しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

白い脚の記憶

2022年03月14日 | 昭和16年~19年
白い脚の記憶

「歴史の温もり」 安岡章太郎歴史文集  講談社 2013年発行

戦時中、外地に従軍していた慰安婦には軍が関与していた、
とそんなことが最近になって言い出されたのは何なのか私は不思議な心持ちになる。
だいたい軍の関与なしに従軍慰安婦なるものが存在するわけは有り得ないではないか------。

私が軍隊で行っていたのは、旧満州のソ連国境に近い孫呉だが、
そこでも師団司令部の近くに慰安所があって、営門に「満州第何百何十何部隊」とした大きな標札が出ており、誰の眼にもそれが軍の関与する施設であることは明らかだった。
もっとも、私たち初年兵は演習のないときは、内務班に居残って、古兵の下着の洗濯や靴磨きなんかにコキ使われるだけだった。





土堤のうえを吹き抜ける川風は、サラリとして快い。
私たちは草原に腰を下ろして、爽涼の気分を満喫していた。
すると班長のE軍曹が、
「見ろよ、慰安所の姐さんたちはお茶っぴきらしいぜ」、
ふだんマジメなE軍曹がこんな言葉を口にするとは、私は意外だったが、
言われてみるとなるほど、
川の浅瀬のところで若い女たちが五、六人、水をはね上げて駆け廻っている。
しかし、その姿は私の考えていた「慰安婦」とは一致し難く、ただの娘さんとしか思えなかった。
彼女らは、どうやら小魚を浅瀬の洲の中に追い込もうとしているらしく、
なかで大柄な二、三人が水の中で手拭を拡げながらこっちの方へやってくる。
大きな麦藁帽子に隠れて顔はよく見えなかったが、たくし上げたスカートから覗く脚は、まぶしいくらい白かった。
--女の子の脚とはあんなにもまっ白いものだったのだろうか。
私は、そんなことを口の中でつぶやきながら、しばし茫然となっていた。

部隊が南方へ出発したのは、それから二週間ほど後であった。
上海経由、フィリピンに向かった第一師団が、
火砲弾薬の劣勢にも拘わらず、よく戦ってアメリカ軍を苦しめ、みずからはほとんど全滅するまで力闘したことは戦誌のしるすとおりである。


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従軍慰安婦

「天声人語」 辰濃和男  1985・9・19

特要隊と呼ばれる慰安婦だった城田さん(仮名)は、私は女の地獄を見たと訴える。
六十をすぎた城田さんに会った。
話はパラオ諸島での特要隊のことになった。
「台湾の娘さんがカエリタイカエリタイといっていた。
朝鮮半島の娘さんも、カエリタイヨオッカサンといっていた。
何人もの仲間が爆撃で死んだ」
日本の女性を含め、彼女たちは軍需物資並みに扱われた。
軍馬と共に船底に押し込まれて運ばれることもあった。
軍隊の暗部を今さら、という人もいるだろう。
だが、軍需物資として消耗品品のように捨てられた女性たちの存在はやはり、
戦争史に刻まれねばならぬ。



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モモを作る

2022年03月14日 | 農業(農作物・家畜)
私は3人兄弟だが、3人とも、両親の”桃”作りによって学校へ行くことができた。

桃の花が咲く頃の茂平は、ほんとうにきれいだった。
花が終わって、桃に実が成ると、
西の峠道は野々浜から、北の峠道は用之江から、袋掛けの婦人部隊が茂平に歩いて来ていた。

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(2021年茂平)

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モモ

岡山のモモの栽培は、明治になって国が勧業政策を進める中で本格化していった。
はじめ天津桃や上海桃が県南を中心に広がった。
この中で進取の篤農家によって新しい品種が育成され、
後の「桃の名産地岡山」への一歩をふみ出す。
明治28年、小山益太の「金桃」、
明治31年、長尾円澄の「土用水密」、
明治354年、大久保重五郎の「白桃」
などが次々に発表された。
特に「白桃」は味が良いうえに日持ちがよく、遠隔地輸送が可能なことから市場性が高まり、栽培が広まった。
さらに大久保は「大久保」を育成した。
昭和7年、西岡伸一による「清水白桃」が生まれた。

明治以来、岡山のモモ栽培は拡大を続け、第二次世界大戦中に一頓挫はあったものの、
昭和30年代半ばには栽培面積約2千ヘクタール、生産量約2万トンで日本一のモモの生産地となった。
しかし昭和30年代後半から始まる高度経済成長は農家の人手を工業地帯へ吸収し、
次第にモモの栽培面積は減ってゆき昭和50年代にはピーク時の半分に落ち込んだ。
しかし、全国ブランド「岡山の桃」は、量よりも高品質を追及する方向に進んでいる。


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(2021年茂平)

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(父の話)



