しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

牛を飼う

2022年03月05日 | 農業(農作物・家畜)

家の中で、牛の存在感は大きかった。
なにより体が大きい。そしてなんでも底なしに食べ・飲んでいた。
夏の果物で市場に出せないもの、人の食べくさし、すべて一飲み状態で食べる。
”食べ残し”など想像もできない動物だった。

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矢掛町史

牛と馬

役畜と自家用消費用肥料の獲得のため、財産としてたいせつに飼育した。
牛が耐久力の強いことや、子牛の売買による副収入があることが理由。
昭和30年代から40年代にかけて、牛馬とも非常な減少をたどった。
特に昭和38年と39年の一年間に激しい減少を示した。


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(父の話)



牛のモリは大変じゃ。
使うのは田植えの時だけ。

その時は牛もくたびりょうた。
草を刈ってきて餌にし、藁をくうて・・・。

談・2000・9・10



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(母の話)

ゲシの草を刈りょうた。
草刈るのがおおおじょうしょうた。
何処にも、草が伸びた思えば、草をかりょうた。

田んぼのゲシ、畑のゲシ。
畑の仕事がすんでも牛餌をからにゃあいなりゃへんゆてようた。
(田畑の)仕事が済んでも”牛の草ぁ、刈らにゃあいなりゃあへん”ゆうてようた。

まーさん方とあきらさん方と3軒共同じゃったがすぐ10日がたちょうた。

冬は草がねぇんで、藁をひいてソラマメやこ混じょうた。
黒ぇソラマメのカスや、大豆のかすをたびょうた。ヌカを混ぜて。
大根の葉っぱ、も。キャベツの葉も。人参の葉。
よろこんでくようた。

芋は(人間が食べるくらい)おいしんで喉につまらすようた。エエように切ってくわしょうた。
こもうに切って。

(牛小屋の掃除)
賀山にゃあ、カドに棒を立てて牛を繋いで。
”くもし”にしょうた。

ヒマおれる。骨が折れる。

談・2000・12・17

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(父の話)

牛の子

牛を飼ようて、(牛が)死んだ言うことは、あんまり聞かん。
若い牛を買うて、田を耕して、(しまいには肉として)売りょうた。

ウシンガをかいて、マンガをひいて
牛がおらにゃ、ええようにシロカキができなんだ。

ウチと夜燈とアキラさんかたと参軒共同でかようた。
メンコが生まれたら高う売りょうたが、オンコは安かった。
じゃけぃ、メンコはちょっとなか大きゅうして、せいから売りょうた。

オンコは安いけぃ、あほらしいのですぐ売りょうた。
小牛が生まれるけぇ、せえが楽しみじゃった。
売って銭になるけぃ。

トラクターがでて(牛飼いは)止めた。

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牛は、おお飯食いで

牛でもくたびりょうた。田植えの時にゃ。
どこともじゃ、茂平にゃ一軒で飼ようるウチは無かった。

藁ぁやったり、草を食わせたり。
田植えのためだけに一年くわさなにゃぁならん。

骨が折りょうた。

談・2000・1・9

・・・
牛は田植えの時にだけ役にたつけぃど、間は骨がおれるばあじゃ。
草をかったり。
堆肥にして肥にしょた。

談・2002年4月6日
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牛の爪を切る

牛の爪は田植えの前のへんにしょうた。
爪が長ぅなったらふんばれんし、爪の間にドロやこがはさまらんように。
カド(家の庭)へ牛を連れ出して棒へ縄で牛をくくり(あばれちゃぁいけんので)、大人が二人はおらにゃぁできん。

一人は牛の脚を持ち上げて、あげたもんがきる。爪を切る。
一人は牛がよろよろせんように背中でよかるようにしとく。(安定させとく。)
そおやってじゅんじゅんに、1本切っちゃあ降ろし、四本の脚の爪を切っとった。年に一回じゃ。

談・2001年7月14日

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馬喰(ばくろう)の話

(牛の売買はどのようにしていたのか?)

