第二次大戦末期に日本国内では、あわてて本土防衛の備えをしようとしたが、
当然ながら役に立つ物は何一つできなかった。
半年で国土防衛施設を造ろうとした幕末の「お台場」も、事情がなにかとよく似ている。
「武器が語る日本史」 兵頭二十八 徳間書店 2019年発行
江戸湾の品川沖「台場」築造は、無駄な努力だったのだろうか。
嘉永6年6月、ペリー艦隊が江戸湾を去った直後、幕府老中の阿部正弘は、緊急に日本国として採るべき軍事外交の策について、広く国内から意見を求めた。
上は大名から下は庶民まで、八百余通の意見書が幕府に寄せられた。
中でも、旗本小普請組の勝麟太郎による上申は抜きんでて具体的・現実的だった。
勝は、必要な中期の軍制改革とともに、江戸湾に築造されるべき台場の位置と規模を列記した。
いずれも、埋立工事の必要はない。現に陸地であるところを速やかに要塞化するという、費用と時間の面で現実的な提言である。
問題は、当座与えられた時間はわずか1年未満しかなかったことだ。
蒸気エンジンも西洋型軍艦も、そこに配乗すべきクルーも,基盤ゼロの現況から半年かそこらで整うわけがない。
ちなみにペリー艦隊の備砲は(すべて前装式)、最大射程距離が3.000m~3.500mあり、それを意識して敵性海岸からは2km沖まで近寄った。
それに対して、当時、関東沿岸に配されていた和製大砲の射程は400m~800m。
いちばん先進的だった佐賀藩の大砲でも1.400mにとどまっていたという。
江戸湾の奥は水深が6mもないために、艦砲が届く距離まで進入することは実は不可能であった。
しかし再来航の米軍艦が新型火砲を搭載していない保証も、どこにもなかった。
それに岸から2km程度に黒船が近寄れる水深の海浜は、江戸湾にはいくらでもあった。
そのどこかに陸戦隊が上陸してしまえば、近代地上兵力の前に、幕府軍はなすすべはないと見込まれた。
昼夜連続の突貫工事の結果、嘉永6年中に第一・二・三・五・六台場が竣工した。
ペリー艦隊は年明け早々、陣容を増強して江戸湾に再結集した。
その無言の圧力の下、日米和親条約は嘉永7年3月に締結された。
幕府が75万両も投じたという「お台場」は、このように、米国艦隊の意志を、いささかも怯ませられずに終わった。
大砲の鋳造
反射炉から取り出せる鉄の量は多くない。
半年間フル操業したとしても、江戸湾防備の面目を一新するような大砲の量産は困難であったろう。
砲身内の中グリ切削仕上げが不可欠だが、その工作機械がなかった。
「着発榴弾」、敵艦の船体を直撃した瞬間に爆発する砲弾の発射は、もう最初から諦めるしかなかった。
江川担庵の信管は尖鋭型の砲弾でなく球形の砲丸で、陸戦以外は役に立たない。
佐久間象山が製作した大砲は、砲身が破裂した。
高島秋帆が輸入した洋式砲は、いちばんよく飛んだのが2.000mという。
・・・・
浅口市指定史跡「青佐山台場跡」
(浅口市青佐山台場跡 2021.4.1)
嘉永6年(1853)のペリー来航以来、
外国船が日本近海に出没するようになると、幕府の対外政策が強化された。
攘夷論が盛んになると鴨方藩は、文久3年(1863)10月に青佐山台場と長浜台場の築造を始め、浅口郡沿岸の警備の任に当たった。
同年10月に鴨方藩主がこの台場の実地検分に訪れ、寄島(三郎島)へ向けて試射を行った。
砲弾は寄島まで届かなかったという逸話が伝わっている。
この台場は、水島灘を一望できる海に向けて張り出した場所に築造され、構造は半円形。
高さ約2mの防壁土塁が周りを囲んでおり、東方向に二つの砲門を備え、北側には通路が附属する。
このことから、青佐山台場は岡山池田藩の異国船に対する海上防衛のため築造した砲台跡である。
土塁や砲門の構造をよく残しており、幕末の岡山本藩と支藩連携の海防政策について物語る貴重な史跡である。
浅口市教育委員会
浅口市文化財保護委員会
・・・・
国指定史跡「境お台場跡」
(境港市・境お台場跡 2011.8.30)
ふつう、土塁を築いてその上に大砲を据えた砲台を「お台場」と呼んでいる。
黒船の来襲に備えて、幕末期に各藩の重要な港の入口に築かれた海防上の軍事施設であった。
ここ境お台場は、文久3年(1863)に構築されたものである。
その当時の海岸線に、広さ約1.45ヘクタールの地を土塁で囲い、土塁の上に18斤砲2門、六斤砲1門、五寸砲5門を据えていた。
同じ年に築かれた鳥取藩8ヶ所の台場のなかでも一番規模が大きくかつ厳重に装備された台場であった。
弓浜地方の村人を総動員して半年ほどで完成させ、また農兵隊が組織され守備に当っていた。
境お台場跡は、今も遺構をよく残しており、台場公園として市民に広く親しまれている。
昭和62年3月25日
境港市指定史跡 境港市教育委員会
追記・
この史跡は、昭和63年7月27日「境台場跡」として、国の史跡に指定された。
・・・・
追記・
大戦末期
父が、渥美半島の砂浜に基礎工事を無視した高射砲工事に赴いたことや
おじが、野呂山に丸太の(ダミーの)高射砲を据えていたことと比べると、
幕末の方が、まだ少しまともだったような思いがする。