しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

養蚕業その③昭和恐慌、その後

2022年01月27日 | 農業(農作物・家畜)
盛んな時代は、あっという間に去ってしまう。
養蚕の盛んだった時の農産物で、今も残っているのは稲作くらいか?

養蚕、イグサ、麦、除虫菊、薄荷、菜の花、梨が消えた。残っているのは稲と桃くらい。
田舎からは二毛作も塩田も消えてしまっている。



(群馬県・富岡製糸場 2017.9.25)

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「鴨方町史本編」鴨方町 平成2年発行


昭和恐慌化の鴨方

1930年3月から株式市場も一斉に下落をはじめ、物価の下落に連動した。
生糸55%、綿糸52%、米50%の下落を記録。
米と繭の日本農業を直撃することになった。
産業界は極度の不振に陥っており、首切り・合理化の嵐の中で失業者が急増した。
出稼ぎ者の帰村が始まり、農村は農産物の下落と帰村者の増加によって負債をかかえる農家が増加。
農村恐慌に突入することになった。

鴨方町および六條院村では、麦稈真田の輸出減退により価格が大暴落した。

生糸の輸出減退は養蚕農家に甚大な影響を与えたが、
鴨方町では昭和期に入って急激な普及をみせていた矢先の不況到来であった。
養蚕農家数を見ると、
1912年(大正元) 7戸
1920年(大正  20戸
1926年     171戸
1930年     449戸

繭の価格は1929年上繭一貫 7.6円
     1932年     2.80円。
次第に養蚕から手を引く農家が増え。1939年には105戸まで減少した。

農家副業としての麦稈真田の不振と養蚕業の低迷から抜け出す方法は、
制帽工業と葉煙草に見い出そうとする農家が増えた。


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「笠岡市史第三巻」

昭和初期の小田郡の養蚕業の動向


城見村・昭和3年 69戸 871貫 5.522円
城見村・昭和5年 80戸 1.100貫 4.268円
城見村・昭和7年 74戸 661貫 1.784円
(管理人記・養蚕農家は大冝・用之江、茂平はたぶんなし)


昭和恐慌は、特に生糸と繭の暴落に始まる農村恐慌となって現れた。
岡山県下でも上繭貫当たり平均価格が、昭和4年の7.46円から翌5年の3.70円と半値に下げている。
昭和5年、米価も全国的に急反落した。
「大学は出たけれど」と大学卒業生も仕事にありつけず。

笠岡の製糸業を始め、小田・後月郡一帯の養蚕農家にとっても大きな打撃となった。
昭和7年、
解散し笠岡に一時代を飾った山陽製糸は歴史を閉じた。
中国情勢の変化、アメリカを中心とする輸出の低迷と糸価が暴落。
人造綿糸(レーヨン)の出現が引き金になったものと考えられる。





(群馬県・富岡製糸場 2017.9.25)


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岡山の女性と暮らし「戦前・戦中」の歩み 発行・山陽新聞社

県下の養蚕は、1929年(昭和4)をピークに世界恐慌以来の不景気で、生糸の輸出は減少に転じていた。
真庭製糸は休業、井原中備製糸は競売され、従来の県下の製糸業は郡是・片倉・鐘紡の三大企業がほとんど独占した。

こうした状況下で養蚕農家は、次第に大企業の特約取引養蚕に変わり、養蚕戸数の半数が特約取引になった。
前もって繭価を提示するので、相場に左右されず、仲買人に買い叩かれない利点があった。

しかし
繭価は大企業が連合して相場を抑圧し、より高級な付加価値のある新品種を特約農家に生産させた。
桑選択、蚕病予防、施設改良と制約が多く、養蚕方法も複雑になった。
繭も厳選され納入不可のものが多く、投資が借金として残った。

新聞は、養蚕収入額の高さを喧伝するが、家族ぐるみの過重労働に支えられた養蚕も農家経済再生には程遠かった。
これまでの繭屑は、農家の娘たちの嫁入り支度や晴着にと、自分で繰り機にかけて織るのが養蚕農家女性のささやかな喜びであった。
自家用以上の残繭がでるようになり、成羽高女では紬織(つむぎおり)科が新設され、紬織講習会も各学校や女子青年団で開催された




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「金光町史」
昭和恐慌
昭和5年に入ると深刻な農村不況つまり昭和恐慌へと突入した。
生糸と繭の暴落に始まる昭和恐慌は、岡山県下でも上繭貫当たり平均価格を、
昭和4年の7円46銭から翌5年の3円70銭と半値の下落へと進んだ。
養蚕農家は昭和恐慌を経過する中で激減した。


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「矢掛町史」

忙しい仕事であったが、当時の農家にとっては安定した現金収入であった。

この養蚕も、ナイロンの出現、戦争による輸出の途絶で激減し、
大戦途中から戦後の食糧難で壊滅的な打撃を受けた。
政府は桑畑から普通畑への転換を命令し、桑の株はチェンブロックで引き抜かれ、食糧生産の畑地へと変わっていった。


昭和55年現在で、美川・三成・南山田など矢掛町内で37戸、老人の副収入程度に養蚕が残されている。


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「岡山県史 現代Ⅰ」

戦中戦後の食糧増産対策によって最も深刻な打撃を受けたのは、
養蚕および製糸業である。
戦前は桑園面積1万町歩を超え、養蚕農家も5万戸にまで達し、
200万貫の繭を生産したこともあったが、
戦時経済の下で漸次減少して行き、1946年(昭和21)には桑園面積1427町歩、
養蚕戸数7.573戸、繭量約13万7千貫となり、
桑園面積で戦前最盛期の14%、産繭量では6%にまで低下してしまった。

同年(1946)養蚕復興5ヶ年計画を樹立して養蚕の振興を図ったが生産は停滞を続け、1950年には面積・戸数・繭量とも一段と減少している。
養蚕に代わって戦後目覚ましく進展したのが畜産である。
鶏・和牛が増加した。




(群馬県・富岡製糸場 2017.9.25)


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昭和31~32年頃、井原市の祖父母の家では屋根裏で蚕を飼っていた。
あれを見たのが自分にとっては最後の養蚕だった。



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