「ばくろう」言ぅて、西ノ谷のますらおさんがしょうた。
ますらおさんが「ええ牛がおる、買ぇえ。」ゆうてようた。

こまい牛を大きくして売ったり、また牛を買うたり。
自分の家にも何匹も飼うて、そうしょうた。今は(ますらおさんは)死んだけど。

城見ではますらおさん、一人じゃった。
大勢はいらんけぃ。

談・2002年5月3日


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「野々浜むかし語り」 野々浜公民館

昔野々浜では、農耕用に牛が飼われていた。
大抵は何軒かが共同で一頭の牛を飼っていた。
普段は一週間おきぐらいで次の家に牛をまわすが、
農繁期にはもっと頻繁に交替して使う。

牛は黒牛で、皆牝を飼った。

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(父の話)


(草の少ない冬の牛のえさは?)
藁ばぁじゃ。
その中へ芋ズルや、生の芋を切って混ぜたり。豆のぼろや。冬野菜のぼろ。
芋ズルは切って干してとっとった。→母・芋ズルは戦時中にゃ炊いて食びょうた。

(母の話)
牛は喉を詰まらすことがあるんで、こもうに切ってからやりょうた。糠も混てやったり。
賀山にゃ、水でも。「米のとぎ汁のほうがええ」いうてやりょうた。→父・この方でもいっしょじゃ。
そうやって牛は可愛がりょうたんじゃ。

2002年10月14日


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(父の話)

牛小屋
茂平の百姓の家(ウチ)にはみな、牛小屋をもっとる。
漁師のウチには無かった。
うちにはまさっさん、かくさん、あきらさんと共同で飼うとった。
しまいにトラクターでやりだして要らんようになって売った。

談・2002年4月6日


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「長船町史・民族編」 長船町  平成7年発行

牛の飼育

牛の餌
牛の餌は通常一日三回で、特別に使役するときは四回与えることもあった。
人間の食事より前に、まず牛に餌を与えていた。
稲わらを飼い葉切りで三センチくらいの長さに刻み、水を含ませて軟らかくする。
それに米ぬか・粉糖などを振り掛けて与える。
米のとぎ汁や野菜の残り、おかずの残りなどシイダレを大鍋で煮立てたり、畔草や山草などの青草、冬には干し草などを与える。
夕方には少量の屑米・カワ麦・ハダカ麦などの煮たてたものとか、組合で購入した大豆粕を水に浸したものを加えてやり、
特に田ごしらえなど作業のきついときは、これら穀類を多くしていた。
入れ物は、
飼い葉桶とか、牛桶、ハンギリなどという直径一尺五寸(約45センチ)ほどの木桶で、内庭から与えていた。

牛の草
春から秋の草の多い季節は、朝食前に一荷、牛の草を刈ってくるのが日課であった。
自分の田畑の畔やゲシなどを刈り、必要なら川や池の土手などの草も刈る。
芋蔓や大根葉なども大切に利用していた。

手入れ
時々、カド先につなぎ、金ぐしでこすり、毛櫛で払ってやった。
夏の夕方には外で夕涼みをさせた。

調教
牛が一歳を過ぎると鼻グリを通し
それに三ひろの牛綱を付けて、牛の後ろから右手で操作した。
綱一本と掛け声で牛が指示通りに動く様に訓練した。
進め シッシッ 綱を打つ
止まれ ボウボ
右回り 綱を引く
左回り エッショ 綱で牛の右を打つ
後進 ジョル 綱を引く

取り引き
牛の売買は伯楽(ばくろう)を通して行う。
伯楽は取引先の家の様子を十分承知のうえで牛を動かせていた。
伯楽は、大山や高梁、新見、久世、津山などの牛市で仕入れ、追い子を使って帰ったり
、船で九幡や牛窓に運んでいた。

牛神
牛が死ぬとマヤ損といい、近所の人々が、お金を集めて差し出していたが。牛の供養はしない。
一般に万人講はしなかったようで、牛の死骸は、山や畑の適当な場所に埋めたり、処理業者に引き取ってもらった。
伝染病で死んだときは、村の焼場で焼いたという。


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農民の牛の持ち方は、一頭丸持ちもあるが、足一本持ちとかの「モヤイ牛」が少なくなった。
三軒モヤイであれば1/3金をかけ、三軒交替で飼育する。
「岡山県史・民族Ⅰ」 昭和58年 山陽新聞社出版より


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「金光町史」

牛は農家にとっては貴重な家畜である。
田畑の耕作や物の運搬に使うだけでなく、
牛屋の敷藁は大切な肥料であった。
また、育成することで収入を得、仔牛が生まれると、そのうえに臨時収入となる。
餌はほとんど自給飼料であるから、手間はかかるが労力さえ惜しまなければ、
直接・間接その収益は大きかった。
そこで、黒毛の和牛の牝牛が好まれた。
普通3年間に2~3回仔を取る。

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人糞以外の肥

2022年03月05日 | 農業(農作物・家畜)
農家には牛と、少数の鶏がいて、牛糞・鶏糞も飼う目的の一つになっていた。
風呂や台所から出る灰や炭。
牛すら食わない残飯や腐った食物、植物による堆肥。
風呂や台所からの排水、ドブ。ドブにはボウブラがわいていた。

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(父の話)



「はいだめ」は家の外にたいがいあった。
雨のあたらんところへ。
そこへ,灰ばぁ入りょうた。
もし火があっちゃぁ危ねぃけぃの。

あれはカリがおもじゃけいの、葡萄みたいなのに一番えかったんじゃ。
何ぃでもよかったけど、葡萄がいちばんカリがほしいけぇ。

談・2001年7月23日


牛の糞

牛小屋に藁をきざんで入れとく。
その上に糞としっこをする。
それを混ぜて。

それで堆肥になってくる。ちょっと水でも掛けてやる、そしたら早ぅ醗酵する。
何処にでも堆肥舎がある。そこへ入れとく。
適当に畑にもっていきょうた。
果物には何でも効く。

談・2001年7月23日


どぶの水

今はのうなってしもうた。
風呂の湯は、なんぼか人間の身体をこすったんで肥になりょうた。

昔はドブみたいな所がおいかった。
今は何処にもドブはありゃへん。
風呂の水やこをそこへ貯みょうたんじゃ。
風呂の水はつこうた後今は引いてしまうが、あれを溜みょうたんじゃ。
畑へ、かついで行って。あれも肥になるんじゃ。

談・2001年7月23日

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鶏の糞

取って、袋へ入れて。
畑へ撒く、それだけ。

談・2001年7月23日




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「日本流通史」 石井寛治 有斐閣 2003年発行

肥料

初めのうちは自分たちの糞尿であるとか、落ち葉、わら、ごみ、野草などを積み重ねて腐らせた堆肥などの自給的肥料が用いられていたが、
江戸時代になると関東九十九里浜の鰯や蝦夷地の鰊を加工した魚肥が肥料商人によって運ばれるようになり、農民はそれら購入肥料=金肥を広く使うようになった。

明治に入り日清戦争以降になると満州から輸入される大豆粕が用いられた。
第一次大戦以降過燐酸石灰や窒素化学肥料(硫安)などが使われるようになった。
全国の肥料商人は1926(昭和1)年には46.127人に達した。

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「最新日本の農業図鑑」 八木宏典 ナツメ社 2021年発行

窒素(N)
葉肥と呼ばれる。
リン酸(P)
花肥や実肥と呼ばれる。
カリ(K)
根肥という。

有機質肥料
魚粉、油粕、草木灰、家畜糞など。
遅効性のものが多い。
無機質肥料
化学肥料と呼ばれる。
三大要素のうち1種類の単肥、
複数の成分が含まれた複合肥料。
複合肥料には三大要素を配合した化学肥料と、
有機質・無機質を合わせた配合肥料がある。

