しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

自由の女神 (ラスベガス)

2021年03月15日 | 銅像の人
場所・米国ラスベガス市「ニューヨーク・ニューヨーク」


中学生や高校生の頃、ション・ウェィンやゲーリー・クーパーが活躍する西部劇が好きで、
といっても映画館にいけず少年雑誌や映画雑誌を見るだけで満足していた。

西部劇の舞台のモニュメントバレーは憧れを通り越して、夢みるような場所だった。
それから10数年後、日本はあっという間に経済成長して、アメリカは庶民でも行ける国になった。

その、少年時代に夢見ていたモニュメントバレー観光のため、2005年にラスベガスに行った。






ラスベガスの街は日本人では発想できない市街地を形成していた。
おったまげた。

特にホテル。
ホテルは皆巨大で、部屋数は2.000~4.000。
建物の形はニューヨークあり、ベニスあり、ピラミッドあり、パリもある。
無料のショーがよかった。噴水や火山が爆発する。







いちばん記憶に強いのは、ホテルの駐車場の広さ、というか大きさ。
自分はマラソンをしていたので歩くのは苦にならないが、
ホテルの駐車場から自分の部屋までの距離は半端でない。


ツアーでいっしょだった、倉敷の姉妹さんの話し。
別料金を払ってまで「ピラミッド形」のホテルに泊まったが、
「外観はいいが、内部は廊下も部屋も窓も不自由(不自然な形)で失敗した」、
なるほどなあと思った。


まあ、とにかく発想外の街だった。







(Wikipedia)
ニューヨーク・ニューヨーク

開業 1997年1月3日
部屋数 2,024
遊戯施設面積 7,800 m²

ニューヨーク・ニューヨーク・ホテル&カジノ(New York-New York Hotel & Casino)は、アメリカ合衆国ネバダ州ラスベガスにあるカジノホテルである。
1920年代ごろのニューヨークマンハッタンをイメージしていて、自由の女神、ブルックリンブリッジなどのイミテーションがあり、
客室棟はエンパイアステートビルディング、クライスラービルなどのレプリカになっている。

敷地内に設置されているジェットコースター「ビッグアップル・コースター」は、浅草花やしきのローラーコースターなどで知られる日本のトーゴ社によるもので、
カジノのゲームに影響を与えない程度の振動対策と、客室のすぐそばを走る際の騒音対策から採用に至ったもの。






撮影日・2005年6月19日



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自由の女神像

2021年03月15日 | 銅像の人
場所・米国ニューヨーク市


2003年、ニューヨークのニューヨークシティマラソンに出場するためニューヨークに行った。
その前日に自由の女神像を見に行った。

バッテリーパークの港の船に乗ると、船の乗客は明らかに、アメリカ人のお上りさん、世界からの観光客であふれていた。






出港した船から見るニューヨークの摩天楼は素晴らしく美しかった。
乗船客は,海上から見る摩天楼を眺めて感嘆していたが・・・・
やがて、乗客全員が船の進行方向に姿勢を向き変えた。






すると、
(当然ながら)
自由の女神像が、小さな島に巨大に聳えていた。

船が島に近くなるほど乗客の感動する声が大きくなった。







(その頃、デジカメの電池マークが切れた( ;∀;)。上陸後に最初に土産店で使い捨てカメラを買った)

前年にツインビルがテロで倒壊し、自由の女神像に入ることは禁止されていた。
しかし、それがまったく気にならないほど、自由の女神像見物には感動があった。






(Wikipedia)
自由の女神像
( Statue of Liberty)


アメリカ合衆国のニューヨーク港内、リバティ島にある像である。正式名称は世界を照らす自由 (Liberty Enlightening the World) 。

概要
自由の女神像はアメリカ合衆国の独立100周年を記念して、独立運動を支援したフランス人の募金によって贈呈され1886年に完成した。
アメリカ合衆国の自由と民主主義の象徴であるとともに、19世紀以来絶えることなく世界各地から観光客が訪れている。

