しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

台湾沖航空戦③搭乗員が見たもの

2022年01月20日 | 昭和16年~19年
搭乗員が見たもの

陸攻機長だったTさん(83才)
電探(レーダー)の能力が悪いんですよ。目で見た方が早いの。
「我、燃料なし、自爆する」というような無線がはいりますし、
結局攻撃はできずに沖縄に帰っていたんです。

・・・
どうやって、敵艦隊を見つけることができたのか。
それは、なんと、敵艦が打ち出す対空砲火によってだった。

・・・

陸攻、副操縦士だったOさん(76才)
主砲みたいなのを撃つわけですよ。
青白い光がパーッと出るんですよ。
機銃がザザザザっとこう撃ってきますから、ああ、いるってわかるんです。

空母を攻撃せよというのが至上命令だったです、もしくは戦艦と。
空母は17隻というから、一つや二つはやれるかと思ったけれども、それが全然見えない。
ただ出てくるのはグラマンばかりでしたね。
今思えば、ちょっと考えられない無謀な作戦でしたね。
向こうはレーダーでこちらを捕まえるんですから。
われわれは「行ってこい」と言われれば、必ず行かねばならないですからね。







本来ならば、避けなければならない対空砲火を逆に目印にして、その中に突っ込んでいくことしか敵艦を攻撃できなかった。
しかも米軍の高射砲にはVT信管が装着されている。
一式陸攻は、わずかな被弾でも、すぐに燃料に火がついて「一式ライター」とあだ名されていた。
そういう一式陸攻の群れが、猛烈な弾幕の中に突入したのである。
日本軍機は次々に撃墜された。



鹿屋基地飛行要務士(参謀の秘書役)Aさん(79才)

「われ雷撃す」というような無電が一本入ったきり。
報告する前にやられちゃったの。
無電を打つ前に落とされちゃたのが多いんじゃないですか。


一式陸攻の副操縦士Hさん(当時19才)

鹿屋を出発したのは12時半か1時ごろ、戦場到着が4時半か5時ごろか。
--対空砲火は、かなり激しかったですか。
かなりなんていうもんじゃなかったですね。
想像していたより、もっとひどかったです。
夜間ですから、曳光弾というのが、それが火の玉みたいに尾を引いてずっとつながって飛んでくるわけですよ。
花火の五連発、七連発、あれを何十本も何百本もパーっとやるのと同じような感じです。
その中を機首を上げ下げして、くぐったり飛び越えたりしていくわけです。
考えたら、当たらなかったのが不思議という感じです。
--戦果の確認は。
見ていないですね。仮に命中したとしても、われわれの落とした魚雷であるとかいうことは全然わかりません。


--沈んだかどうか
とても確認できませんよ。
もうそれよりも逃げるが勝ちですからね。
--轟沈
5分以内に沈むのを轟沈だといいます。
まずないと思いますよ。
魚雷一本で沈むほどやわくは(敵艦も日本軍も)ないですから。





参加した搭乗員の大部分は初陣である。
異常な心理状態である。
赤い尾を引く曳光弾や、1分間に10万発と俗にいう、
猛烈な対空砲火の弾幕のなかをくぐりぬけて生還してきたばかりの彼らにとって、あたかも地獄の底から戻ってきたばかりのような心理状態であったろう。
自分たちが見た火柱や水柱の正体がなんであったのか、冷静に判断ができない人がいたとしても不思議ではない。


戦果報告の過程

I機長の報告
空母(推定)を雷撃命中、その他火柱二を確認せり

・・・

その報告書に、新たに二隻の戦果が書き加えられている。
艦型不明の轟沈を認む
艦種不明の轟沈を認む

・・・

高雄の司令部で艦種不詳は空母の算大なりに変化した。

航空参謀と搭乗員のやりとり

参謀「ほかには何か見なかったか」
搭乗員「遠くでオイルタンカーか、空母が燃えていたかもしれません」
参謀「空母だろう」
搭乗員「そうかもしれません」
参謀「空母が撃沈されていたのだな」
搭乗員「そうかもしれません」
こうした一種の誘導尋問がおこなわれていた。

