しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

昭和南海地震(昭和21年)のこと

2021年03月18日 | 昭和21年~25年
3月11日、「東日本大震災」10年に関して


テレビや新聞で東日本震災が大きく報道された。


(2021.3.11 朝日新聞)


(2021.3.12 朝日新聞)




山陽新聞では、災害の記録記事も載った。↓


2021年3月12日 山陽新聞


昭和南海地震

Nさん(84)は9歳の時の災禍を今も鮮明に思い出す。
終戦直後の1946年12月、夜明け前に襲った昭和南海地震。
マグニチュード8.0の大地震は、干拓地の旧三蟠村(現岡山市中区)を容赦なく揺らした。
屋外に逃れたが、立っていられず畑の木にしがみついていると、100m先の民家がごう音とともに崩れた。
その場で泣き叫ぶ女性の姿が忘れられない。
徐々に明るくなると。村の家々は軒並み傾き、旭川の堤防には幅1mもの裂け目ができていた。



三蟠から笠岡まで直線距離で約45kmほどある。

ところが、この地震について茂平の村人から一度も地震についての話を聞いたことがない。
その頃(昭和21年12月)家には父・母・祖父・祖母が住んでいた。
災害や被災のことが(近所の人の話を含めて)出ることは何度もあったが、
昭和21年の地震については全くでなかった。

父は、大正時代の「関東大震災」で茂平が揺れ石碑が倒れた記憶が強かったようだ。
その時、笠岡ふきんは震度2程度の揺れだった。
昭和21年の震度は三蟠が震度8なら笠岡は震度5位揺れても不思議でない。


義母に聞くことにした。
義母は、当時16才。
義母は、岡山県井原市芳井町に住んでいた。

義母談・2021.3.14
「(地震や揺れは)まったく覚えていない
(近所も併せて家や田畑や山や川の被害はなかった)

とのことであった。予想通りだった。
岡山市が震度8で笠岡市や井原市が、ほとんど揺れた記憶や記録がないのも不思議な話だ。


もう少し調べてみよう。


コメント (1)
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お里沢市

2021年03月18日 | 銅像の人
場所・奈良県高市郡高取町  壷坂寺


奈良県高取町は、たいへん印象深い街となった。
訪問した目的は日本三大山城である”高取城”への登城だった。

近鉄高取駅でおりて、街を抜けて登山口までの道は「土佐街道」と呼ばれる古い町並みで趣があった。
山頂の城跡は壮大な石垣が残っていた。
下山は周回コースでおりていたら大伽藍にであった。
それが「壷坂寺」だった。

城跡見物に行ったら、街並みと、名刹と同時に三つが楽しめた。






壷坂寺の事は歌で知っていた。ほんの少しだけ。
三波春夫が浪曲入りで歌っていた。


妻は夫をいたわりつ
夫は妻を慕いつつ
頃は六月中の頃
夏といえど片田舎
木立の森もいと涼し









(Wikipedia)
壺坂霊験記
つぼさかれいげんき
『壺坂霊験記』は、明治時代に作られた浄瑠璃の演目。
盲人とその妻の夫婦愛を描いた世話物、一段。
歌舞伎や講談、浪曲の演目にもなり、人気を集めた。


盲目の沢市は、妻のお里が明け方になると出掛けていくのに気付き、男ができたのではと疑い妻を問い詰める。
お里はこの三年間、沢市の目が治るようにと壷阪寺の観音様に願掛けに行っていたと打ち明ける。
邪推を恥じた沢市は、お里とともに観音詣りを始めるが、目の見えない自分がいては将来お里の足手まといになると考え、満願の日にお里に隠れて滝壺に身を投げる。
夫の死を知り悲しんだお里も、夫のあとを追って身を投げてしまう。
二人の夫婦愛を聞き届けた観音の霊験により奇跡が起こり、二人は助かり、沢市の目も再び見えるようになる。






撮影日・2012年10月29日



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瓜生岩子

2021年03月18日 | 銅像の人
場所・東京都台東区浅草  浅草寺


瓜生岩子は福島県喜多方市の生まれ、明治時代に孤児や貧民の救済事業に半生を捧げた。





会津のナイチンゲール瓜生岩子
「歴史と旅」 昭和55年2月号 秋田書店 秋月しのぶ作

ナイチンゲールその人が、クリミア戦争の傷病兵の看病に挺身していた頃、
岩子は会津の城下町で呉服商を営む幸福な若妻だった。

慶応4年正月、鳥羽伏見の戦い。
8月に新政府は会津攻撃にとりかかった。
戦場と化した市中では、弾丸の中泣きながら逃げる子、
瀕死の重傷を負い血だらけで倒れている傷兵を目にした時、岩子は内部から吹き上げてくるヒューマティックな気持ちにつき動かされるように、
生き残った婦女子を励まして、負傷者の看護をするのだった。
戦争は、子供たちの両親を奪い、今また飢餓が、武士の子の矜持や、知性さえ奪おうとしている。
岩子は一人一人を抱きしめた。


