しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

ひいひい祖母さんの機織り

2022年01月17日 | 江戸~明治

ひいひい祖母さんは弘化3年(1844)に生まれ、昭和18年(1943)に死んだ。
今風ならば岡山県知事か厚労大臣からの長寿表彰や全国紙の新聞記事になるくらいの長寿だったが、戦時中のことでもあり、塵のように去っていったようだ。



ひいひい祖母さん=母の話ではいつもの時間に起きてこないので見に行くと亡くなっていたそうだ。
ボケもなく、病気もない、完全なる(?)老衰死。)


父の話では、家に長く機織り機があり、ひい祖母さんや、ひいひい祖母さんが使っていたそうだ。

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(母の話)
機織り
賀山(実家のこと)にゃあ、もう棄ててないかもしれんが
ええ機織があった。ぎったんぎったん踏んで反物ができる。
それで縞の着物ができょうた。
糸は買ようた。
着物から織ったそれで学校に着ていきょうた。
談・2004.9.5



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機織り
「吉永町史」 吉永町史刊行委員会編 吉永町  昭和59年発行

ハタオリ(機織り)

女の仕事で、家族の着物から、布団、蚊帳、手拭にいたるまで全部織り出した。各戸に機があって、冬の農閑期には賑やかな機の音が聞こえていた。
女は明けても暮れても、糸引きと機織りで、機が織れねば嫁にもらい手が無いとまでいわれた。
明治中期ごろから腰かけて織る高機(たかばた)になった。



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糸つむぎ・ハタ織り (神島村史)


衣類は自給自足で、ほとんど女性が手がけた。
明治時代までは女は綿を畑で作り、それをつむいで家中の者の着る物、フトン、カヤ、前掛、手拭、穀類を入れる袋まで自分で織ったのである。
家の者に四季着せたものを傷んだら解いて洗い直し、繕いをしてよれ替えて縫い直し、着れなくなるまで着た。
少しでも無駄な布は無く、古くなって使えなくなったらぞうきんや、草履あみに組み入れた。
野良仕事、寒気の機織り、夏期の真田編み、縫い物、育児洗濯、台所仕事、養蚕と、女は働き通しであった。


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「女子衆が織った木綿で家族みんなの着物をこしらえるのが、
戦前まで当たり前の時代でした。
木綿は、
まず着物で着て、
次に野良着、
その後赤ちゃんのおむつ、雑巾になって
最後は壁に塗り込んで終わり、
と最後まで使いきる。」

「井原の歴史 第3号」  


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「金光町史」

機織り

明治期までは家庭で機織りをしていた。
農閑期の冬は、外の仕事が出来ない時期で機織りをした。
着物から布団、蚊帳、手ぬぐいまで、
衣類はすべて手織りであった。
明治以前の地機(じばた)から、腰掛て織る髙機(たかはた)になる。
さらにそれにシャクリという装置を取り付けると、
上から下がった紐を引っ張るだけで、緯糸(よこいと・ぬきいと)を入れた杼(ひ、さいともいう)が左右に自動的に動いていくシャクリ機になった。
高機では2~3日で一反、シャクリ機では1日一反織ったという。
機織りの上手な娘は良縁が得られるといった。



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「暮らしの世相史」 加藤秀俊 中公新書 2002年発行

機織りと裁縫

農家で木綿をみずから栽培し、それを織って衣料品を作る、というのはついこのあいだまでごくあたりまえのことであった。
明治末期の村では、一家の主婦のしごとのなかでは機織り、裁縫というのがおおきな比重をしめていて、彼女たちは毎晩のように機を織り、針仕事をして家族成員すべての衣料品を用意することが期待されていたし、
婦人たちもそれを当然の作業としてみずからに課していたのである。
かつての農村では老若男女をとわずハダカに近い恰好をしていたようである。
機織りの音と裁縫する主婦のすがたは明治の文明開化によってもたらされた「ゆたかな社会」の象徴であったのかもしれない。
みずから機織りをしたり、あるいは綿布を購入して着物を縫ったりするようになったのはせいぜいここ百年ほどのあたらしい現象だったのだ。

「味噌や醤油、豆腐や漬物などの一切を自給し、家族全員の外出着や仕事着を夜なべに織る。
蚕の屑繭から袖や羽二重の背広布地を織り、綿を紡いでは縞の着物やモンペを作る。
母は愚痴一つこぼさずやってのけた。
その織物は7人兄弟の上から下に着継がれても破れないほどの厚地であった」


針仕事は、かつての日本の婦人にとっての最低必要な技能のひとつでもあったのだ。
裁縫の腕は娘たちの競争の領域であり、また結婚にあたっての資格でもあった。
嫁入り道具のなかには、かならず「針箱」があったし、「絎台(くけだい)」もすべての家庭の常備品だった。
技能さえしっかりしていれば、女性にとっての数少ない「内職」のひとつでもあった。
主婦の仕事のなかに、つくろいというのがあった。
穴のあいた靴下にツギをあてたり、ほつれをなおす作業があった。

 

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快速サンライナー

2022年01月17日 | 無くなったもの
場所・JR山陽本線(福山駅~岡山駅間かな?) 
無くなった日・2022年3月12日・ダイヤ改正
撮影日・2008年4月6日(撮影場所・笠岡市笠岡)

10年ほど前までは、笠岡駅発着の電車は1/2程度が快速だった。
年々減っていって、最近は乗ろうとした電車が快速だと「おっ今日はサンライナーか」という感じだった。
今回の改定で全廃するそうだが、既に減っているので何も思いはない。



それよりも、
金光駅発着が数本新設されるそうだ。
生まれてこの方、金光駅が終始発駅、とは経験もないし、想像したこともない。

笠岡から岡山や倉敷に行くときは、
「上り」だけでなく「行先」も確認しなければならない。
難儀なことだ。
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