あまりに未帰還機が多く、直協機や隊長たちが帰ってこなかった。
初陣の若い搭乗員とのやりとりをもとにせざるをえなくなった。

夜間の攻撃で目標を誤認しやすい状況下におかれた搭乗員が、
味方機が墜落して発した火柱や対空砲火の火焔などを敵艦の火災や魚雷の命中と見誤り、
それを一種の誘導尋問によって、実際にあげた戦果であると誤断するという経緯のもとに生み出された。


「幻の大戦果 大本営発表の真相」  辻泰明  NHK出版 2002年発行


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台湾沖航空戦②台湾沖航空戦の大勝利

2022年01月20日 | 昭和16年~19年



昭和19年10月19日、大本営は台湾沖で、敵の過半の兵力を壊滅したと発表した。

日本海軍は、日露戦争における日本海海戦で歴史的大勝利をとげたが、
その再現ともいうべき快挙だった。

戦果
撃沈・・・空母11隻、戦艦2隻、巡洋艦3隻、その他。
撃破・・・空母8隻、戦艦2隻、巡洋艦3隻、その他。


我が方損害
未帰還機312機

戦争は勝ったも同然との気分が広まり、
新たに作られた『台湾沖の凱歌』(サトウハチロー作詞・古関裕而作曲)という歌がラジオから流された。

昭和天皇は大戦果をあげた部隊に対しお褒めの言葉を賜った。
「朕が陸海軍部隊は緊密なる共同の下、敵艦隊を邀撃し奮戦、大いにこれを撃破せり。朕深くこれを嘉尚す」






その当時ハルゼー大将率いる母艦は、改造軽空母を含めても17隻だった。
これはいったいどういうことだろう。
数え間違いか、勘違いか、あるいは重複して数えたとか。
数え間違いがあった、どころではない。

そもそも、大戦果はまったくの幻だったのである。
現実には、撃沈した敵艦は1隻もなかった。

日本軍は航空部隊の過半を失ってしまった。
しかも、この幻の大戦果を、現実のものと信じた日本陸軍は、既定の方針を変更して、アメリカ軍に対して無理な決戦を挑み、悲惨な敗北を喫することになる。


「幻の大戦果 大本営発表の真相」  辻泰明  NHK出版 2002年発行



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台湾沖航空戦①「絶対国防圏」とサイパン陥落

2022年01月20日 | 昭和16年~19年
昭和19年10月の台湾沖航空戦の”大勝利”の前後をまとめた。



絶対国防圏

1943年9月、日本軍は「絶対国防圏」を設定、
戦場を縮小するかわりに、これより内には米軍を一歩も入れないとの決意を示した。
マリアナを失えば日本列島の大部分はB-29の航空圏内に入り、戦争継続は不可能となることが分かっていたからである。
東部ニューギニア、ソロモン、マーシャル方面には多数の陸海軍部隊が残っていたが、事実上見捨てられた。


サイパン陥落

1944年6月、米軍は空母15隻を基幹とする機動部隊の援護のもとマリアナ諸島サイパンに上陸。
迎え撃つ日本機動部隊(空母9隻)とマリアナ沖海戦が起こった。
米軍は高射砲弾にVT信管を使用、日本機動部隊は事実上壊滅した。
孤立無援となったサイパンは陸海軍2万人、民間人1万人の犠牲と共に陥落した。
つづいてテニアン、グアム両島も「玉砕」陥落した。
東条内閣はサイパン失陥の責を負って総辞職した。

これより先の1944年春、日本軍は二つの大作戦を開始した。
3月インパール攻略作戦を開始した。

参加兵力10万人中、死者3万人、戦傷病者数4万5千を出して総退却という惨憺たる敗北に終わった。
4月大陸打通作戦を開始した。
約41万もの日本軍が約2.000キロの距離を南下、
いちおう作戦は完了したものの、補給の軽視・貧弱な衛生施設のため多数の戦傷病者・餓死者を出した。
しかも作戦中にマリアナ諸島が失陥し、B-29が日本本土に発進していたから無意味な作戦であった。

日本軍の補給軽視は前戦線に共通のものであった。
日中戦争、太平洋戦争における広い意味での「餓死」者数は、全戦死者数230万人中の実に過半数、140万人にのぼったとの推計がある。


「日本軍事史」 吉川弘文館 2006年発行




(「幻の大戦果 大本営発表の真相」 NHK出版)


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