桃は50年くらいはもつが、30年でうがしてしまう。そうせんと実が弱うなる。

2000・5・14
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上海水蜜と天津水蜜

(明治8年上海・天津水蜜ができている)
昔しゃぁ、上海、天津ようたんじゃ。せいが来た初めじゃ。

初めの品種じゃ。ウチにゃぁ植えとらん。初めに植えた人が植えとった。
そこの、徹っつぁん方に、徹っつぁんの親父  が植えとった。山の畑に植えとった。






岡山早生と砂子早生

一番早いのが岡山早生、次が砂子早生。両方植えとった。
今はうがしっしもうた。

(砂子早生は昭和33年にできている)
砂子早生のほうがえかった。

2001年7月23日

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白桃

白桃は出るのが遅い。
ボニ(お盆)が過ぎる頃できょうた。わりかた虫にやられてのぅ。虫に食いやられてのう。
虫がよう来る。予防ばあせにゃあいけん。

売れんのが、悪ぃのがおゆうて、売られんのがおいいんじゃ。
甘おて、おいしゅうてええんじゃがの。
ほれじゃけい、どおしても虫にやられんヤツを作るようになる。

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大久保

大久保もうつろの畑に植えとった。
清水白桃
清水白桃は新しい品種じゃ。

きんとう・明星
きんとう・明星ゆうのはこれは「カンズメ桃」じゃ。
菊水(きくすい)
馬場白(ばばはく)
華清水(平成8年)
そりゃぁ知らん。
主に植えとったのは「白桃」「大久保」それと「清水白桃」「早稲・岡山}


2001年7月23日

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桃 Ⅱ

ももは、新しい品種ができるいと、それにう変ようた。
ボニに出るのが一番高い。味がエエのに。

新しいのが出ると、、それでないと買うてくりょうらなんだ。
次第にえんのがでてくるけいのぉ。
ぼろの桃は切って、植え変ようた。
古いのはかねのにならん。味もわるうなる。

桃の木は30年は持つが。

2000・12・17
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冬に選定して、予防して・・・・春になると花が咲く。
夏に実をちぎって出荷する。
桃も早ぃんと、遅いんがある。
主が八月じゃ。

実がなった桃は木をみて(実を)間引ぃて、せいがすんだら袋掛けをする。
予防は最低にへんはする。
芽をのばさんようにアブラ虫がつく。それを予防したら葉がようのびてエエ花がさく。

三へん、四へん予防するのもいるが、ようしちゃるほうがええ。
出荷がおわった木はいっぺん予防をしとったほうがええが、おわったらたいげなけぇせんうちが多かった。

ウチにも新涯でつりょうたことがあるが湿気があってようなかった。
うつろの山は(水をやろうにもだんだん畑で)しんどいけえせなんだ。

予防以外、そんなに手間はかからん。

2001・2・11
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桃の袋かけ

桃、びわの袋掛けには用の江を中心に、大宣からも来ていた。
あくまで桃が主である。

(いつのまにか、来ないようになったが?)
人件費がただ同然の時代であったが、高くなったので止めたのだ。
桃の相場とあわんようになった。
日当がでんようになった。昔はただみてぃなもんじゃったけぃ。

いまでもツテや、親類をよんでやっている。
昔から女を雇っていた。
葡萄は自分達でしとった。

2000年05月28日

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袋掛け Ⅱ


新聞を切るもんがまだある。
冬の仕事にしょうた。
薬を掛けた(新聞を)ののもある。
桃は病気がくるんで薬を掛けたほがええ。

枇杷は虫がこんので新聞紙のままでもええ。

止めるんも稲藁で、ひなか中しょうた。
用之江やこからきてもろうとる時にゃ、昼休みにも藁を打ちょうた。
今のは袋に金がはいっとる。
止め金がはいっとる。みやすうなった。
藁もいらんようになった。

2000・12・17


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「日本の農業4」 長谷川美典 岩崎書店 2010年発行

モモを育てる

モモは、ニンゴやナシに比べると木の寿命が短いため、栽培できる期間が短く、
雨に弱いなどの特徴があります。
日本でのモモの栽培は古く、古事記や日本書紀にも書かれています。
現在栽培されているモモは、明治の初めに中国から入ってきた「上海水蜜桃」などを改良した品種が多く作られています。
昭和30年には岡山県、香川県、大阪府など温暖な地域が主産地でしたが、
すずしい地域でも生産できることから山梨県、福島県、長野県、山形県でも作られるようになりました。
生食が多いのですが、缶詰やジュースにも加工されています。

苗を定植したあと2~3年で実をつけ、5~6年目には成木になります。
12~13年目には収穫量が落ちてくる木が出てくるので、順次植え替えが必要となります。

モモの根は水に弱く、雨が多いと病気にかかりやすくなり、
日照不足になると果実の糖度低下や日もちが悪くなります。

モモの果実は、日もちが悪く、収穫が少しでも遅れると痛んでしまいます。
そのため、いろいろな品種を植え、収穫期を少しずつずらして作業が一度に重ならないようにしています。


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今の栽培桃は中国の天津水蜜桃などを明治になって改良したものである。
笠岡市広浜の庄屋・渡辺淳一郎は明治6年に樽屋桃を栽培、のち上海水蜜桃の栽培を始めた。
彼が岡山県における始祖である。
岡山県熊山町弥生の篤農家・大久保重五郎が昭和2年に大久保即ち水蜜桃を、明治33年に白桃を発見している。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行


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「岡山の歴史」 柴田一 岡山文庫  昭和49年発行

明治30年代になると、二毛作も70~80%に達し、菜種にかわって小麦の栽培が増加した。
その頃から、県南のいたるところで果樹栽培が盛んになった。

桃は全国の首位を占め白桃は「水蜜桃」の名で有名になった。
栽培面積は明治38年日露戦争のころはすでに約一千町歩、
昭和15.16年太平洋戦争の始まる直前には約三千町歩に達し、
全国屈指の果物どころとなった。


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「貧乏人は米を食え」の方が正しかった

2022年03月14日 | 食べもの

白いおコメのご飯を食べるのは、貧しい日本人にとって長年の夢だった。
私も、そうだった、
「コメのメシが食いたい!」と思っていた。

池田勇人大蔵大臣の「貧乏人は麦を食え」は政治史に残るほど有名だが、
ところが母の論では、
「貧乏人は米を食え」の方が安くつくそうだ。

・・・・

畑作

江戸時代農家は米でなく、麦を主食にしていたといわれる。
野菜は栽培が難しく、一部の権力者しか口にできない嗜好品だった。
長期保存ができないので、各地で気候条件などに合ったものが独自の発展をした。
工芸作物は長期保存が可能なため、早くから全国各地に流通し、一大産地も誕生した。

「最新日本の農業図鑑」 八木宏典 ナツメ社 2021年発行







麦飯 

(母の話)

だいたい7:3くれいなら食べられる。
ボニ・正月・祭りが米の飯。

家を建てるとき(昭和35年頃)、たましまん(玉島の母の実弟)来て「あんた方にゃ、まだ麦飯をくようんか」いわれた。
よお、おべぃとる「麦飯がめずらしいから食べさせぇ。」いわれた。
あっこらは米の飯ばぁじゃろう。

そおすりゃあ、夜燈の親類の野々浜のデショがあろう、あっこに田圃がえっとある。
「麦飯は二杯も三杯も食べにゃあ、腹がふくれんけど。米の飯は一杯たべりゃぁある」
ゆうちゃったけど、ほんとじゃった。

米は強いけぃ一杯たべりゃあ、ほんに腹がふくりょうた。
結局麦は損じゃったのう思うた。

夜燈のおばさんのお母さんがようたが(米の飯を食べることは)ほんまじゃったなぁ、といつも思う。
(桃などの)袋掛けに来てくりょうちゃた。あわぁな事をよおるが思うて聞きょうたが、ほんまじゃった。
麦飯は腹へもたれんから何杯も食わんと、食べたようになかった。

2001・1・1


麦まぜ

二分か三分。
二か三は麦の方じゃ。残りは米。
麦を混ぜればくさい。
年よりは,麦をまぜたほうが、やわしいゆうてようくようた。混ぜてくれぃ、ゆうてようた。
他に米に混ぜるゆうたら、大豆くれいじゃ。

飯は朝たきょうた。朝と晩。昼は,朝炊いたのを。晩は炊いたのと,昼の残りを。
おひつにいれといて。昼は冷や飯じゃ。

”うむし”やこ,した時にゃ、配りょうた。隣やこに。
談・2000/1/9


・・・・・・

「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

米飯
米の飯を都市の庶民が食べるようになるのは江戸時代からである。
一般には、米飯は冠婚葬祭の時であった。

米麦飯
庶民は、昭和20年代までは半麦飯を食べる家は恵まれていたのである。
半麦飯を食べるのは願いであったし、贅沢ともいわれた。
麦飯にするのは南部地方では裸麦であったが、吉備高原では大麦であった。
平麦は昭和初期から第二次大戦後のことである。
平麦はヒシャギ麦などと呼ばれた。

糧飯
少量の米飯とか麦飯の中に、多くの野菜とか山菜とかをいれて塩とか醤油で味付けして食べる。
大根飯、菜飯、栗飯、蜂の子飯、稗飯、粟飯、黍飯、芋飯、豆飯、鮒飯、・・・・。


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中学校の3年生の頃、家はコメの飯になった。
弁当箱を開けても、麦飯が何粒か、見えることは無くなった。



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