しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

ねねの像

2022年01月09日 | 銅像の人
場所・兵庫県神戸市北区有馬町  有馬温泉





「歴史読本」 昭和56年7月号 新人物往来社

秀吉とねねの歩んだ道 高橋紀比呂

天正15年、京都の聚楽第が完成し、秀吉は大政所、北政所らともに大坂城から移った。
やがて、秀吉の側室中に淀殿が加わり、
天正17年鶴松、文禄2年秀頼を生む。
北政所は、この二人を実子同然にあつかった。
秀吉は、奥の支配を北政所にまかせ、陣中に淀殿ら側室を呼び寄せるときも、
かならず北政所を通して命を伝えている。

文禄の役のおり、秀吉は肥前名護屋から北政所に
「大坂へ帰ったら、そなたをゆっくり抱きしめ、物語などしたいものだ」
と書き送り、老妻宛とは思えない、艶やかな筆で北政所の心をくすぐっている。

文禄2年、秀吉はふたたび北政所を伴って有馬温泉に行き、来し方をふりかえっている。

慶長3年3月醍醐の花見が行われた。この席上盃事の順序をめぐり、淀殿が松の丸と争い北政所の仲裁で事なきを得た。
このとき、秀吉の病状はかなりすすんでいた。
祈祷もむなしく8月18日伏見城で一生をとじた。

関ケ原合戦後の慶長8年北政所は高台院の称号を朝廷から下賜され、京都東山の高台寺で寛永元年(1624)、74歳の生涯をとじた。








撮影日・2021年11月30日


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太閤秀吉像

2022年01月09日 | 銅像の人
場所・場所・兵庫県神戸市北区有馬町  有馬温泉








「歴史読本」 昭和56年7月号 新人物往来社

秀吉とねねの歩んだ道 高橋紀比呂

天正11年(1583)4月、秀吉は柴田勝家を賤ケ岳で破り、
9月から大坂城普請に着手する。
お禰は姫路を離れて大坂に移る。

天正13年正月、秀吉とお禰は摂津の古湯有馬へ湯治にでかけた。
天下平定の目途もようやくたち、糟糠の妻をねぎらう旅であったろう。
19日には茶会を催した。
2月5日お禰が同温泉の薬師堂建立費を寄進している。

一時荒廃していた有馬温泉の復興に助力した秀吉をしのび、毎年11月、
有馬瑞宝寺公園で大茶会が開かれている。





(瑞宝寺公園)




撮影日・2021年11月30日

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