銅製だが、緑青の為に緑色になっている。
像の頭の部分までの高さは33.86メートル、台座からトーチまでの高さは46.05メートル、台座の高さは47メートル、台座部分も含めると93メートル、総重量は225トンである。

右手には純金で形作られた炎を擁するたいまつを空高く掲げ、左手にはアメリカ合衆国の独立記念日である「1776年7月4日」とローマ数字で刻印された銘板を持っている。

足元には引きちぎられた鎖と足かせがあり、全ての弾圧、抑圧からの解放と、人類は皆自由で平等であることを象徴している。
女神がかぶっている冠には七つの突起がある。これは、七つの大陸と七つの海に自由が広がるという意味である。
台座部分にはエレベータが設置されている。エレベータの最上階(10階)からは像の中のらせん階段を上って王冠部分の展望台に登ることができる。
2001年9月11日に発生したアメリカ同時多発テロ事件後は安全のため、同展望台は閉鎖されていたが、2009年7月4日、独立記念日に合わせて約8年ぶりに再開された。
再開後は、同展望台に入場できる人数が1時間あたり30人まで、1日240人までと制限されたほか、入場には予約が必要となった。






撮影日・2003年11月1日



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サモトラケのニケ

2021年03月15日 | 銅像の人
場所・岡山県高梁市成羽町

成羽は愛宕花火で有名だが、町歩きも楽しい町。
成羽川が流れ、豪壮な陣屋の石垣があり、静かな武家屋敷がつづく。
町は高瀬舟を始め、水運や陸運の中継地として栄えた。

その成羽の町に彫刻の世界的名作「サモトラケのニケ」が建っている。






サモトラケのニケ
Wikipedia

『サモトラケのニケ』は、
ヘレニズム期の大理石彫刻 。
翼のはえた勝利の女神ニケ(ニーケー)が空から船のへさきへと降り立った様子を表現した彫像である 。
1863年に(エーゲ海の)サモトラケ島で発見された 。
頭部と両腕は失われている 。フランスのルーブル美術館が所蔵。

動的な姿態と、巧みな「ひだ」の表現で知られており、ギリシャ彫刻の傑作とされる。
大理石製で、高さは244cmである。

最初の発見は1863年で、胴体部分が見つけられた。
それに続いて断片と化した片翼が見つかった。
断片は全部で118片にのぼる。
その後復元された像は1884年にルーヴル美術館の『ダリュの階段踊り場』に展示され、現在に至る。



郷土本の岡山文庫では下記の説明がなされている。

【岡山文庫】
勝利の女神(サモトラケのニレ)

場所・川上郡成羽町 成羽町美術館庭
ブロンズ
複製 赤木喜三郎・宮本隆
ギリシャ彫刻(紀元前300年の制作)
像高 220cm 台座高 200cm
昭和42年建立 坂本厚生会寄贈




(成羽の武家屋敷通り)

像は、成羽町出身の画家・児島虎次郎にちなんで置かれた。





撮影日・2016年5月18日


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平和の群像(二十四の瞳)

2021年03月14日 | 銅像の人
場所・香川県小豆郡土庄町






子どもの頃、映画は娯楽の王様だった。
映画を見ることが一番の楽しみだった。
その後テレビやビデオでも映画を見ろことができ、笑ったり、泣いたり、感動したり、家でできるようになった。

好きなのは東映の痛快時代劇で、剣を振り回して悪者を斬るのが見ていて楽しい。
その分野でいえば内田吐夢監督、中村錦之助主演の「宮本武蔵」が最高傑作と思っている。


では時代劇や現代劇を合わせて最高傑作は?
となると木下恵介監督、高峰秀子主演の「二十四の瞳」、これが戦後の邦画の最高傑作に違いない。
映画の終盤、目が見えなくなって復員した磯吉(田村高広)が写真を指さして「この写真はな、・・・見えるんじゃ」のシーンには、
いつ見ても目から涙が飛び出してくる。






DVDも販売されている、宣伝文句は

「日本中が涙した 名匠・木下惠介 後世への最大遺物」。

そう思う、”後世への遺物”に異議はない!





