、石炭が燃やしたときにでるすすで真っ黒になった。

蒸気機関士への長い道のり
蒸気機関士になるには、まず駅員としてはたらきながら、機関車についての勉強をしなければなりませんでした。
機関助士を数年務めたあと、試験を受けて機関士になるまでには5年から7年もの時間がかかりました。

渡し船の船頭
小さな船をあやつる人のことを「船頭」といいます。
多くの場合、水の事故を防ぐため、川の水位の変化に詳しい地域の住民が先祖代々務めました。
年中無休で地域の人達を運びました。


沖仲士
貨物船の荷物を陸へ運ぶ、きびしい肉体労働でした。
「沖荷役」ははしけで陸まで運び、「沿岸荷役」ははしけの荷物をトラックなどに移しました。

灯台守
灯台守は一日たりとも灯台を離れることができませんでした。
2006年最後の灯台守がいなくなりました。


電話交換手
市外への接続は電話交換手の仕事でした。
昭和401年代中期になると、市外への電話も自動化され交換手の仕事はなくなりました。

タイピスト
大正4年漢字とかなを印字できるタイプライターが発明され、役所や企業で公文書作成に用いられるようになりました。
大正から昭和初期にかけて、女性の花型仕事でした。

靴磨き屋
大正から昭和にかけてさかんになりました。
とくに第二次大戦後には、戦争で家族を失った戦争孤児や女性の多くが、靴磨きで生計を立てました。

下駄の歯入れ屋
すり減った歯を交換したり、鼻緒のすげかえをしました。

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鋳掛屋
直すものは、鍋ややかん、釜などが多かった。
昔の鍋ややかんは、今より質が悪く、よく穴があいた。
鋳掛屋は,火を起こす小さなふいごなどを乗せた自転車やリヤカーで、町を回りました。

蹄鉄屋
馬のひずめの裏には、補強の為に蹄鉄(ていてつ)というU字型の金具がつけられています。
この蹄鉄をつくり、
馬のひづめに取り付けるのが、蹄鉄屋の仕事です。
それぞれの馬のひづめにあわせて作り、定期的に交換していました。

貸本屋
昭和30年代には「貸本漫画」と呼ばれる子供向けのマンガが一大ブームになり、
貸本屋は多くの子供でにぎわいました。

質屋
質屋は質草の価値をその場で見定め、客にお金を貸します。
期限までにお金が返せない場合には、あずけた質草は質屋のものとなり、「流れる」といいます。
質屋には火に強い蔵や保管庫を備えることが法律で決められています。

下宿屋
大家さんが一緒に住み、トイレや洗面所は共同。
多くの下宿屋は、民家を改造したもの。
2階はすべて貸し出されていることが多かった。

紙芝居屋
紙芝居の道具を乗せた自転車でやって来て「はじまり、はじまり」と拍子木を打って子供たちを集めました。
観覧料の代わりに駄菓子を買って、それを食べながら紙芝居を見ました。
声の調子を上げたり下げたり、臨場感たっぷりに演じた。
紙芝居は決まって「つづきは明日」と話を終わらせました。

屋根葺き職人
屋根の葺き替えは、職人を中心として、村の人々が協力しておこないました。

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ここまで、
↑↑  「昔のお仕事大図鑑」 日本図書センター  2020年発行
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「村の近代化」
2022年01月01日 | 江戸~明治

「村の近代化」 荒木田岳  ちくま書房 2020年発行

土地の所有公認

太閤検知当時
検地帳に基ずく支配は、
「貢租負担と引き替えに百姓に土地所有を認めた」と解するのが自然であり、
土地所有者を納税義務者とした私有地への課税という、地租改正の原型はここにあったと考えられるのである。

明治維新当時
「版籍奉還」、土地と人民を朝廷に奉還させる。
しかし村では百姓が土地所有権を有していたいたのであり、
藩主が保有していたのは城郭と武家地などのごく一部にすぎない。
人民についても、家臣団はともかく、百姓や町民は藩の保有物ではない。
「町民や百姓が『地主』として所持していた土地はそのままにした」というわけである。
 
