田舎(笠岡市茂平)と町(福山市入船町)の生活の違い、というか格差はこれだけあった。その一例。
昭和42年春、農家の娘である姉は、福山市入船町の男性と結婚した。
結婚して初めて牛肉のすき焼きをたべた話。
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(姉の話)
結婚した頃、夫は「肉言うたら、牛の肉しか食べた事が無い。」ようた。町の人間じゃよね。
「子どもの頃、肉を買いに行く(手伝いで)ゆーたら、牛肉を買いに行く。」
初めての牛肉のスキヤキにはビックリした。
談・2002年1月3日
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(管理人)
福山の三吉町に叔父の家があり、中学生の時そこで従兄弟たちと牛肉のスキヤキを初めて食べた。
牛肉の味は全く覚えていないが、肉を食べるのに「生卵一個」使って。その事にビックリ仰天した。
自分にとって生卵一個食べるのは病気になった時、そういう時はじめて食べられるものと思っていたから。
町の食生活と、その贅沢さ。本当にカルチャーショックみたいだった。
昭和42年、茂平を出るまで。自宅で牛肉のスキヤキ、しゃぶしゃぶ。
そういうものは食べたことは無かった、
スキヤキといえば鶏の肉だった。
2002年1月3日
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昭和47年に転勤の際、歓迎会があり牛肉の”しゃぶしゃぶ”を課のみんなで囲んで食べた。
それが、二度目の牛肉だったように思う。
その頃から、
街には焼き肉屋が開店し、(それまではホルモン屋)
寮や家庭でも、牛肉のスキヤキ・しゃぶしゃぶが並ぶようになった。
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家でスキヤキを食べることはあった。
ニワトリのすき焼きだった。
それは、田舎ではおおご馳走だった。
父が弱った鶏を料理していた。
父は上手に肉から内臓まで取り出していた。
私が中学生になった頃、日曜日の昼の鶏の餌は自分の仕事だった。
弱った鶏を殺すのは自分の仕事になった。毛と皮を剥いで、肉を母に渡していた。
(姉の話)
家の庭には鶏を吊って、ぶらさげていた。
卵を産まなくなった鶏の肉を食べょうた。
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「日本人は何を食べてきたのか」 永山久夫 青春出版社 2003年発行
聖なる鳥、ニワトリ
古代ニワトリは、時刻を告げる神聖な鳥として扱われていたようだ。
農作業と結びついて時間をおしえてくれる神聖な鳥。
江戸時代ヨーロッパ人や中国人が、何の抵抗を持たずに鶏肉や卵を食べることを知り、日本人はカルチャーショックを受けたらしい。
タブーが取られ、卵を使ったカステラや茹で卵が幕末には普及していた。
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「日本食物史」 江原・石川・東四柳共著 吉川弘文館 2009年発行
「すき焼き」に使用する肉
開港以降、西洋文化を受容した日本では、それまでの肉食禁忌を急速に解き、
牛肉食をはじめ獣肉食を摂取するようになった。
それらの食習慣は、急速に受け入れられたようにみえるが、
日本地域全体の、各家庭に受け入れられることは、それほど簡単なことではなかった。
大正末から昭和初期の各地のすき焼きの摂取に調査すると、
「すき焼き」という料理名は全国に普及しており、各地ですき焼き料理が食べられていることである。
しかし、食材が必ずしも牛肉ではなく、鶏肉が使われていることも多い。
それだけではなく、ウサギ、馬肉、鯨のほか、はも、さば、ぶりなどのすき焼きもみられる。
しかしうさぎなどのすき焼きは「大ごちそう」でたびたびは食べない。
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