笠岡市役所の敷地内に長く「芋博物館」があった。
その当時、日本で唯一か世界で一つの「イモ博物館」と呼ばれていた。
江戸時代は飢饉時の主食になり、
戦中戦後の配給時代は、町の人の主食となった。
管理人にとっては、いちばんよく食べたオヤツとなった。
・・・
・・・
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫 昭和52年発行
薩摩芋
サツマイモ、イモ、琉球芋、カライモなどと呼んでいる。
笠岡代官所の井戸平左衛門は薩摩から薩摩芋を取り寄せて普及に努めた。
笠岡市には芋博物館があった。
・・・・・・
サツマイモ(薩摩芋・甘藷)
原産地・メキシコ、ガテマラ
アメリカからヨーロッパに渡り、
日本には中国から宮古島に渡ったのが始まり。
九州南部で栽培され「薩摩の芋」として全国に定着した。
「野菜まるごと辞典」 成美堂出版 2012年発行
・・・・・
サツマ芋
サツマ芋・イモ・琉球芋・カラ芋・唐人芋などと呼んでいる。
笠岡代官所の井戸平左衛門は薩摩からサツマ芋を取り寄せて普及し、その遺徳は芋代官と呼ばれた。
荒地、開墾地もけっこう育ち、豊凶が少なく、税の対象にもならなかった。
熱帯作物で腐りやすいので、いも壷を床下に大きな竪穴を掘り小麦藁を立て,底にはスクモを敷きサツマ芋を並べ、そのまた上にスクモを入れていた。
こうして年中食べる分を入れておいた。
「岡山県史・民族Ⅰ」 昭和58年 山陽新聞社出版
・・・・・
(父の話)
芋つぼ
家の床の下に「芋つぼ」を大きく掘り、甘藷を収穫したらそこに貯蔵していた。
昔は何処の家とも芋つぼをもっとった。
ウチにも前の家にゃ、玄関はいってすぐのとこ。
コノ家にゃ、ココにある。
してない家がなかった。
2001年10月7日
芋が腐らんけい。もつんじゃ。(長持ちをする)
外へころがしとくと、じきに腐るんじゃ。
ほれで春になりゃあ売りょうたんじゃ。
自分方だけじゃったらあわんな大きな穴を掘らんでええ。
みんなよけい(たくさん)植えんようになってのう、あほらしぃ。
今頃は自家用だけに、ちいちっとなったのう。余ったのを売るくれいじゃ。
春になったら市場へだしょうた。
2002年3月31日
・・・・・
(終戦後の)買い出し
茂平にも買出しに来ていた。
物物交換でもってくるのは衣類がほとんどであった。
こっちは、米麦、芋、なんば、なんきんなどを渡していた。
米はこっちの分も無いので渡す事は無かった。
芋が主であった。
2000年08月20日
・・
唐臼(からうす)
何処の家にもあった。ぜっぴあった。
あれで米を搗きょうた。
雨が降りさえすりゃあ米搗きをやりょうた。
芋を干して粉にして。芋団子もおいしかった。終戦後だいぶしょうた。食べもんがなかった。
(母の話)
いっとき戦時中に芋きりをこしらようた。
そりょを粉にして団子にする時に。そりょを唐臼で搗きょうた。
2001年10月7日
・・・・・
・・・・
戦時中は「決戦食」
・・
決戦下「野草も食糧に」
国内の食糧事情は窮迫していた。
主食の米はまず軍需食糧として確保される。
台所では米に変わり、サツマイモ、ジャガイモ、雑穀が主食に昇格する。
「ふるさとの戦争」 青木 暢之 中国新聞 1995年発行
・・
戦時中の食生活
日中戦争が始まり、食べものが不足し、配給制度ができた。
金光町のほとんどが農家であったので、十分とはいえないが食べるぐらいのものはり、保有米を残して、あとはすべて供出した。
サツマイモ、ジャガイモ、南瓜も主食代わりになった。
農家では自家栽培ができたので有利であった。
サツマイモはたくさんゆでておき、ご飯代わりに食べた。