岩子は東京に出て、貧に苦しむ人々を救う経営の勉強をしたいと思った。
半年後の明治20年、岩子は12人の弟子たちを連れて県庁のある福島に住んだ。
翌年7月、磐梯山が大噴火した。
救護にかけつけた。
産婆看護婦の養成所を開いた。息子の清作を連れた野口英世の母もいた。

明治24年、岩子の活躍が上聞に達し、宮中にお召しがあった。
着物一枚買う金があれば、7人の子供が養えるという岩子は、着たまま雀の木綿の普段着一枚しかないので、その普段着のまま参内する。
明治30年、心臓病で倒れた。
貧しい人たちの友、
孤児の母として、
その後半生を捧げ尽し、力の限り生き抜いた岩子は眠るがごとく永眠した。
享年69才。










撮影日・2011年9月7日


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中将姫像

2021年03月18日 | 銅像の人
場所・奈良県葛城市 當麻寺(たいまでら)


謡曲、浄瑠璃、歌舞伎
そして、講談社の絵本でも知られる「中将姫」。

継母(ままはは)に、虐められたり、さんざん悪さをされた悲しくて美しいお姫さま。
曼荼羅を描き、生きたまま浄土に去って行った。







(Wikipedia)

中将姫説話
今は昔、藤原鎌足の曽孫である藤原豊成には美しい姫があった。
後に中将姫と呼ばれるようになる、この美しく聡明な姫は、幼い時に実の母を亡くし、意地悪な継母に育てられた。
中将姫はこの継母から執拗ないじめを受け、ついには無実の罪で殺されかける。
ところが、姫の殺害を命じられていた藤原豊成家の従者は、極楽往生を願い一心に読経する姫の姿を見て、どうしても刀を振り下ろすことができず、姫を「ひばり山」というところに置き去りにしてきた。
その後、改心した父・豊成と再会した中将姫はいったんは都に戻るものの、
やがて當麻寺で出家し、ひたすら極楽往生を願うのであった。
姫が五色の蓮糸を用い、一夜にして織り上げたのが、名高い「当麻曼荼羅」である。
姫が蓮の茎から取った糸を井戸に浸すと、たちまち五色に染め上がった。
當麻寺の近くの石光寺に残る「染の井」がその井戸である。
姫が29歳の時、生身の阿弥陀仏と二十五菩薩が現れ、姫は西方極楽浄土へと旅立ったのであった。










撮影日・2012年10月30日  




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夢千代

2021年03月17日 | 銅像の人
兵庫県美方郡新温泉町浜坂 (湯村温泉)



小学生の時、夕方決まったようにラジを付けて聴くラジオドラマがあった。
それがラジオ東京(TBS)の人気番組「赤胴鈴之助」。

この子供向けのラジオ番組の出演者(声優)から二人の有名人が生まれた。
山東昭子(語りて)は現・参議院議長に、
吉永小百合(さゆり役)は大女優になった。


大女優の吉永小百合は主に映画であって、テレビ出演は只一つの連続ドラマを除いて印象が薄い。
それが「夢千代日記」。

今から40年ほど前のテレビドラマ。
すでに吉永小百合は国民的人気の大物女優になっていた。


(顔は小百合ちゃんソックリの銅像。おやや、夢千代像でなく平和の像になっている)





薄幸な役だったが、小百合主演とあって但馬の山あいの温泉地は、一挙に有名温泉に押し上げられた。





湯村温泉は
湯けむり、川おと、山なみの風情がある温泉地。


湯村温泉公式観光サイト
湯けむり荒湯 ~夢千代の里~

山陰の名湯「湯村温泉」

場所
岸田川の支流、春来川のほとりに湧く日本屈指の高熱温泉である「湯村温泉」。

嘉祥元年(848)と言われる、今からおよそ1150年前に慈覚大師によって発見されたと伝えられている古湯であり、元湯は「荒湯」と呼ばれ98度の高温泉が毎分470リットルも湧出しています。 「荒湯」で温泉たまごを茹でる観光客の姿は、湯村温泉独特の風景をつくり出しています。
深いボーリングを必要とせず数メートルの深度で湧出しており、需要量に比べて湧出量の豊富な温泉のため、旅館だけでなく各家庭にも配湯され、湯村の生活に欠かせないものです。

