しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

おしまさん(有明海)

2021年03月12日 | 銅像の人
場所・佐賀県鹿島市

おしまさんは豊作の神様として、今でも有明海沿岸の人々に信仰されているようだ。





佐賀県鹿島市観光協会

沖の島まいり(おしまさんまいり)

沖の島(おしまさん)まいりとは、大漁豊作や航海安全を祈願するため、有明海沿岸の各地域から有明海の「沖ノ島」へ向けて船が出航することです。
鹿島市では、七浦地区の集落から道の駅に複数の船が集まり、沖ノ島へ向かう前に船上で「浮立(ふりゅう:かねや太鼓、笛の音に合わせて踊ること)」や「皿踊り」が披露されます。
それと同時に七浦地区の夏祭りが開催され、郷土芸能の披露や盆踊り大会などが行われます。

沖の島まいりの由来は次のとおりです。江戸時代に干ばつに見舞われたときに、「おしま」という娘が雨が降ることを願って有明海に身を投げ、流れ着いた先が沖ノ島であったと伝えられています。そして、おしまさんの命日である旧暦の6月19日に、船に乗って沖ノ島へお参りに行っていたことが始まりになっています。







(Wikipedia)
おしまさん
『江戸時代に旱魃に悩む村を救うため、雨乞いの願をかけた村娘「おしま」が海に身を投げた。
まもなく島に流れ着いた遺体が発見されたところ大雨が降り豊作となったため、おしまを島に奉り雨乞いの神として信仰した』という伝説があり、旧暦6月19日に小城市や鹿島市、佐賀市久保田町など沿岸各地で浮立を奉納し、沖ノ島にあるおしまの石像にお神酒やおにぎりを奉納する神事「沖ノ島参り」が行われる。雨乞いの神事であり、豊作を願うものであるため沿岸部以外でも行われており、佐賀市金立の金立神社では50年に一度沖ノ島に参る「お下り」という神幸祭が行われる。しかし、沿岸部での浮立は減少しており、内陸部でも佐賀市の八坂神社など祭りが途絶えてしまったところも多い。



撮影日・2014年1月11日



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美少女おいの

2021年03月12日 | 銅像の人
場所・和歌山県新宮市  浮島の森

和歌山県の新宮市の伝説。
県のホームページに載るほどだから、紀ノ國では有名な話なのだろう。







和歌山県企画部「和歌山県の民話」

美少女おいの

源平のころ、このあたりに、おいのという美しい娘がいた。木こりをしていた父のもとへ、昼の弁当を届けるのを日課としていたが、ある日、父が浮島の森へ行ったため、おいのも森へ入った。
この日おいのは、あちこち遊び回りたいと思い、自分も昼の仕度をして行った。父に弁当を手渡した帰り、石に腰をおろして弁当をひらいたところ、ハシを忘れたのに気づき、ススキの茎を折り、ハシの代りとした。
森の中は夏でも涼しく、あまりの快さに思わずうっとりとし、眠気をもよおした。遠く聞こえる規則的な父の斧の音に、しだいに夢の国へ誘われるようであった。






ふと物音に気づき、われにかえると、黒い大蛇が目の前に鎌首をもたげている、思わず「助けてっー。父さん」と叫んだが、すでにおそかった。
おいのの身体は、ひと抱えもある大蛇の大きな口にくわえられて、身動きもできない。
しきりに父を呼びつづけるおいのの抵抗も空しく、大蛇はゆうゆうと沢の茂みへ姿を消してしまった。
そこへ息せき切ってかけつけた父親は、池の面にただよう血なまぐさい空気に、不幸なできごとのすべてをさとった。

家に帰り、妻とともに再び森に引き返した父は「蛇の穴」と呼ばれている沢の片隅の穴のそばで両手をつき「せめて、娘の姿をもう一度みせて下さい」と、くり返し哀願したところ、一陣の強風が吹き起り、にわかに暴風雨となったかと思うと、大蛇が哀れなおいのをくわえて鎌首をもたげ、またたく間に蛇の穴へと姿を消してしまった。
父親と母親は、いま一度と何度も頼んだが、二度と再び、大蛇は姿をみせなかった。
おいのは、池の主に魅せられて若い命を落したのだった。
それ以来、熊野の人たちは、決してススキをハシの代りに使わなくなったという。