「最新日本の農業図鑑」 八木宏典 ナツメ社 2021年発行


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「食の人類学」 佐藤洋一郎 中公新書 2016年発行

化学肥料
日本の水田稲作
ヘクタール当たり
1880年 1.8トン
1920年 2.5トン
今では 5.4トン

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元肥と追肥
元肥とは、あらかじめ土壌に肥料を混せておく
追肥は、植え付け後に肥料を与えること
お礼肥も含む。
「最新日本の農業図鑑」 八木宏典 ナツメ社 2021年発行

堆肥
落ち葉や家畜糞を積み重ね、微生物の力を借りて発酵させたものを指す。
肥料効果だけでなく土壌を改良する効果もある。
牛糞は土壌改良効果が高い、
鶏糞は肥料成分が豊富で、化学肥料の代替としても期待できる。

「最新日本の農業図鑑」 八木宏典 ナツメ社 2021年発行


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これは、↓
戦時中のこと。
肥も、労力も、農具もない時代の肥料集め。
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肥料確保

「岡山県教育史」 岡山県教育委員会 昭和49年発行
昭和19年10月5日付けで、県は堆肥確保のための草刈り動員の文書を出した。
児童がバケツを掲げて町に出て、馬糞を拾い集める風景もよく見られた。学校で肥料にした。


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「三原市史(民俗編)」

農家では、浜灰(塩田から買う)をカリ分として田畑に入れた。特に麦肥として下肥に溶かしてかけた。
蒲刈島で産した石灰も田畑に使った。
昔は浜灰と石灰が金肥の主なものだったという。

草刈り
芝草刈りは野良仕事の中でも最も力が注がれた仕事で、金肥が普及した後も、つい最近まで盛んに行われていた。
芝草は堆肥や厠肥にして田畑の元肥に使った。
山から刈ってきた芝草を押切で切って干し、藁を混ぜて積みあげ、一二ヶ月して切りかえした。ていねいな家では三回くらい切りかえし、じゅうぶん発酵させた。
よい肥を作るためには牛にふませた。それを厠肥という。
牛のいない家には小作をさせないとう地主もいたほどで、牛を飼えば田畑の土は豊かになる。
一頭の牛が作る堆肥で3~5,7反分をまかなえた。
それが昭和35年ごろから耕運機が入り、牛はだんだん姿を消し、土自体の力もしだいに落ちてきた。

刈る芝の量はその家の耕地面積とほぼ同じ広さが必要であったという。
芝山は大切にされた。
芝山を持たない農家では、村共有の入会地で刈ることができた。その山をノサン(野山)と呼び、山開きの日が決まって(4~5月)いて、その日はいっせいに山に入って競争で芝を刈った。
大きな葉が茂っているマキの木の山はよい芝がとれた。
草刈りは春から秋の彼岸まで行われた。
田植え前に行われるのを春草刈り、夏に刈るのを夏草刈りといった。
春草は田植え前5月23.24日頃に木の芽をつみ、生のまま田にすきこんだ。それはすぐに腐ってよい肥になった。
草刈りの最盛期はなんといっても夏である。7.8.9月は田の水の管理、草取り、い草。
肥草のない所は換金作物を作っているためもあった、自然金肥の導入が早くからおこってくるようである。


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岡山文庫「岡山の民族」日本文教出版 昭和56年発行 より転記

刈り敷き農業

化学肥料が出るのは第一次世界大戦後のことで、それまでは金肥(カネゴエ)と言えば、
イワシやニシンの干鰯(ほしか)、荒粕などの魚肥や、
菜種粕、大豆粕だった。
これらは江戸時代から大正中期にかけて用いられた。

人糞尿の利用は中世以降のことであり、
最も古くから行われてきたのは刈り敷きである。
山野から芝草や細い枝までも刈りとり、水田に敷くのであるが、大足(田下駄)で踏み込んだ。
畑へも入れた。

庶民が牛馬を2~3軒で一頭とか飼育するまでになって、厩肥を作れるようになった。
入会山や耕地の畔草を存分に刈り、冬分の厩入れは干し草にして保存しておいた。
昭和40年ごろまでのことといえよう。


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