しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

麦を作る①

2022年01月30日 | 農業(農作物・家畜)

5月の終わりごろ、
学校への道は道端に干した苅りたての麦がぷ~んと匂っていた。
小学校の時も、中学校の時もそうだったが、
高校生の通学路には、その思い出がない。

思い起こせば、その頃に家から麦飯はなくなり、
祖母の内職だった真田も無くなった。
畑や田んぼから麦が消えたのは高校生の時だった。

・・・・
(父の話)

よう乾燥しょうたところは(稲刈りがおわった後で、株を)はねうがして、麦を植ようた。

小麦藁を屋根にしとった。小麦でなきゃあつかえなんだ。細いし大けい。
裸麦は搗いて食びょうた。搗いたら白うなる。そりょぉ米に混ぜて。
昔の「麦飯」いうのは裸麦を混ぜのをようた。

真田麦は裸麦を硫黄で蒸して、摘んで、さらして白ぉして、それで真田を組みょうた。
打って、やおうして、手でもみょうた。(縄を編んでいた)
だいぶ打ってやおうしとかんと編めなんだ。


2003・5・18


・・・・

「矢掛町史 本編」 ぎょうせい 昭和57年発行

すたれゆく麦作

稲の収穫後の整地には、稲株の掘り起こし、砕き、牛ンガでさらに深耕、
マンガで引いて、鍬で整地。
他に、
稲株をそのまま残し、株の上か株間に穴をあけて数粒の種子を手でまく方法がとられていた。ゲンコツ植えと呼んでいた。

厳しい寒さの中で麦踏みを、男は地下足袋を履き、ほおかぶりをして麦の上を踏んで歩く。
春の草取りを経て、刈取期を迎える。
5月中旬から6月下旬である。
手労働による刈取り作業の後、
小麦は刈り干し(ベタ干し)して足踏み脱穀をして、実干しの後貯蔵される。
裸麦、ヤハズ麦は千歯にかけて、からさおで打つか発動機で脱穀した後実干ししてから貯蔵される。


用途は、
ハヤズ麦・・・実は麦飯・飼料、麦稈は真田
裸麦・・・実は麦飯・飼料、麦稈は多く牛小屋に入れ荒肥えの原料
小麦・・・うどん粉、そうめん、醤油の原料。麦稈は屋根材として貴重であり、
スイカ・なんきん・きゅうりの敷き藁としても使われた。


太平洋戦争による都市住民の疎開、
敗戦による食料難び深刻化する昭和20年代は、田畑をあげての農業生産に必死で取り組んだ時代であった。
また二毛作田も増えた。

しかし工業化への政策は農村の労働力を吸収し、農村部の人口も減少させることになった。
麦作は戦前より、米作に対する裏作としての水田利用や畑作として栽培されていた。
金のかからない、逆に収益にもならない意外性のない経営であった。

昭和40年代に激減、衰退した。
昭和35年頃から兼業農家の増大、
小麦の輸入の増大、二毛作を一毛作で裏作がなくなった。
政府の保護が米作ほどになかった。
収穫期は5月中旬から6月下旬。

減少
昭和21年、田の面積の1/8が一毛田が、年を追って増大し、昭和45年では2/3に達している。

 


(笠岡市カブト東町)
・・・・

「岡山県史・民族Ⅰ」 昭和58年 山陽新聞社出版


麦と雑穀

麦の代表的なものは大麦である。
裸麦は大麦の変種である。
小麦は畑で作ったが、水田二毛作の裏作として作った。

裸麦には種類があって、ヤハズは節間が長く、麦稈帽子用の真田に適していた。

麦作りは「多労多肥」といわれるように、多くの労働力や肥料をつぎ込まねばならなかった。
江戸時代から魚肥やセントク(菜種粕)大豆粕などのナネゴエ(金肥・きんぴ)が、第一次大戦後は化学肥料が用いられた。
金肥の使用を節約するため水ゴエ(コガ水・風呂下のコガ水)ダルゴエ(人糞尿肥)を度々撒いたり、厩肥を存分に入れたりした。
麦価は安くて割の合わない作物であったが、麦飯用、その他食料として欠かせなかった。
水田の二毛作地帯では、裏作として麦を作ったが、畑地では麦の二毛作・三毛作が行われた。

夏作といって、ササゲとかアズキを、または大豆などを収穫したあとに、栗とか黍(きび)、あるいは蕎麦を作り、そのあとに麦を植えれば三毛作となる。
薩摩芋を収穫した後に麦を蒔けば二毛作となる。

水田にしろ、畑地にしろ、休閑することはなく、どの田畑にも毎年麦を作付けしたほどである。
小麦は刈りとると、大きな束にしたまま運搬し、穂を上に立ててカド干しし、麦打ち棚(ゴケタオシ)または足踏脱穀機で脱穀し、唐箕でいい穀粒とよくない穀粒とゴミを分ける。
大麦や裸麦は刈りとると、畑ですぐ、千歯こぎし、麦穂を落とし、運搬する。
蓆を一面に敷いて何日間かカド干しをする。その間、熊手でかきまぜて、乾燥をたすける。
乾燥した麦穂は唐竿打ちで脱粒し、ユリで穀粒と穂粒に分け、さらに唐箕でよい穀粒とよくない穀粒に分ける。


・・・・

「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

米麦飯
庶民は、昭和20年代までは半麦飯を食べる家は恵まれていたのである。
半麦飯を食べるのは願いであったし、贅沢ともいわれた。
麦飯にするのは南部地方では裸麦であったが、吉備高原では大麦であった。
平麦は昭和初期から第二次大戦後のことである。
平麦はヒシャギ麦などと呼ばれた。


・・・・


パンなどの主食、焼酎やウイスキーの、ウオッカ、ジンなどの酒類の原材料。
大麦
大麦は六条大麦と二条大麦と裸麦(六条裸麦)に分類される。
六条大麦はおもに麦茶や麦飯に使用されている。
二条大麦はビールや焼酎、菓子、健康食品に使用。
裸麦は麦飯、麦みそ、麦茶に使用される。

小麦
四麦で、国内で最も多く生産されているが8割以上が輸入。

「最新日本の農業図鑑」 八木宏典 ナツメ社 2021年発行


・・・・・


城見の麦畑 

「井原の歴史」によれば、昭和30年代まで米麦二毛作が主流であったそうだ。
大正13年の「小田郡史」の城見村は二毛作は1/3。
麦作は畑で作るのが半分くらいだったようだ。

・・・・・

「井原の歴史」井原市史編集委員会・重見之雄    いばら印刷 平成13年発行

米麦二毛作
この地域においては昭和30年代頃まで、水田耕作の主流は米麦二毛作であった。
そこで米作と表裏の麦作について、その作付面積と収穫量は、
昭和23年には稲をかなり上回る約1800ヘクタールにも及んでいた。
当時は水田の裏作だけでなく畑でもかなり栽培されていたことを物語る。
しかし30年代から急速に減少しはじめ、50年代以降とるに足らない状況になった。

・・・・・
「福山市引野町誌」 ぎょうせい  昭和61年発行

麦は主に田の裏作として栽培された。
深津郡の裏作率は非常に高く78.5%幕藩時代から産していた。

・・・・

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする