家の中で、牛の存在感は大きかった。
なにより体が大きい。そしてなんでも底なしに食べ・飲んでいた。
夏の果物で市場に出せないもの、人の食べくさし、すべて一飲み状態で食べる。
”食べ残し”など想像もできない動物だった。
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矢掛町史
牛と馬
役畜と自家用消費用肥料の獲得のため、財産としてたいせつに飼育した。
牛が耐久力の強いことや、子牛の売買による副収入があることが理由。
昭和30年代から40年代にかけて、牛馬とも非常な減少をたどった。
特に昭和38年と39年の一年間に激しい減少を示した。
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(父の話)
牛
牛のモリは大変じゃ。
使うのは田植えの時だけ。
その時は牛もくたびりょうた。
草を刈ってきて餌にし、藁をくうて・・・。
談・2000・9・10
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(母の話)
ゲシの草を刈りょうた。
草刈るのがおおおじょうしょうた。
何処にも、草が伸びた思えば、草をかりょうた。
田んぼのゲシ、畑のゲシ。
畑の仕事がすんでも牛餌をからにゃあいなりゃへんゆてようた。
(田畑の)仕事が済んでも”牛の草ぁ、刈らにゃあいなりゃあへん”ゆうてようた。
まーさん方とあきらさん方と3軒共同じゃったがすぐ10日がたちょうた。
冬は草がねぇんで、藁をひいてソラマメやこ混じょうた。
黒ぇソラマメのカスや、大豆のかすをたびょうた。ヌカを混ぜて。
大根の葉っぱ、も。キャベツの葉も。人参の葉。
よろこんでくようた。
芋は(人間が食べるくらい)おいしんで喉につまらすようた。エエように切ってくわしょうた。
こもうに切って。
(牛小屋の掃除)
賀山にゃあ、カドに棒を立てて牛を繋いで。
”くもし”にしょうた。
ヒマおれる。骨が折れる。
談・2000・12・17
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(父の話)
牛の子
牛を飼ようて、(牛が)死んだ言うことは、あんまり聞かん。
若い牛を買うて、田を耕して、(しまいには肉として)売りょうた。
ウシンガをかいて、マンガをひいて
牛がおらにゃ、ええようにシロカキができなんだ。
ウチと夜燈とアキラさんかたと参軒共同でかようた。
メンコが生まれたら高う売りょうたが、オンコは安かった。
じゃけぃ、メンコはちょっとなか大きゅうして、せいから売りょうた。
オンコは安いけぃ、あほらしいのですぐ売りょうた。
小牛が生まれるけぇ、せえが楽しみじゃった。
売って銭になるけぃ。
トラクターがでて(牛飼いは)止めた。
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牛は、おお飯食いで
牛でもくたびりょうた。田植えの時にゃ。
どこともじゃ、茂平にゃ一軒で飼ようるウチは無かった。
藁ぁやったり、草を食わせたり。
田植えのためだけに一年くわさなにゃぁならん。
骨が折りょうた。
談・2000・1・9
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牛は田植えの時にだけ役にたつけぃど、間は骨がおれるばあじゃ。
草をかったり。
堆肥にして肥にしょた。
談・2002年4月6日
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牛の爪を切る
牛の爪は田植えの前のへんにしょうた。
爪が長ぅなったらふんばれんし、爪の間にドロやこがはさまらんように。
カド(家の庭)へ牛を連れ出して棒へ縄で牛をくくり(あばれちゃぁいけんので)、大人が二人はおらにゃぁできん。
一人は牛の脚を持ち上げて、あげたもんがきる。爪を切る。
一人は牛がよろよろせんように背中でよかるようにしとく。(安定させとく。)
そおやってじゅんじゅんに、1本切っちゃあ降ろし、四本の脚の爪を切っとった。年に一回じゃ。
談・2001年7月14日
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馬喰(ばくろう)の話
(牛の売買はどのようにしていたのか?)
「ばくろう」言ぅて、西ノ谷のますらおさんがしょうた。
ますらおさんが「ええ牛がおる、買ぇえ。」ゆうてようた。
こまい牛を大きくして売ったり、また牛を買うたり。
自分の家にも何匹も飼うて、そうしょうた。今は(ますらおさんは)死んだけど。
城見ではますらおさん、一人じゃった。
大勢はいらんけぃ。
談・2002年5月3日
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「野々浜むかし語り」 野々浜公民館
昔野々浜では、農耕用に牛が飼われていた。
大抵は何軒かが共同で一頭の牛を飼っていた。
普段は一週間おきぐらいで次の家に牛をまわすが、
農繁期にはもっと頻繁に交替して使う。
牛は黒牛で、皆牝を飼った。
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(父の話)
(草の少ない冬の牛のえさは?)