撮影日・2007年5月3日



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林芙美子

2021年03月14日 | 銅像の人
場所・広島県尾道市





尾道は何度行っても飽きない街だ。

海と坂道と船とお寺、千光寺山と向島、そんなものが同居して魅力が尽きない。


街角や海辺の通りには、多くの彫刻作品が並んでいる。
その中に、別格の雰囲気で林芙美子の銅像が建っている。


戦前から人気作家で、日中戦争では”芙美子さん、武漢一番乗り”と従軍作家で戦地に派遣されている。

戦後はいろんな作品が芝居や映画化され、名が新聞や女性週刊誌によく掲載されていた。
中でも有名だったのが森光子の舞台「放浪記」。







有名な作家・林芙美子だが、未だに一冊の本も読んだことがない。
読まず嫌いなのか?
どうも女性が好む小説で、男性むきでないような思いこみをしている。




しかし、この言葉だけはよく知っている。

花の命は短くて苦しき事のみ多かりき


花の命が短いのはわかるが、苦しきことのみの部分は辛い。





林芙美子

山口県下関生まれ。
九州から山陽地方を転々とし、大正11年上京。
女工・女給をしながら文学に親しみ、昭和3年『放浪記』を発表。
庶民の哀楽を描き人生派といわれた。

「日本の銅像」  金子治夫  淡交社  2012年発行




撮影日・2016年7月30日

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赤い靴の女の子

2021年03月13日 | 銅像の人
神奈川県横浜市中区  山下公園


昭和50年代の後半、横浜に住んでいた。
その頃、本かテレビか忘れたが、”横浜の歌”の代表は
流行歌「ブルーライト横浜」、童謡「赤い靴」であるというのを覚えている。
あれから40年経ったが、今でも横浜の歌といえば、
その二曲がいちばん似合うような気がする。



赤い靴はいてた 
女お子
異人さんにつれられて
行っちゃった

横浜の埠頭から
船に乗って
異人さんにつれられて
行っちゃった





「歌のよこはま」 富樫啓著 有隣堂 昭和54年発行

赤い靴

童謡「赤い靴」が発表されたのは、大正10年(1921)12月の児童雑誌「小学女生」誌上で、
作詞作曲は「青い目の人形」と同じ野口雨情、本居長世のコンビ作。
赤い靴の女の子、埠頭、汽船、異人さんと青い目、別離--港ヨコハマにあふれたエキゾチズムを幻想的にうたったこの童謡は、メロディの魅力もあった。
大正・昭和と長い期間にわたって人々の心をとらえてきた。
「赤い靴」が作品として誕生した大正年間、日本からアメリカ大陸への移民ブームはまさにピークだった。

「赤い靴」が世に出て1年9ケ月後の事、歌の舞台になった横浜港は未曽有の災害に見舞われた。
ゴゥッと遠雷のような響き、続いて地面をくつがえすような激しい大地の揺れ、マグニチュード7.9、震度6の烈震が、関東一円を猛烈にゆさぶった。
横浜だけで死者2万3千、行方不明3千にのぼった。
「赤い靴」の舞台となった大桟橋も、この震災で一切が鳥有に帰した。
「赤い靴」はいっそう盛んに歌われ、全国に広まっていった。

この童謡「赤い靴」の顕彰像を作ろうという動きが、昭和51年から横浜市民の間で盛り上がっている。
港ヨコハマのイメージぴったりのこの童謡を、少女の像で表現し、人々をメルヘンの世界へさそおうというものだ。








撮影日・2011年9月9日  




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山内一豊の妻(郡上八幡城)

2021年03月13日 | 銅像の人
場所・岐阜県郡上市八幡  郡上八幡城


郡上八幡は踊りで有名だが、街並みの魅力も捨てがたい。
重伝建に指定された古い町並み、
名水の町、
古城・郡上八幡城、
町を流れる長良川、背後の高い山々。

何度も行って、町歩きをしたいけど笠岡からは遠い。









「戦国武将100話」 桑田忠親監修 立風書房 1978年発行

千代の逸話はいくつか伝えられている。

 一豊と結婚したころ、一豊は近江に住んでいたが、生活は貧しく、
家にはマナ板さえなく、千代は枡を裏返して代用していた。
一豊が秀吉の配下として築城の監督を命じられたが、
人夫の夜食も出せずにいると、
千代はひそかに髪を切って金にかえ、それで米を買ってきて、
一豊の面目をたてたという。











