しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

綿を作る

2022年01月29日 | 農業(農作物・家畜)
茂平の内海(うちうみ)に接した畑には白い綿の畑があった。
綿畑は、いかにも塩分が強い土壌を子供心にも感じていた。

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(父の話)
綿

綿は塩分をいくらか含んだところの畑で、麦の後作で植えていた。
ほりあげの畑に植えとった。内海のネキは塩分があるんで。
綿はようできとった。

談・2001年1月5日




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「岡山県史・民族Ⅰ」 昭和58年 山陽新聞社

綿

綿の本確的な栽培は江戸時代から明治20年頃までである。
安い外綿の輸入によって生産が減少した。
霜に弱い。
「地にあう」ところと、合わないところがある。
県南の干拓地ではまず綿を植え、シオヌキをした。
金肥として干鰯などが重要な肥料であった。
収穫は手摘みで人手を要したので、子供たちをかり出した。


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「吉永町史」 吉永町史刊行委員会編 吉永町  昭和59年発行

綿

平地で作られた。
春八十八夜ごろに蒔いて、8・9月ごろに収穫した。
綿の実がふいてくると、摘んできて干し、実と綿の繊維を分けて、綿打ちをした。
綿打ちの大きな弓をもって綿打ち廻った。
糸にしなくなってからは布団綿にして自家用に作られた。


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綿

「金光町史」

金光町は浅口郡内でも有数の綿の産地であった。
幕末から明治初めまで、綿を各地で栽培し、実綿や繰綿を玉島港に出していた。
このあたりの綿作の最盛期は天明2年(1782)のころであろう。
稲よりも綿収益が上り、アゲ田をした。
アゲ田とは肥土を除けて砂を入れ肥土を戻す、綿作によい。
収穫したのが実綿で、それを綿繰機(ネジワク)で繊維と実を分け、
繊維が繰綿になる。

繰綿は、綿打ちの弓で繊維をほぐす。
綿打ち屋に頼んで綿打ちをしてもらった。
次に枡の裏などの上で綿を薄く延ばしてシノに巻き、糸車で撚りをかけると手引きの木綿糸になる。
手引きの糸は太さが一様でなく、仕事着によかった。
ほぐした綿は布団綿にしたり、着物の中綿に入れた。



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綿

「福山市引野町誌」 

水野藩は大規模な新田、塩田の造成を行ったが
新田をはじめとして藩内に綿作を奨励した。
藩は綿を米の代替えとして租税の対象とした。
新田での綿作が、商業的ペースに乗ったのは、水野藩末期から阿部藩に入ってからと思われる。
江戸時代中期には米作よりも有利なため盛んに綿作が行われていた。
末期になると良田化も進み、田は米作が主体となったようである。
明治になって更に増えて、備後の特産物のトップとなった。
ところが外国綿が輸入され明治18年を頂点にその後急減。
明治29年の綿花の関税が撤廃されるに及び、凋落は決定的となった。
綿作に代わって興隆してきたのが養蚕といわれている。



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「倉敷市史8」

綿作り

綿作には多くの手間と大量の干鰯や油粕といった金肥が必要とされ、
さらには天候によって作柄が大きく左右されやすい危険性もあったが、
綿花は、
各家庭で衣類や布団綿を自給自足するためばかりでなく、
農家に貴重な現金収入をもたらす商品作物として盛んに栽培されるようになった。

明治20年代後半になると生産量は急速に低落する。
以後は自家用の布団綿などが細々と生産されるにすぎなくなった。

明治13年に倉敷村に生まれた山川均は、その自伝で
「ふだん着は糸車から織った手織り木綿で、
少なくとも綿を作る農家は、糸を買う必要がなかった。
たいていの農家は、綿を作っていた。
ところが、機械で紡いだ紡績糸がでてくると、その方がはるかに精巧でしかも経済的だった。
そこでお百姓の家庭でさえも、糸車は急速に納屋や天井裏に追放され、綿の栽培はまれにしか見られぬようになった。」


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イ草を作る

2022年01月29日 | 農業(農作物・家畜)

汽車に乗って岡山に行くとき、鴨方駅を過ぎる頃から藺草が車窓風景になった。
金光~玉島~西阿知~倉敷~中庄~庭瀬~岡山、そのすべてがイ草の風景だった。
特に中庄付近は印象深い。
しかし岡山から宇野線に乗った時は、もっとびっくりした。
妹尾~早島~茶屋町の辺りは見渡す限りのイ草の大平原だった。まあ驚いた。
今は全く残っていない・・・イ草も二毛作も・・・そのことにもまた、驚く。



(総社まちかど美術館)


「岡山県史 民俗1」
イ草(藺草)

藺草
早島町周辺はわが国屈指の綿作地だったが、明治20年代から藺草が広く栽培され、
都窪郡・倉敷市・岡山市・吉備郡南部が産地となった。
とくに、
早島町・岡山市福田地区・妹尾地区に多かった。
12月中頃から1月の寒中にかけて氷を割って田植えをする。
つらい作業である。

春になると急速に生長し、伸びすぎると品質が落ちるので、5月中旬頃先を刈って揃える。
7月20日前後の酷暑日に、若い屈強な人夫を使って刈りとりをする。
人夫の多くは、第二次大戦前は香川県から来ていたが、戦後は県内が多く、徳島・香川がこれに次いでいる。
刈り取った藺草は田の一隅に設けてある「ドブ」の藺泥で染め、その日のうちに乾燥させると、よい色のイ草になる。
色は白銀色がいいとされ、藺泥が大きく左右する。
藺泥は明石市の大蔵谷のものがよく、しかし近年は淡路産のものが入っている。
午前4時から午後9時まで、一日17時間もの骨身をけずる重労働であり、まさに、戦場のせわしさである。

売り値は年により激しい変動があり、好況の翌年には生産過剰となり、価格暴落の危険があった。
この投機的な動きはトンビと呼ばれる県内400人(昭和35年)の仲買人をふとらせ、農家は価格の変動に一喜一憂しなければならなかった。
よい年には小麦の19倍にもなったことがある。




(岡山県史)

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井原町史
藺草(いぐさ)

藺草は、昭和初期から十年代前半を通じて、稲倉村、県主村、木之子村で多く作られていた。
特に稲倉村や県主村では、藺草用の土が搾取できたことも良条件となった。県主村では、恐慌期に、染土のみ出荷が良好だったという。
藺草と対照的に、はっかと除虫菊は全町村で収穫された。


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(父の話)
藺草
茂平はない(きっぱり)
用之江も大冝もない。

談・2000.6.25

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「金光町史」
イ草

イ草栽培は、昭和30年代、岡山県南部で盛んになり、
昭和39年岡山県の総面積は5.550ヘクタール(全国の45%)に達した。
金光町でも、その頃が最盛期であった。
朝は4時から刈り始め、鎌はねさして土を切るくらいすれすれに刈る。
少しでも長く刈るためである。
イ草の処理が終われば、直ちに田へ水を張り、遅い田植えをする。


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昭和44年と45年にイ草刈の人夫になった。
朝の薄暗い時に起きて、ノドに飯を通して、田んぼに出た。
暗くなるまで仕事をして、晩飯を飲み込んで、すぐに寝た。
寝る前にビールを飲んだが、十数時間の真夏の仕事の後だけに美味かった。
(それ以来”呑兵衛”になり、今日まで持続している)

炎天下での10日間の重労働だったが、水分の補給を気にしたこともないし、誰かが日射病で倒れたという類の話もなかった。なぜだろうな?




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