撮影日・2013年6月5日





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服部大池の”お糸”

2021年03月12日 | 銅像の人
場所・広島県福山市駅家町  服部大池


駅家(えきや)の服部大池には”お糸さん”伝説がある。地元で知らぬ人はいない。







”お糸さん”は、忠魂碑と並んで建つ。
この場所が服部地区の中心を意味する。




像には『人柱お糸之像」と刻まれている。


 


服部大池

(Wikipedia)
服部大池は1643年(寛永20年)に福山藩初代藩主であった水野勝成が隠居後に神辺平野の干魃対策のひとつとして神谷治部を総奉行として服部川を堰き止めて造らせた。
福山藩で最大のため池で春日池、瀬戸池と並び領内三大池のひとつに数えられる。
1645年(正保2年)に完成し20ヶ村に恩恵を与え周囲の治水を大きく安定させた。以後、度々の改修を受けつつ農業用ため池として現在も用いられており、近年では1997年に改修工事が行われた。池の周辺は公園として整備され桜の名所として市民に親しまれている。




人柱伝説

服部大池の築造は大変な難工事であったために堤に「人柱」が捧げられたとの言い伝えがある。
それによると人柱にされたのは病気の母親に代わり人夫として夫役に出ていた16歳のお糸であったとされ、彼女が選ばれた理由は『着物に横つぎが当たっていて、未婚の娘』(貧しい処女であるという意味)であったからだという。
また、伝説には後日談があり、お糸には恋人の若者がおり毎夜池の堤でお糸の名を呼び続け、ついには池に身を投げてしまった。
それを知った人々が二人の霊を慰めるために弁財天を祀ったうえで松と槙を植えた。
後に2人の魂がひとつになろうとしているかのように2本の根が絡み合い、やがて『比翼の松』と呼ばれるようになったという(現在では枯れてしまい、お糸大明神に祀られている)。





撮影日・2009年4月10日


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笠岡の人柱(ひとばしら)

2021年03月12日 | 銅像の人
(Wikipedia)
人柱(ひとばしら)とは、人身御供の一種。
大規模建造物(橋、堤防、城、港湾施設、などなど)が災害(自然災害や人災)や敵襲によって破壊されないことを神に祈願する目的で、建造物やその近傍にこれと定めた人間を生かしたままで土中に埋めたり水中に沈めたりする風習を言い、狭義では古来日本で行われてきたものを指すが、広義では日本古来のそれと類似点の多い世界各地の風習をも同様にいう。
この慣わしを行うことは「人柱を立てる」、同じく、行われることは「人柱が立つ」ということが多い。
史実はともかくとして、人柱の伝説は日本各地に残されている。特に城郭建築の時に、人柱が埋められたという伝説が伝わる城は甚だ多い。



笠岡市では下記の2件がよく知られている。


(富岡の土手・2018.3.30).



お七伝説

富岡新田の築堤に際して人柱を立てた、という伝説が残っている。
人柱とは、潮止工事が難航するとき、工事の無事を祈って水神に捧げる生け贄のことで、
人身御供ともいう。
富岡新田の人柱は、「お七」という17歳の少女だったと伝えられる。
この人柱伝説は、記録が残っている訳ではなく、あくまで、伝え語りに過ぎない。

「ふるさと探訪」 笠岡東公民館 平成25年発行





お清明神と白馬様

宮の前に住む古老が、
「今から300年ほど前、吉浜土手を築くとき、水野の殿様が連れてきた、お清さんという娘と白馬が一匹、生け贄として土手の下に生き埋めされている」と語った。
それで、石仏よ白馬の謂れがわかり、今日まで供物と香華が絶えない。

