進駐軍のパイナップル
これは敗戦当時、福山市入船町で国民学校の生徒であった義兄(姉の夫)の話。
福山に進駐軍が来た時、そこからカンズメのパイナップルをもらった。それを食べた。食べたら、こんなに世の中においしいものがあるとは知らなんだ。
ものすごく美味しかった。
それからパイナップルが好きになった。
チョコレートも貰って食べた事がある。アメリカ産のを。甘いのを。
マッカーサー様のおかげでその後も今の日本を築いてくれた。
ナマのパイナップルも好きだが今でもカンズメのパイナップルの方が好きでよく買う。
2002・1・3
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第二次大戦の敗戦国のドイツやイタリアでは、国民も兵も飢餓になることはなかった。
日本だけが飢餓になった。
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ララ物資
敗戦直後の日本人にとって、アメリカはまず第一にジープであり、
第二にコーラであり、そして第三にララ物資であった。
ララ物資、つまり公認のアジア救済団体の名で毎年海を渡ってきた食糧や衣類は、約千五百万人の日本人の生活をうるおした。
栄養失調に直面する人びとにとって、ララ物資は力強い支えだった。
衣料八百万着分、靴二十六万足、鉛筆十四万本、という資料もある。
この一大救援運動の発案者は誰だったのか。
上坂冬子さんが『中央公論』十二月号に「焼け跡の日本を救ったララ物資の生みの親」と題する一文を寄せている。
生みの親はサンフランシスコに住む日系人たちだった。
米国内の強制収容所を出たばかりの日系人たちが豊かなはずはなかった。
「飢餓線上をさまよう者の数が知れない」という情報をえて、物資を集め、その熱意が米人側を動かしたらしい。
いま、飽食の時代にあって、人は焼け跡のころに助けられたことを忘れがちだ。
当時、とぼしい日当のなかからカネを寄せた多くの在米日系人がいたこと、たくさんのアメリカの団体や中南米の人びとが力を合わせてくれたこと、
そういうことの数々を、ララ物資の名と共に忘れてはならぬ。
「天声人語」 辰濃和男 1986(昭和61)年 11・24
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