レイテ島
1944年10月20日、米軍はフィリピンのレイテ島に上陸した。
兵力の集中しているルソン島での決戦を求めた現地軍の反対を押し切り、
大本営陸軍部は、レイテ島での決戦に踏み切った。
(「幻の大戦果 大本営発表の真相」 辻泰明 NHK出版)
これより前の10月9日~14日の台湾沖航空戦で空母11隻、戦艦2隻を撃沈と発表したことが頭にあり、ここで叩いて一勝を挙げたいと考えたのである。
実際の戦果は重巡洋艦2隻大破のみにすぎなかったが、海軍は自己の面子を守るため、この事実を国民はもちろん首相、陸軍にも教えなかった。
この海戦で連合艦隊はもはや海上戦力としての体をなさなくなった。
もはや通常の航空攻撃では戦果が挙がらないと判断した海軍は、飛行機に爆弾を積んでの体当たり、神風特別攻撃隊を出撃させた。
(「幻の大戦果 大本営発表の真相」 辻泰明 NHK出版)
しかし逃げ回る敵艦戦に飛行機で体当たりするには高度な操縦技術が必要であるにもかかわらず、技量未熟者を多数特攻隊員としたため、命中率は必ずしも高くなかった。
よしんば命中したとしても、特攻機搭載の爆弾では十分な破壊力が得られなかった。
事実戦艦や正規空母などの大型艦はついに一隻も沈めることができなかった。
志願制を建前としていた特攻隊であったが、事実上強制されて出撃していった隊員も多く、彼らの士気は低下していった。
1944年内にレイテ島の組織的な抵抗は終息した。
翌1945年1月戦場はルソン島移り、山下奉文大将率いる陸軍部隊はマニラ市を撤退し山中にこもった。
海軍部隊2万は同市死守を叫んで米軍と市街戦を展開、多数の市民をまきこんで全滅した。
陸軍部隊は大損害を被りつつも、長期持久戦を守って日本降伏までゲリラ戦をつづけた。
1945年2月19日、米軍は硫黄島に上陸。3月25日までに日本軍全滅。
4月1日、米軍は沖縄に上陸。軍民あわせて17万近くの命を奪った。6月23日、牛島満司令官が自決して組織的な戦闘は終結した。
5月4日、ビルマのラングーンが英軍により陥落。
同月、ドイツが降伏。
8月9日、ソ連軍157万人が中立条約を無視して満州へ侵攻してきた。
事ここにいたってようやく日本政府は降伏を決意。
もはや厭戦気分はおおいがたく蔓延していたのである。
日中戦争から太平洋戦争にかけて日本人死者は、
軍人・軍属約230万人、民間人80万、計310万人にのぼった。
戦場となったアジア各国の死者は、役2.000万人との推計がある。
「日本軍事史」 吉川弘文館 2006年発行
・・・・
「大津野の歩み」
昭和20年7月14日 福山歩兵41連隊レイテ島にて玉砕
・・・・
・・・・台湾沖航空戦・終わり・・・・
1944年10月20日、米軍はフィリピンのレイテ島に上陸した。
兵力の集中しているルソン島での決戦を求めた現地軍の反対を押し切り、
大本営陸軍部は、レイテ島での決戦に踏み切った。
(「幻の大戦果 大本営発表の真相」 辻泰明 NHK出版)
これより前の10月9日~14日の台湾沖航空戦で空母11隻、戦艦2隻を撃沈と発表したことが頭にあり、ここで叩いて一勝を挙げたいと考えたのである。
実際の戦果は重巡洋艦2隻大破のみにすぎなかったが、海軍は自己の面子を守るため、この事実を国民はもちろん首相、陸軍にも教えなかった。
この海戦で連合艦隊はもはや海上戦力としての体をなさなくなった。
もはや通常の航空攻撃では戦果が挙がらないと判断した海軍は、飛行機に爆弾を積んでの体当たり、神風特別攻撃隊を出撃させた。
(「幻の大戦果 大本営発表の真相」 辻泰明 NHK出版)
しかし逃げ回る敵艦戦に飛行機で体当たりするには高度な操縦技術が必要であるにもかかわらず、技量未熟者を多数特攻隊員としたため、命中率は必ずしも高くなかった。
よしんば命中したとしても、特攻機搭載の爆弾では十分な破壊力が得られなかった。
事実戦艦や正規空母などの大型艦はついに一隻も沈めることができなかった。
志願制を建前としていた特攻隊であったが、事実上強制されて出撃していった隊員も多く、彼らの士気は低下していった。
1944年内にレイテ島の組織的な抵抗は終息した。
翌1945年1月戦場はルソン島移り、山下奉文大将率いる陸軍部隊はマニラ市を撤退し山中にこもった。
海軍部隊2万は同市死守を叫んで米軍と市街戦を展開、多数の市民をまきこんで全滅した。
陸軍部隊は大損害を被りつつも、長期持久戦を守って日本降伏までゲリラ戦をつづけた。
1945年2月19日、米軍は硫黄島に上陸。3月25日までに日本軍全滅。
4月1日、米軍は沖縄に上陸。軍民あわせて17万近くの命を奪った。6月23日、牛島満司令官が自決して組織的な戦闘は終結した。
5月4日、ビルマのラングーンが英軍により陥落。
同月、ドイツが降伏。
8月9日、ソ連軍157万人が中立条約を無視して満州へ侵攻してきた。
事ここにいたってようやく日本政府は降伏を決意。
もはや厭戦気分はおおいがたく蔓延していたのである。
日中戦争から太平洋戦争にかけて日本人死者は、
軍人・軍属約230万人、民間人80万、計310万人にのぼった。
戦場となったアジア各国の死者は、役2.000万人との推計がある。
「日本軍事史」 吉川弘文館 2006年発行
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「大津野の歩み」
昭和20年7月14日 福山歩兵41連隊レイテ島にて玉砕
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・・・・台湾沖航空戦・終わり・・・・