「金浦探訪」 金浦歴史研究会 平成22年発行





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神武天皇像

2021年03月10日 | 銅像の人
場所・岡山県笠岡市高島
建立・2020年10月



神武天皇の東征は、下記、吉備の高島に3年間滞在したとある。


日本書紀』

乙卯年(紀元前666年)

3月6日、吉備国に入り、行宮(高島宮)をつくった。高島宮には3年間滞在して、舟を備え兵糧を蓄えた。









昭和15年の皇紀2600年祭の頃、天皇が滞在した”吉備の高島”は国民論争となり、
備前の高島(岡山市)
備中の高島(笠岡市)
備後の高島(福山市)
が最終候補に残り、正統性を争った。

結果は笠岡市と福山市の高島が落選した。

笠岡市の高島にも帝国大学の先生方が何度も来て、掘削や出土品をしらべた。
しかし、考えてみれば
そもそも日本書紀の話自体が物語であるに、偉い帝大の先生は何を調べ、なんでもって岡山市の高島と定めたのだろう。
不思議なことだ。


昭和16年、文部省国定教科書。
「日本ヨイ国、キヨイ国。世界ニ一ツノ神ノ国」
「日本ヨイ国、強イ国。世界ニカガヤクエライ国」

「日本は神の国である」そのことを、懐疑的に思うものは非国民。
神話を国史として学校で学ぶことに、何の疑問も持てない言えない国だった・・・という時代があった。
それが、ほんの70余年前の日本の現実だった。






神武天皇像の肩には八咫烏(やたがらす)。
この像は島おこしを目的に去年、島民有志が高島神社に建立したもの。発泡スチロールの像。







笠岡諸島の高島は、たいへん風光明媚な島で海から山に遊歩道がつづき、
2時間程度で島を周回できる。

GW頃は島がツツジで覆われる。





撮影日・2020年11月30日



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児島高徳像

2021年03月09日 | 銅像の人
場所・岡山県津山市院庄

母は、ほとんど歌をうたわない人だった。童謡も、民謡も、児童唱歌も、流行歌も。
その母が歌って聴かせたくれた曲が二つある。


青葉茂れる桜井の・・・「桜井の訣別」(楠木正成)
桜ほろ散る 院の庄・・・「忠義桜」(児島高徳)

どちらも天皇家の忠臣を歌っていて、学校教育が神国化していたのがうかがえる。
特に児島高徳は児島の人であり、津山での古事が曲となっていて、学校でも熱心に歌ったようだ。







児島高徳はいったい何をした人なのか?
それを説明するのは歌がいちばん。


忠義桜

桜ほろ散る院の庄   遠き昔を偲ぶれば   
幹を削りて高徳が  書いた至誠の詩(うた)がたみ

君のみ心安らかれと   闇にまぎれてただ一人   
刻む忠節筆の跡   めぐる懐古に涙湧く  

「天勾践を空しうするなかれ  時に范蠡なきにしも非ず。」

風にさらされ雨に濡れ   文字はいつしか消えたけど   
つきぬほまれの物語   永久(とわ)に輝く花のかげ









戦前から児島高徳は史実がなく、実在も疑われていた。
戦後忠臣は、過去のものとして拒否されたり、忘れ去られていった。
今では岡山県人でさえ、その名も見ることも、聞くことも稀になっている。




撮影日・2008年4月20日



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楠木正成騎馬像

2021年03月09日 | 銅像の人
場所・広島県福山市松永町


天皇家の大忠臣といっても、それは敗者の南朝天皇への忠臣であって、
北朝側から見れば逆臣だった楠木正成。
逆臣ではあったが、明治政府は「お国のために死ぬ」という理想の人物に仕立て、教科書に、読み物に、歌に
いいように利用した。







備陽史探訪の会 「備陽史探訪:178号」

高諸神社の境内にセメント製の「楠木正成騎馬武者像」がある。
これは戦前今津小学校にあったもので戦後この場所に移された。
当時は奉安殿(昭和十年落成)の横に建立されていたもので銅像であった。
この楠木正成の銅像は神戸に在住した今津出身者二人による寄附である。