藁ばぁじゃ。
その中へ芋ズルや、生の芋を切って混ぜたり。豆のぼろや。冬野菜のぼろ。
芋ズルは切って干してとっとった。→母・芋ズルは戦時中にゃ炊いて食びょうた。
(母の話)
牛は喉を詰まらすことがあるんで、こもうに切ってからやりょうた。糠も混てやったり。
賀山にゃ、水でも。「米のとぎ汁のほうがええ」いうてやりょうた。→父・この方でもいっしょじゃ。
そうやって牛は可愛がりょうたんじゃ。
2002年10月14日
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(父の話)
牛小屋
茂平の百姓の家(ウチ)にはみな、牛小屋をもっとる。
漁師のウチには無かった。
うちにはまさっさん、かくさん、あきらさんと共同で飼うとった。
しまいにトラクターでやりだして要らんようになって売った。
談・2002年4月6日
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「長船町史・民族編」 長船町 平成7年発行
牛の飼育
牛の餌
牛の餌は通常一日三回で、特別に使役するときは四回与えることもあった。
人間の食事より前に、まず牛に餌を与えていた。
稲わらを飼い葉切りで三センチくらいの長さに刻み、水を含ませて軟らかくする。
それに米ぬか・粉糖などを振り掛けて与える。
米のとぎ汁や野菜の残り、おかずの残りなどシイダレを大鍋で煮立てたり、畔草や山草などの青草、冬には干し草などを与える。
夕方には少量の屑米・カワ麦・ハダカ麦などの煮たてたものとか、組合で購入した大豆粕を水に浸したものを加えてやり、
特に田ごしらえなど作業のきついときは、これら穀類を多くしていた。
入れ物は、
飼い葉桶とか、牛桶、ハンギリなどという直径一尺五寸(約45センチ)ほどの木桶で、内庭から与えていた。
牛の草
春から秋の草の多い季節は、朝食前に一荷、牛の草を刈ってくるのが日課であった。
自分の田畑の畔やゲシなどを刈り、必要なら川や池の土手などの草も刈る。
芋蔓や大根葉なども大切に利用していた。
手入れ
時々、カド先につなぎ、金ぐしでこすり、毛櫛で払ってやった。
夏の夕方には外で夕涼みをさせた。
調教
牛が一歳を過ぎると鼻グリを通し
それに三ひろの牛綱を付けて、牛の後ろから右手で操作した。
綱一本と掛け声で牛が指示通りに動く様に訓練した。
進め シッシッ 綱を打つ
止まれ ボウボ
右回り 綱を引く
左回り エッショ 綱で牛の右を打つ
後進 ジョル 綱を引く
取り引き
牛の売買は伯楽(ばくろう)を通して行う。
伯楽は取引先の家の様子を十分承知のうえで牛を動かせていた。
伯楽は、大山や高梁、新見、久世、津山などの牛市で仕入れ、追い子を使って帰ったり
、船で九幡や牛窓に運んでいた。
牛神
牛が死ぬとマヤ損といい、近所の人々が、お金を集めて差し出していたが。牛の供養はしない。
一般に万人講はしなかったようで、牛の死骸は、山や畑の適当な場所に埋めたり、処理業者に引き取ってもらった。
伝染病で死んだときは、村の焼場で焼いたという。
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牛
農民の牛の持ち方は、一頭丸持ちもあるが、足一本持ちとかの「モヤイ牛」が少なくなった。
三軒モヤイであれば1/3金をかけ、三軒交替で飼育する。
「岡山県史・民族Ⅰ」 昭和58年 山陽新聞社出版より
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「金光町史」
牛
牛は農家にとっては貴重な家畜である。
田畑の耕作や物の運搬に使うだけでなく、
牛屋の敷藁は大切な肥料であった。
また、育成することで収入を得、仔牛が生まれると、そのうえに臨時収入となる。
餌はほとんど自給飼料であるから、手間はかかるが労力さえ惜しまなければ、
直接・間接その収益は大きかった。
そこで、黒毛の和牛の牝牛が好まれた。
普通3年間に2~3回仔を取る。
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