「金光町史」
・・・・・・
その当時、日本で唯一か世界で一つの「イモ博物館」と呼ばれていた。
江戸時代は飢饉時の主食になり、
戦中戦後の配給時代は、町の人の主食となった。
管理人にとっては、いちばんよく食べたオヤツとなった。
・・・
・・・
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫 昭和52年発行
薩摩芋
サツマイモ、イモ、琉球芋、カライモなどと呼んでいる。
笠岡代官所の井戸平左衛門は薩摩から薩摩芋を取り寄せて普及に努めた。
笠岡市には芋博物館があった。
・・・・・・
サツマイモ(薩摩芋・甘藷)
原産地・メキシコ、ガテマラ
アメリカからヨーロッパに渡り、
日本には中国から宮古島に渡ったのが始まり。
九州南部で栽培され「薩摩の芋」として全国に定着した。
「野菜まるごと辞典」 成美堂出版 2012年発行
・・・・・
サツマ芋
サツマ芋・イモ・琉球芋・カラ芋・唐人芋などと呼んでいる。
笠岡代官所の井戸平左衛門は薩摩からサツマ芋を取り寄せて普及し、その遺徳は芋代官と呼ばれた。
荒地、開墾地もけっこう育ち、豊凶が少なく、税の対象にもならなかった。
熱帯作物で腐りやすいので、いも壷を床下に大きな竪穴を掘り小麦藁を立て,底にはスクモを敷きサツマ芋を並べ、そのまた上にスクモを入れていた。
こうして年中食べる分を入れておいた。
「岡山県史・民族Ⅰ」 昭和58年 山陽新聞社出版
・・・・・
(父の話)
芋つぼ
家の床の下に「芋つぼ」を大きく掘り、甘藷を収穫したらそこに貯蔵していた。
昔は何処の家とも芋つぼをもっとった。
ウチにも前の家にゃ、玄関はいってすぐのとこ。
コノ家にゃ、ココにある。
してない家がなかった。
2001年10月7日
芋が腐らんけい。もつんじゃ。(長持ちをする)
外へころがしとくと、じきに腐るんじゃ。
ほれで春になりゃあ売りょうたんじゃ。
自分方だけじゃったらあわんな大きな穴を掘らんでええ。
みんなよけい(たくさん)植えんようになってのう、あほらしぃ。
今頃は自家用だけに、ちいちっとなったのう。余ったのを売るくれいじゃ。
春になったら市場へだしょうた。
2002年3月31日
・・・・・
(終戦後の)買い出し
茂平にも買出しに来ていた。
物物交換でもってくるのは衣類がほとんどであった。
こっちは、米麦、芋、なんば、なんきんなどを渡していた。
米はこっちの分も無いので渡す事は無かった。
芋が主であった。
2000年08月20日
・・
唐臼(からうす)
何処の家にもあった。ぜっぴあった。
あれで米を搗きょうた。
雨が降りさえすりゃあ米搗きをやりょうた。
芋を干して粉にして。芋団子もおいしかった。終戦後だいぶしょうた。食べもんがなかった。
(母の話)
いっとき戦時中に芋きりをこしらようた。
そりょを粉にして団子にする時に。そりょを唐臼で搗きょうた。
2001年10月7日
・・・・・
・・・・
戦時中は「決戦食」
・・
決戦下「野草も食糧に」
国内の食糧事情は窮迫していた。
主食の米はまず軍需食糧として確保される。
台所では米に変わり、サツマイモ、ジャガイモ、雑穀が主食に昇格する。
「ふるさとの戦争」 青木 暢之 中国新聞 1995年発行
・・
戦時中の食生活
日中戦争が始まり、食べものが不足し、配給制度ができた。
金光町のほとんどが農家であったので、十分とはいえないが食べるぐらいのものはり、保有米を残して、あとはすべて供出した。
サツマイモ、ジャガイモ、南瓜も主食代わりになった。
農家では自家栽培ができたので有利であった。
サツマイモはたくさんゆでておき、ご飯代わりに食べた。
「金光町史」
・・・・・・