しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

日本だけに猛威をふるった病

2022年03月01日 | 食べもの

城見小学校に行っていたころ、学校の先生が言っていた。
「糠を食べると脚気にならん」と。
わが家の糠は、すべて牛にやっていた。
いくら先生が言うことでも、牛のエサを食おうとは思わなかった。

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(新東宝映画「明治天皇と日露大戦争」)
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「知っておきたい和食の秘密」 渡辺望 勉誠出版  202年発行

かつてこの国に、「脚気(かっけ)」という恐ろしい病気があった。

全身に倦怠感が訪れ、やがて下半身が浮腫みはじめ、ついには感覚麻痺を引き起こし、最悪の場合心不全にいたって命を失う。
この脚気は肺結核と共に、若くて体力のある人にも容赦なくしかも不意に襲いかかる死病だった。

江戸時代、あまりに江戸内で、富裕層に多くみられる病だったため「江戸患い」とも呼ばれた。
ところが、地方や貧困層にいる人々には、この恐ろしい病は一向に縁がないのである。

江戸時代、漢方医が麦飯や雑穀を主食とする人たちに脚気がないことに気づき、麦飯治療法を主張した。
しかし蘭方医から「我が国の食文化を代表する米食が病気の原因であるはずがない」と激しく退けた。

しかし軍隊兵士に脚気が大流行し、これをなんとかしないと軍事力の停滞を招きかねないことになった。
森鴎外たち陸軍軍医グループと、高木兼寛たち海軍軍医グループの華々しい論争が始まった。

「麦飯問題=脚気論争」は解決を見ないまま、日清戦争と日露戦争に突入した。
その結果、麦飯と洋食を取り入れていていた海軍には脚気にによる死病者はほとんどゼロであった。
もし、敗戦という事態であったなら、その主原因の一つの森鴎外たち軍医グループも追及されていたに違いない。


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日本食物史・吉川弘文館

「食べる」行為は、動物的、醜い行為ととらえられ、羞恥心からも食べる行為を見せたくない、話題にしないという考えが生じる。
いっぽうで一定の階層、儀式などに共通した食事作法が生まれた。

脚気
明治12年、5.000人の4割が脚気にかかり、57人が死亡した。
海軍軍医はパン食と野菜を多くした、死者は7人に減った。(陸軍軍医・森林太郎は細菌説だった)


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脚気

明治期に入ると国民病といわれるほど患者数が増加した。
とりわけ、
産業化につれて都市に集中するようになった貧困層に羅患者が多くみられ、その病因は副食が乏しい白米中心の食生活にあった。
症状が急転し、死に至ることも稀でなかった。
伝染病ととらえ怖れる人も少なくなかった。

1878年、患者は陸軍の1/3にのぼり、軍部内の深刻な問題になった。
陸軍に米麦混食が普及し、その結果、脚気の発生は低下傾向に向かった。

1910年鈴木梅太郎が玄米にオリザニン(ビタミンB1)があろことを発見、第一次大戦後、
恐ろしい伝染病とされていた脚気は、栄養に配慮することによって克服できる病気へと変わった。


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「日本食物史」  江原・石川・東四共著 吉川弘文館  2009年発行

白米志向と脚気論争

栄養学に関する知識は、明治から大正時代にかけて急速に発展することになる。
アジアのように米を主食とする国に多発したのは脚気である。
古くは平安時代に脚気の文字がある。
米が精白されるとビタミンB1が取り去られる。
おかずにB1の豊富なものをとっていれば避けられるが、おかずの占める比率は低かった。
日本でビタミンB1の合成に成功し発売されたのは昭和13年のことであった。

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(Wikipedia 森鴎外)

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「満州事変から日中全面戦争へ」 伊香俊哉著 吉川弘文館 2007年発行

戦争栄養失調症

1938年春の徐州会戦に参加した兵士の中から、下痢症状が長くつづいたあげくに死亡するというケースが多発した。
軍医らが死亡原因の特定に努めた。
見解は、アメーバ赤痢が原因とするものと、実質的な餓死であるとするものに分れた。
「戦争栄養失調症」という病名に落ち着いた。
中国戦線においてもかなりの餓死者が出ていたのである。

O軍医は「当時私たちが栄養失調と呼んだ病気のなかのあるものは重症脚気であり、又あるものは全身の機能の衰えであった。
激しい労働と、偏った食糧、その絶対量の不足によったのは言うまでもない」

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「日本の歴史 15巻」 大門正克著 小学館 2009年発行 
戦病死とはなんなのか。
戦病死とは食糧不足による栄養失調とマラリア、脚気などの病気、行軍による心身消耗が重なって餓死することである。
日本の軍人・軍属の戦没者230万人のうち約6割が餓死だったとする研究を明らかにした。


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「日本医療史」 新村拓著 吉川弘文館 2006年発行

戦時体制下の医療


「世界に冠絶する大和民族天賦の優良素質を今日ここまで低下せしめたるは衛生軽視の政治、行政機構に存するのである」として、
中央行政機関の整備を強調した。

1937年首相に就任した近衛文麿は、新しい省の腹案を提示した。1938年、厚生省が誕生した。
明治以来の内務省衛生局は新省の衛生・予防のほかに体力局によって担われることになった。
戦時体制下の健康問題
未熟練工が長時間労働に従事したため、機械による外傷や指の怪我などが増え、結核や脚気の羅患者も増大した。


