場所・兵庫県神戸市北区有馬町 有馬温泉
「歴史読本」 昭和56年7月号 新人物往来社
秀吉とねねの歩んだ道 高橋紀比呂
天正15年、京都の聚楽第が完成し、秀吉は大政所、北政所らともに大坂城から移った。
やがて、秀吉の側室中に淀殿が加わり、
天正17年鶴松、文禄2年秀頼を生む。
北政所は、この二人を実子同然にあつかった。
秀吉は、奥の支配を北政所にまかせ、陣中に淀殿ら側室を呼び寄せるときも、
かならず北政所を通して命を伝えている。
文禄の役のおり、秀吉は肥前名護屋から北政所に
「大坂へ帰ったら、そなたをゆっくり抱きしめ、物語などしたいものだ」
と書き送り、老妻宛とは思えない、艶やかな筆で北政所の心をくすぐっている。
文禄2年、秀吉はふたたび北政所を伴って有馬温泉に行き、来し方をふりかえっている。
慶長3年3月醍醐の花見が行われた。この席上盃事の順序をめぐり、淀殿が松の丸と争い北政所の仲裁で事なきを得た。
このとき、秀吉の病状はかなりすすんでいた。
祈祷もむなしく8月18日伏見城で一生をとじた。
関ケ原合戦後の慶長8年北政所は高台院の称号を朝廷から下賜され、京都東山の高台寺で寛永元年(1624)、74歳の生涯をとじた。
撮影日・2021年11月30日
「歴史読本」 昭和56年7月号 新人物往来社
秀吉とねねの歩んだ道 高橋紀比呂
天正15年、京都の聚楽第が完成し、秀吉は大政所、北政所らともに大坂城から移った。
やがて、秀吉の側室中に淀殿が加わり、
天正17年鶴松、文禄2年秀頼を生む。
北政所は、この二人を実子同然にあつかった。
秀吉は、奥の支配を北政所にまかせ、陣中に淀殿ら側室を呼び寄せるときも、
かならず北政所を通して命を伝えている。
文禄の役のおり、秀吉は肥前名護屋から北政所に
「大坂へ帰ったら、そなたをゆっくり抱きしめ、物語などしたいものだ」
と書き送り、老妻宛とは思えない、艶やかな筆で北政所の心をくすぐっている。
文禄2年、秀吉はふたたび北政所を伴って有馬温泉に行き、来し方をふりかえっている。
慶長3年3月醍醐の花見が行われた。この席上盃事の順序をめぐり、淀殿が松の丸と争い北政所の仲裁で事なきを得た。
このとき、秀吉の病状はかなりすすんでいた。
祈祷もむなしく8月18日伏見城で一生をとじた。
関ケ原合戦後の慶長8年北政所は高台院の称号を朝廷から下賜され、京都東山の高台寺で寛永元年(1624)、74歳の生涯をとじた。
撮影日・2021年11月30日