撮影日・2015年8月1日


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山内一豊の妻(高知城)

2021年03月13日 | 銅像の人
場所・高知県高知市丸ノ内


維新の英雄が出た高知には、まだ銅像も多い。
桂浜の坂本龍馬、室戸岬の中岡慎太郎をはじめ、
山内容堂、岩崎弥太郎、ジョン万次郎・・近代の吉田茂まで、西日本一と思える銅像の宝庫。
高知城に行けば、もちろん”内助の功””良妻の鏡””良妻賢母”の
『功名が辻』のお人の像もたつ。









「戦国武将100話」 桑田忠親監修 立風書房 1978年発行

山内一豊といえば、その夫人の内助の功のエピソードであまねく名を知られている。
一豊が織田信長に仕える軽輩だったころの話である。

安土の城下で東国一というふれこみで、すばらしい馬が売りに出た。
織田家中の侍たちのいずれもがその見事さに驚嘆したが、さりとて値が高く、誰も手が出ない。
一豊とて例外ではなかった。それどころか、生活さえかろうじて成りたつ貧乏暮らしだった。
妻の千代は「このお金をお使いください」といって鏡箱の底から黄金10枚をとりだして一豊の前にさしだしたのである。
一豊は驚喜し、すぐにかの馬を買いにいった。

やがて京において馬揃えが盛大に行われたが、一豊の乗馬は断然人々の目をひき、
信長も驚きの声をあげ、これをきっかけに一豊は出世の道を歩みはじめた。












撮影日・2018年3月24日




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たまがきと祐清像

2021年03月12日 | 銅像の人
場所・岡山県新見市   JR新見駅前




新見の駅前にずいぶん立派な銅像が建っている。







たまがき
(Wikipedia)


たまかき(生没年不詳)は、京都東寺領の新見庄(岡山県新見市)の荘官、惣追捕使の福本刑部丞の妹とされる。

たまがきは、寛正3年(1462年)、東寺から直務代官として、新見に着任した東寺の僧・祐清(ゆうせい)の身辺の世話をしていたらしい。

祐清は、寛正4年(1463年)7月、年貢未納の名主・豊岡を追放したことを機に、隣接する相国寺領に住む豊岡の親族によって斬殺される。


東寺に向けて祐清の遺品を求めた手紙が「たまかき書状」で、中世農村女性の自筆書状として全国的に珍しい史料といえる。

なお、この書状がたまがき自身がしたためた物であるか否か、また、たまがきが遺品を譲り受けることが叶ったのか、たまがきの年齢、祐清との関係などは伝わっていない。











撮影日・2014年9月2日



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たつこ姫

2021年03月12日 | 銅像の人
場所・ 秋田県仙北市田沢湖町 田沢湖


たつこ像は、像そのものが田沢湖と合わせ東北を代表する観光名所。
水深、透明度、山脈、たつ子姫伝説、期待を裏切らない美しさがある。











秋田は美人どころとして、自他ともに認めている。
若い娘さんのことを”おばこ”という。
その、秋田美人の産地として有名なのが角館や田沢湖周辺一帯ときかされた。
昔からの美人どころであるあかしのように田沢湖にはこんな話が伝わっている。

八郎潟に住む八郎太郎は、いつしか田沢湖の美女タツコ姫と親しくなり、蛇身となって毎年、秋の彼岸になると田沢湖にやってくるようになった。
二人の逢瀬は、春までゆっくりと続けられ、若い二人の情熱は、北国の湖に氷をはらせなかった。

いまも田沢湖は氷結しないし、周辺に美女が多いのは、伝説のタツコ姫にあやかってのことだろうか。

「祭りと芸能の旅」 参議院議員宮田輝著 ぎょうせい 昭和53年発行




撮影日・2018年6月30日  




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