しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

進駐軍のパイナップル 

2022年03月25日 | 食べもの




進駐軍のパイナップル

これは敗戦当時、福山市入船町で国民学校の生徒であった義兄(姉の夫)の話。

福山に進駐軍が来た時、そこからカンズメのパイナップルをもらった。それを食べた。食べたら、こんなに世の中においしいものがあるとは知らなんだ。

ものすごく美味しかった。

それからパイナップルが好きになった。

チョコレートも貰って食べた事がある。アメリカ産のを。甘いのを。

マッカーサー様のおかげでその後も今の日本を築いてくれた。


ナマのパイナップルも好きだが今でもカンズメのパイナップルの方が好きでよく買う。


2002・1・3

 

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第二次大戦の敗戦国のドイツやイタリアでは、国民も兵も飢餓になることはなかった。

日本だけが飢餓になった。

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ララ物資  

敗戦直後の日本人にとって、アメリカはまず第一にジープであり、
第二にコーラであり、そして第三にララ物資であった。
ララ物資、つまり公認のアジア救済団体の名で毎年海を渡ってきた食糧や衣類は、約千五百万人の日本人の生活をうるおした。
栄養失調に直面する人びとにとって、ララ物資は力強い支えだった。
衣料八百万着分、靴二十六万足、鉛筆十四万本、という資料もある。

この一大救援運動の発案者は誰だったのか。
上坂冬子さんが『中央公論』十二月号に「焼け跡の日本を救ったララ物資の生みの親」と題する一文を寄せている。
生みの親はサンフランシスコに住む日系人たちだった。
米国内の強制収容所を出たばかりの日系人たちが豊かなはずはなかった。
「飢餓線上をさまよう者の数が知れない」という情報をえて、物資を集め、その熱意が米人側を動かしたらしい。

いま、飽食の時代にあって、人は焼け跡のころに助けられたことを忘れがちだ。
当時、とぼしい日当のなかからカネを寄せた多くの在米日系人がいたこと、たくさんのアメリカの団体や中南米の人びとが力を合わせてくれたこと、
そういうことの数々を、ララ物資の名と共に忘れてはならぬ。

「天声人語」 辰濃和男  1986(昭和61)年 11・24

 

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イチジクを作る 

2022年03月25日 | 農業(農作物・家畜)

茂平に平成の頃より、「イチジクの里・茂平」の絵看板が国道沿いに掲げられた。
土壌が適しているのと、明治以来の研究熱心な伝統栽培で、味覚への近隣地域の人気・評価は高い。

 

 


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(父の話)
イチジク


これの寿命は長い。えださえ切ってやっとればいつまでも大丈夫だ。
茂平のイチジクは色も違う、味も違う。

新涯が主でちょっとだけ塩分を含んだ土地なんで、糖度がよそのより良い。
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2000・5・14

栽培方法?何も今と変わっていない。
予防の薬が良うなった。
薬がかわっただけじゃ。
2000・9・10

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いちじくはなんもせんでええ。ほっぽりなげじゃ。
冬の選定、(ありすぎる)葉っぱを落とす。予防する(桃などにくらべ回数がすくない)。あとはほっとく。
楽でゼニになる。
2001・2・11

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イチジクの栽培

冬に剪定をして。
肥をして。
肥は昔神戸から人糞をもってきょうた。あれはえかったのう。
冬はよう「くそ船」がきょうた。
新涯の畑の肥壺へはねうつしょうた。その中へ潮水をちょぼっと入りょうた。潮水を入れるとカリがあってええ。
エエ肥になるんじゃ。

春は畑の草取り。
夏に予防して。
芽を間引いて。「めこぎ」。
(実が)成るようになったら水をやる。

秋に出荷。
金になる、相場がええ。

談・2002年6月23日

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(トウガキにはナイフで木を切っていたのを覚えているが ?)

ありゃあ、しょうたが薬をしだしたら来んようになった。
昔は虫のうんこやこで木が枯りょうた。
虫が来んようになればやめる。

談・2000・6・17


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「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

イチジク
笠岡市茂平は産地で干イチジクにして出荷している。

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