しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

池澤夏樹・作 「また会う日まで」

2022年01月11日 | 昭和16年~19年
昭和20年、学校工場と化した片山女子(現・倉敷翠松高等学校)の女学生だったおばは学校でハンマーを叩いていた。
先生は言う、
「最後の5分まで闘う、そうしておれば・・・(神国日本には)必ず神風が吹いて、最後には日本が勝つ」

この小説にある秘密兵器とは、たぶん、神州不滅の幻想のことだろう。

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朝日新聞 2021年12月23日  文化蘭連載小説
池澤夏樹・作 「また会う日まで」 影山徹・画

希望と失意 22

「1941年の段階で陸軍は支那の平定だけでなくソ連へ進撃することも考えていた」とMは言った。
「それに海軍が南方か。三正面とは忙しいことだ」
「戦争の基礎は物資だが、これについて楽観論と悲観論がまぜごぜになっていた。
そして現場に近い者ほど悲観論に傾いていた。
開戦のすぐ前に鈴木企画院総裁という人が閣議で『食糧も大丈夫也』と言ったと伝えられる。
しかしそれは朝鮮や支那、それに台湾から仏印までの生産を当てにしての話だ」
「調達できても輸送の問題がある」
「そのとおり。
日本は島国だから物資は船で運ばなければならない。
南方からの長い航路を輸送船で運ぶにはどうしても護衛が要る。
敵の潜水艦と空母艦載機の脅威は大きい。
石油や鉄鉱石、ゴムなどのために蘭印を占領してもそれを運べないではなんにもならない。
初めから占領などしない方がいい、という意見もあった」



「そのとおりになったわけだ」
「我らの敬愛する井上成美さんがこう言っておられた。

---国力・国情を比較するに、米国が我が国を海上封鎖するのは不可能ではない。その場合、我が国は物資窮乏に陥るだろう。
しかるにこちらが米国を封鎖することは可能か?


こういう考えをするのところが井上さんらしいのだが、
考察の結果はもちろんノー。

まず米国の海岸線は太平洋と大西洋の両方にあってとても長い。
我が艦隊で封鎖するのは無理だ。
次に陸地の国境が北と南にあるのでこれも封鎖不可能。
そもそも、
米国は物資が豊かだ。
自国内の生産で需要をすべて賄って残りを輸出できるほどなのだから封鎖そのものが無意味。


これを井上さんは開戦の11ヶ月前に言っておられた」
「現実主義だな」
「戦争に現実以外のなにがあるか?」
「幻想。

小さな幻想は小さな事態についての楽観的予想。
うまくいくことを前提に話をすすめる。
それを積み重ねると大東亜共栄圏のような大きな幻想ができる。


当事者は幻想とわかっていても国民は信じてしまう。

秘密兵器で一気に戦局をひっくり返すという噂が終焉直前まであった」




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野口英世

2022年01月11日 | 銅像の人
場所・岡山県笠岡市吉田  吉田小学校


小学生の時、偉人伝の代表的な人だった。
城見小学校の時、文部省推薦映画を学校の講堂ですることがあったが、
その映画でも「少年野口英世(幼少名・清作)」を見たことがある。
貧しい農家に生まれ、囲炉裏で指を火傷したシーンは覚えている。

後年、猪苗代湖の湖畔にある生家を訪れたが、貧しい農家ではなくて大きな農家だった。ちょっとびっくりした想い出がある。






(野口英世記念館Web)

1876(明治9)年、福島県猪苗代に生まれた野口英世は
1歳半の時に左手に大やけどを負いましたが、
恩師・友人・家族の励ましと援助を受けその苦難を克服しました。
左手の手術により医学のすばらしさを実感し、自らも医学の道を志しました。
アメリカのロックフェラー医学研究所を拠点に世界で活躍し、
ノーベル賞の候補にも挙がりました。
1928(昭和3)年、西アフリカのアクラ(現ガーナ共和国)で
黄熱病の研究中に感染し51歳で亡くなりました。








撮影日・2021年11月28日
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寺田寅彦

2022年01月11日 | 銅像の人
場所・高知県高知市追手筋 「オーテピア」前


学生の頃、一度は読む本の中に田宮虎彦の名作「足摺岬」がある。
その田宮虎彦と寺田寅彦は同一人物だと思い込んでいた。

今回寺田寅彦の像を見て別人だと、この歳になって気がついた。(汗)

ねえ君
ふしぎだと思いませんか

呼びかけるようなことば、いいね。






(寺田寅彦記念室Web)

物理学者、文学者。物理学者としては、初期にX線に関する研究を行い、学士院恩賜賞受賞。
また、震災に関する研究も多く、「天災は忘れられたる頃来る」などの言葉で有名。
寅彦の研究はあまり経費をかけないものが多いが、着想は素晴らしく、実証を重んじた。

文学者としては、主に随筆を執筆。
科学者のまなざしで日常を切り取った随筆の他、「団栗」など叙情性に富んだ優れた小品を残している。



(銅像の向かい側、寺田寅彦の母校・大手前高校)



撮影日・2021.12.23


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