戸籍は旧庄屋・名主によって担われたことを追認し、戸長・副戸長を置いた。
1872年(明治5)政府は「これまで禁止してきた土地永代売買を許し、今後は四民とも土地所有を認める」と高らかに宣言する。
しかし、これが抵抗もなく受け入れられたのは、それがすでに日常的に行われていたからである。


地租改正の実際

旧公租の帳簿上の石高は、そもそも実収入額とは乖離しており、
その後、ますます拡大し、形式的なものになっていた。
旧租水準を下回らないように地租の目標額が設定され、
そこから逆算して地価が設定された。
結局、地価の算出方法としては、
まず地租収納の目標額が決定され、この目標地租額を府県ごとに割り当て、
これを郡、さらに村へと分賦し、最終的に村の地租収納目標額を一筆ごとの土地に割り振っている。
外見上は大きな変化に感じたかもしれないが、「目標とする金額を集める』というのが本質であり、地租「改正」なのであり、人々はそうゆうものとして受け入れたのである。
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天声人語

2022年01月01日 | 江戸~明治
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紫雲丸の惨事  昭和30年5月12日

紫雲松の惨事  1955.5.12  ~天声人語~ 荒垣秀雄

また国鉄の連絡船が沈没して、多数の乗客を死傷させた。
修学旅行の小中学生をたくさん乗せた紫雲丸が、波静かな瀬戸内海で衝突沈没の惨事を引き起こしたのだ。
紫雲丸も貨車航送船の第三宇高丸も宇野・高松間の連絡船で、ともに国鉄の船。
両船ともレーダーを持っている。
原因は「濃霧」というが、天才とは言えない。
航行の不注意による人災というほかない。
紫雲丸は二度目の沈没だというが、これでは全く”死雲丸”ではないか。
八百数十名の乗客、乗組員のうち死者、行方不明者が百名を超え、五、六十名が重軽傷を負っている。
朝だったから、また初夏の波静かな海だったから、まだまだ助かった。
これが夜だったら、冬の海だったら、また荒天だったら、洞爺丸に劣らぬ大惨事になったであろう。

桜木町の国電丸焼け事件から洞爺丸、紫雲丸と、陸でも海でも国鉄の事故はあまりに多い。
しかも大量死を招くような大事故続きである。
大切な人命を日夜大量にあずかる国鉄は、
もっともっと心の釘をひきしめてもらいたいのである。
・・・・・
吉田さん、さようなら  昭和29年12月8日

吉田さん、さようなら  1954.12.8  ~天声人語~ 荒垣秀雄


吉田さん、さようなら
吉田内閣もとうとうつぶれた。
筋の通った退陣ぶりで、結構だった。
”悪い政治家”とレッテルをはった鳩山さんにむざむざと政権を取られたくはなかったのだろうが、
そのための解散とあっては、私的感情に過ぎるものといえよう。
せめて立つ鳥あとを濁さずにすんだことにはなる。

造船、保全の汚職でつぶれるべき運命にあった内閣を、
指揮権の発動で崩壊をくいとめたものの、かえって悪評を増し恥の上塗りをした。
吉田政権が長びくにつれて独裁者的な我がままがつのり、晩節を誤る傾きのあったのは惜しまれる。

何か誉め言葉も忘れてはなるまい。
サンフランシスコ平和条約の締結は後世史家の評にまつとして、
新憲法の実施には功績があったといえよう。
官僚政治、秘密外交の非難は帳消しにできぬが、
なかなか信念に強い政治家ではある。
口に再軍備を否定しつつ防衛力の既成事実をどんどん造り上げたのは、
大いに問題のあるところだが、フラフラ腰の変節政治家が多い中で、
吉田さんは吉田さんなりに終始一応の筋を通した点は買えよう。

あのブッキラボウな傲慢さも一種の性格俳優として魅力があり、妙な人気があった。
長い間御苦労様でしたが、ワンマンの名をほしいいままにして、
やりたい放題をやってきたのだから、悔いはあるまい。
ではサヨーナラ。

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