上記によると、奉安殿の横に銅像で建立されたが戦時中に供出した。
すぐに代わりにコンクリートで再建。
終戦後、学校から撤去。
たぶんその数年後に、この場所にもってきた。

この場所は、「高諸神社」で、大きな”沼隈郡郷社”という記念碑が置かれている神社。






笠岡市域では笠岡男子校に大楠公、笠岡女子校に楠公母子の像があった。
その場所に行っても跡形はないし、
戦後の処置についても記されたものがない。どこに行ったのだろう?





撮影日・2013年1月7日



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和気清麻呂像

2021年03月09日 | 銅像の人
場所・岡山県笠岡市西大島



この像は終戦後すぐに学校から撤去された。
破壊するのは忍びないと、旧家の庭に隠すように埋められた。





その後、時が流れ学校に復旧さしてもいいのではないかという声が出るころ、
学校が統合されて元の学校はなくなった。

掘り出された像は、統合先の学校に建った。



和気清麻呂は天皇家を護った忠臣として、
戦前は楠木正成と並ぶ英雄だった。


多くの学校や公的な場所に銅像があったと思えるが、
その銅像は西大島と似て、撤去後破壊、撤去後隠す、のどちらかだっただろう。






学校に再び建った清麻呂は、再び”忠臣”で蘇ったかといえば・・・まったく違う。一言もない。
像の隣に建つ説明文を転記する。


和気清麻呂略伝
和気清麻呂は、日本の古代史の中で、
奈良時代から平安時代の転換期に活躍した人物です。
天平5年(733)備前国藤野郡(現和気町)に生まれました。
近畿地方の河川改修や開削を行って治水に努め、数多くの土木工事を行いました。
また、美作・備前国造として郡民の負担軽減を図るなど民生の安定と発展に努めました。
平安遷都は彼の立案であったことは有名です。




撮影日・2017年5月20日




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津田白印像

2021年03月08日 | 銅像の人
場所・岡山県笠岡市笠岡  岡山龍谷高校






城見小学校の講堂(正式名「真田講堂」)に、水墨画のような絵が掲げてあった。
小学校の6年間眺めたが、卒業後は一度も母校の講堂に入ることはなかった。
その後、同じ画家と思えるものを何度も見て、城見小学校の絵は津田白印画伯の絵だと確信した。
卒業して20年ほど後、講堂は解体され新たに体育館ができた。
白印さんのあの絵は今、どこにあるのだろう?









津田白印(1862~1946)は、
文久2年4月、笠岡浄心寺住職の津田明海の次男として生まれる。
成富椿屋について南画を学ぶ。
画趣は温和にして自由闊達であり、
画とともに書にもすぐれていた。
「笠岡市史第3巻」




淳和女学校・甘露育児院の創始者であり、教育・福祉に情熱を傾けた津田明導(白印)は、
教職を退いた後も、美術界に大きな足跡を残し、昭和21年2月15日惜しまれながら鬼籍に入った。
「笠岡市史第4巻」




撮影日・2015年9月5日





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ゆめタウン松永店

2021年03月08日 | 無くなったもの
場所・広島県福山市松永町柳津
無くなった日・2021年3月21日
撮影日・2013年1月7日


松永のゆめタウンが3月21日に閉店する。

年々、この店の西側に中小の新しい店がオープンしていた。
そうなると、ゆめタウンは松永の東の端に位置しているのが気になりだした。







かつて、
イ草や塩田で栄えた松永。
柳津では下駄や履物工場が多かった。








ゆめタウンの前には松永湾が広がり屋上からの眺めもよかった。

写真の正面は尾道市の浦崎半島。(福山市の中に尾道市が飛び地がある)





閉店後の建物や土地の利用は未定だそうだ。
ゆめタウンは福山市では近年、ポートプラザのヨーカドーの店舗跡に新店ができたので、これでおあいこかな?






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