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笠岡湾のフグ

2022年03月01日 | 食べもの

家から海まで200mの近距離だったが、釣りを海ですることはほとんどなかった。
釣りと言えば、溜池や堀でフナを釣っていた。
エサはすぐにミミズを捕れるし、堀はどこにでもあるし、フナは釣った時の引きも心地よかった。

海では、波止や岸から投げて釣った記憶は一度もない。
船で釣りに出た。
エサは干潮時に捕っておく。
茂平湾で釣れるのはフグだった。
フグは小さいが腹が膨んでいるので、釣った気分になっていた。

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小さなフグは商品にならなかったのか、近所の猟師からザルでもらうことがよくあった。
その時は決まって母は、味噌汁のダシに使い、そのまま汁の具として料理していた。
フグの味噌汁は汁の味が良かった。旨かった。

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ある時を境に、母のフグ汁作りは、時間が倍かかるようになった。
茂平で、フグを食って近所のおじいさんが死んだ。
それ以降、母はに煮えくりかえる時間をかけてフグ汁を作るようになった。

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笠岡湾のフグ



(母の話)
談・2001年10月7日

干してダシにしょうた。

(漁師は)ようけい獲れた時はみんな方に配りょうた。
ぎょうさん貰ぉて、頭とドフをとって干しときゃあ、ええダシになる。
あわぁなええダシはなかった。

いちばんエエダシになりょうた。
生でもおいしい。

(天日で干しとけば)日和ならじきにひる。

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(父の話)

どふを食べょうたら中毒になって死ぬる。ドフが一番うめいゆうてようた。

”まるしん”方にゃドフをたびょうた。もうたべんど、もうたべんど、と何回も同じ事をしょうたらしい。
生煮えを食うてとうとうアレで逝った。

今は衛生面がうるさいし、調理師の免状があるひとでないと料理せん。
それから腹を取って売りょうる。
うまいとこはみな、すちょうる。


談・2001年10月7日


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味噌を作る

2022年03月01日 | 農業(農作物・家畜)


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味噌をつくる

「金光町史」

味噌
味噌作りは主に冬の仕事であった。
庭があがったら(米の収穫が終わると)すぐに味噌を作った。
米味噌には、小米を使うことが多かった。
まず米か裸麦を蒸し、麹の素を混ぜ紙袋に入れた。
藁で編んだおひつに入れてコタツに入れたり、風呂の湯を沸かし、蓋の上に置いて温度を上げ、麹を作った。
麹は味噌の花とも呼ばれた。
カビがここまでという時に塩を混ぜ、カビがこれ以上生えるのを止めた。
次に味噌用の五升も入る平釜で大豆を炊き、麹と豆と塩を混ぜて搗いた。
麹と豆と塩は同じ量だけ三つの山にして混ぜた。
一斗も入る味噌瓶に二つも三つも作った。
大きなしゃもじでしっかり詰め込み、風が当たらないように新聞紙で覆い蓋をした。
三年味噌といって三年経ったものから食べていったが、三か月から半年ぐらい経つと食べる家もあった。


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麹つくり

(母の話)

ムシロにひいて外の温度にあわして作る。彼岸の時分。
寒い思えばふとんを掛けたり。熱い思えばムシロをはぐったり。
ほれじゃけいムシロがいっぱいありょうた。食べ物じゃけい汚げな筵は使えん。さらのを積み上ぎょうた。難儀じゃった。

みそや醤油をつくりょうた。
彼岸の時分併せていっぺんにつくりょうた。うり、なす。味噌ずけに。

大豆を一晩かしていてヒテイ中炊く。
唐臼で搗いたり、餅をつく臼でついたりしょうた。

麹と塩と大豆と混ぜて寝かしょうた。

近までしょうた。
どこかの家から炊く臭いがしてくると、ああウチでも炊かにゃぁいけんなぁ思ようた。

隣りの鶴お婆さんは「味噌を炊いたけぃ。」言ぅて、味噌豆を持ってきてくりょうた。どんぶり一杯ごちそうじゃけぃ、持ってきてくりょうた。
ウチにも炊いた時にゃ持って行きょうた。
塩と大豆で食べょうた。


2002年1月2日




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「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

味噌

味噌の原料は、米の麹、大麦の麹、裸麦の麹で、
大豆と塩を用いる。
麹は納屋の土間に青草を敷いて、そのうえに蓆(むしろ)を敷き、
蓆に大豆、膚麦、麹のモトをまぜて、ねさせる。
麹を作るのに技術がいる。
笠岡市吉田では秋の彼岸に搗く。
南部地方では味噌は六十日味噌といって、60日すると食べ始め、翌年また新しい味噌を作って食べる。
吉備高原地方では三年味噌といって3年経過した味噌を重宝がる。


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「鴨方町史」
味噌

かつて味噌は味付けすることが多く、またおかずでもあったので、
重要な調味料であり、保存食であった。
原料は、大豆と裸麦の麹・塩である。

筵(むしろ)を二枚敷く。
そこに蒸した裸麦を移し広げる。
タネといって麹菌を加えてまぜる。
上に筵をかけてねかせる。
大豆を風呂または釜で煮て、からうすでついてつぶす。
これに裸麦の麹をまぜる。
両手でもみほぐしながら混ぜ、味噌樽に仕込む。

1年に1回、春秋の彼岸ごろにつく家が多い。
60日味噌といって、味噌の仕込みをして60日たつと食べられるというが、
1年経って食べる。
味噌つきをして3年経過したものを3年味噌といい、3年味噌はおいしいという。

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