嘉承元年、湯村温泉の開発指導を行った慈覚大師は、天台宗第3世の座主。山陰地方を通りこの地に立ち寄ったとされています。









撮影日・2009年7月4日



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奴奈川姫

2021年03月17日 | 銅像の人
場所・新潟県糸魚川市  JR糸魚川駅前


新潟県のJR糸魚川駅は、北陸新幹線が通る大きな駅。
その糸魚川駅は、駅前大通りを500mほど行けば日本海に突き当たる。
その間に同じような銅像が二つ建っている。
それが”奴奈川姫(ぬなかわひめ”の像。



(糸魚川駅前)



奴奈川姫とは?
(糸魚川市の公式ウェブサイト)

「奴奈川姫(ぬなかわひめ)」は『古事記』や『出雲風土記』などの古代文献に登場する
高志国(現在の福井県から新潟県)の姫であると言われています。
『古事記』では出雲国の大国主命が沼河比売(= ぬなかわひめ?)に求婚に来た、とあり、
また、『出雲風土記』では天の下造らしし大神(大国主命)が奴奈宜波比売(=ぬなかわひめ?)の命と結婚して御穂須々美(みほすすみ)命を生み、
この神が美保に鎮座していると記されています。

あくまでも伝説ですが、それでも奴奈川姫を祭る神社が糸魚川・西頚城地方に多く、
また、考古学的資料にも恵まれていること、
さらには『万葉集』の記述にある「沼名河の底なる玉…」との関係をみても、
奴奈川姫は神秘的であり、姫にまつわる伝説がこの地方に多いのも興味深いものです。





(日本海側)


神話時代の姫で、市の説明を読んでも理解しにくい。
西日本ではまったく聞くことのない名前だが、日本海側では縁のある方のようだ。


糸魚川の街は、この奴奈川姫と、ヒスイで市のPRをしている。
町中のカンバンや絵に多く登場していた。


訪問日・2020年1月29日


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人見絹江

2021年03月16日 | 銅像の人
場所・岡山県岡山市北区いづみ町 カンコースタジアム(現シティライトスタジアム)前


戦前の岡山県では、男性の”嫁どり”の相手が、”一女”(いちじょ)卒業であれば
それは男性にとっても、家にとっても「うちの嫁は一女を出とる」と自慢のタネだった。
女性初の五輪メダルを獲得した人見絹江選手は、その岡山県立岡山高等女学校(当時は二女がなく岡女と呼ばれた)の出身者。

岡女時代はテニスの選手で、笠岡にも来て笠岡高等女学校と試合をしている。
女学校を大正13年に卒業。
京都の女学校の先生をしたり、大阪毎日新聞社に勤務した。

昭和3年(1928)第9回アムステルダムオリンピックに出場、800m走で銀メダル。
昭和6年(1931)喀血し入院、肺炎のため逝去。24才。


アムステルダムオリンピック
100mまさかの準決勝敗退

準決勝で4位。
「もう目の前は真っ暗になって奈落の底に落ちたような気持であった」
夕食も食べずベッドで泣けるだけ泣いた。
しかし「100mに負けましたといって日本の地は踏めない」
悩みに悩んだ末、次の日の夜、本格的レースとしては初めてという800m走への出場を懇願した。
「死の覚悟」をもって出場。
2位でゴール。
ゴール後多数倒れ、女子には過酷すぎるとしてローマ大会まで行われなくなった。
陸上選手らと共にベルリン、シベリア鉄道経由で、日本に凱旋した。

「伝説の人 人見絹江の世界」 猪木正実著 岡山文庫・文教出版社 平成30年発行








人見絹江選手の短い生涯は選手努力と名誉の他に、差別との闘いの人生だったように思う。


まず、女性が高等女学校に進学自体が稀(大正9年)。
卒業して他都市・他県に行くのが稀。
運動のため脚を露出するのが稀。
嫁に行かないのが稀。
さらに高身長やジェンダーなど。
現在ではまったく言われのなことと一人闘った。









時代の先端を走る人見には、何かと社会の偏見が付いて回った。

まず子供時代。
「女に学問は要らない」「女は家庭で子育て」といった男尊女卑の時代で、
女の子の場合、小学校さえ卒業すれば、後は裁縫などの嫁入り支度。

岡女進学後。
テニスを始めると、「ラケットとかいうものを女の子が振り回して・・」と。
女性が走り回ってスポーツをするなど考えられなかった時代だ。

「伝説の人 人見絹江の世界」 猪木正実著 岡山文庫・文教出版社 平成30年発行






撮影日・2018年11月11日



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有森裕子

2021年03月16日 | 銅像の人
場所・岡山県岡山市北区いづみ町 カンコースタジアム(現シティライトスタジアム)前



有森裕子選手は二度見た。
最初は瀬戸大橋の橋の上。
瀬戸大橋開通20周年記念行事の時で、参加者にもみくちゃにされていた。次々に握手や抱擁をされて前進できないほどだったが、
本人は笑顔で対応していた。
二度目は笠岡ベイファームマラソンで、先にゴールした有森は走る選手に声援を送っていた。

選手を引退後も、スポーツや社会活動で岡山県や日本を代表する活動家として頑張っている。








人見絹江と同郷のメダリスト、有森裕子は、就実高校時代、長距離走に取り組んだ。
岡山市内で開かれた山陽女子ロードレースで、優勝舎に贈られるのが人見絹江杯だった。
有森自身は、リクルート時代の1989年(平成元年)行われた第8回大会のハーフマラソンで優勝、
人見絹江像のトロフィーを手にしている。

花開いたのが、1992年の第25回スペインバルセロナオリンピック。
女子マラソンで有森は2位に食い込み、見事に銀メダルを獲得した。
その日は人見絹江が日本女子陸上選手として初めてオリンピックでメダルを取った日と同じ日であり、
その日から実に64年という月日が経過していた。
有森にとって
「人見さんを語らずに過ごすことはない」くらいの大きな存在になったという。

有森は「人見からバトンをもらった気がする」として、
国連人口基金親善大使などとして各種ボランティア活動と取り組んでいる。


「伝説の人 人見絹江の世界」 猪木正実著 岡山文庫・文教出版社 平成30年発行





撮影日・2009年11月21日




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鶴姫(藤公園)

2021年03月16日 | 銅像の人
場所・愛媛県今治市大三島町  「藤公園」


まだ橋がないころ、
大三島の宮浦港への旅客船は風情があった。
船が着くと住民やお参りの人が大勢乗り降りしていた。

橋ができて大山祇神社への参拝は、ほぼ全員が陸路となった。
そのため、港から神社への参道はさびれていった。

大型バスの駐車場の近くに「大三島藤公園」ができた。
公園には”藤棚”と”鶴姫像”ができた。
GWに「藤まつり」が開催されている。









(Wikipedia)
鶴姫 (大三島)

鶴姫(つるひめ)は、戦国時代の伊予にいたとされる伝承上の女性。
1966年(昭和41年)に小説『海と女と鎧 瀬戸内のジャンヌ・ダルク』が発表されてから知名度が上がった人物で、
同書が出版されるまでは小説の舞台である大三島の島民さえも彼女のことを知らなかった。
鶴姫は、現在では大三島の観光業に大いに利用されるコンテンツとなっているが、その実在性をめぐり疑問や指摘、批判も挙がっている。

鶴姫は、大山祇神社の娘で、兄に大祝安舎(やすおく)と安房(やすふさ)がいたとされる。
彼女の生涯は、たびたび大三島に侵攻した周防の大内氏の軍勢に対して兵を率いて立ち向かい、交戦してこれを撃退するも、
最期は戦死した恋人・越智安成(おち やすなり)の後を追って自殺したという「鶴姫伝説」として知られている。









撮影日・2008年4月29日



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鶴姫(宮浦沖)

2021年03月15日 | 銅像の人
場所・愛媛県今治市大三島町宮浦


刀に鎧兜での戦の場に、女性がいるのは、映画や漫画ではよくある話だが、実際にはないように思う。
しかし長い歴史上では、少数の人がいたとしても不思議ではない。

そう思って誰がいたかな? 頭をふりしぼる。

木曽義仲の夫人、巴御前は有名だな。
他には・・・、
会津戦争の中野竹子。娘子隊のリーダー。
後はつづかない。

巴御前と中野竹子に共通するのは、”若い”、”賢い”、”美人”、”戦死”である。
女性が武勇で歴史に名を残すハードルは高い。


瀬戸内海の大三島(おおみしま)には”鶴姫伝説”がある。
鶴姫もまた、若い・賢い・美人・戦死、と四拍子そろっている。
さらに悲恋が加わる。


鶴姫像は、大山祇神社の玄関である宮浦港にある。






鶴姫様は海の中。
伝説では、戦国時代に水軍を率いて、散々大内軍を負ったそうだ。









撮影日・2009年3月21日


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