しろみ茂平の話

郷土史を中心にした雑記

モモを作る

2022年03月14日 | 農業(農作物・家畜)
私は3人兄弟だが、3人とも、両親の”桃”作りによって学校へ行くことができた。

桃の花が咲く頃の茂平は、ほんとうにきれいだった。
花が終わって、桃に実が成ると、
西の峠道は野々浜から、北の峠道は用之江から、袋掛けの婦人部隊が茂平に歩いて来ていた。

・・・・


(2021年茂平)

・・・・・

モモ

岡山のモモの栽培は、明治になって国が勧業政策を進める中で本格化していった。
はじめ天津桃や上海桃が県南を中心に広がった。
この中で進取の篤農家によって新しい品種が育成され、
後の「桃の名産地岡山」への一歩をふみ出す。
明治28年、小山益太の「金桃」、
明治31年、長尾円澄の「土用水密」、
明治354年、大久保重五郎の「白桃」
などが次々に発表された。
特に「白桃」は味が良いうえに日持ちがよく、遠隔地輸送が可能なことから市場性が高まり、栽培が広まった。
さらに大久保は「大久保」を育成した。
昭和7年、西岡伸一による「清水白桃」が生まれた。

明治以来、岡山のモモ栽培は拡大を続け、第二次世界大戦中に一頓挫はあったものの、
昭和30年代半ばには栽培面積約2千ヘクタール、生産量約2万トンで日本一のモモの生産地となった。
しかし昭和30年代後半から始まる高度経済成長は農家の人手を工業地帯へ吸収し、
次第にモモの栽培面積は減ってゆき昭和50年代にはピーク時の半分に落ち込んだ。
しかし、全国ブランド「岡山の桃」は、量よりも高品質を追及する方向に進んでいる。


・・・・・・


(2021年茂平)

・・・・・

(父の話)



桃は50年くらいはもつが、30年でうがしてしまう。そうせんと実が弱うなる。

2000・5・14
・・・

上海水蜜と天津水蜜

(明治8年上海・天津水蜜ができている)
昔しゃぁ、上海、天津ようたんじゃ。せいが来た初めじゃ。

初めの品種じゃ。ウチにゃぁ植えとらん。初めに植えた人が植えとった。
そこの、徹っつぁん方に、徹っつぁんの親父  が植えとった。山の畑に植えとった。






岡山早生と砂子早生

一番早いのが岡山早生、次が砂子早生。両方植えとった。
今はうがしっしもうた。

(砂子早生は昭和33年にできている)
砂子早生のほうがえかった。

2001年7月23日

・・・・・・

白桃

白桃は出るのが遅い。
ボニ(お盆)が過ぎる頃できょうた。わりかた虫にやられてのぅ。虫に食いやられてのう。
虫がよう来る。予防ばあせにゃあいけん。

売れんのが、悪ぃのがおゆうて、売られんのがおいいんじゃ。
甘おて、おいしゅうてええんじゃがの。
ほれじゃけい、どおしても虫にやられんヤツを作るようになる。

・・・

大久保

大久保もうつろの畑に植えとった。
清水白桃
清水白桃は新しい品種じゃ。

きんとう・明星
きんとう・明星ゆうのはこれは「カンズメ桃」じゃ。
菊水(きくすい)
馬場白(ばばはく)
華清水(平成8年)
そりゃぁ知らん。
主に植えとったのは「白桃」「大久保」それと「清水白桃」「早稲・岡山}


2001年7月23日

・・・・・

桃 Ⅱ

ももは、新しい品種ができるいと、それにう変ようた。
ボニに出るのが一番高い。味がエエのに。

新しいのが出ると、、それでないと買うてくりょうらなんだ。
次第にえんのがでてくるけいのぉ。
ぼろの桃は切って、植え変ようた。
古いのはかねのにならん。味もわるうなる。

桃の木は30年は持つが。

2000・12・17
・・

冬に選定して、予防して・・・・春になると花が咲く。
夏に実をちぎって出荷する。
桃も早ぃんと、遅いんがある。
主が八月じゃ。

実がなった桃は木をみて(実を)間引ぃて、せいがすんだら袋掛けをする。
予防は最低にへんはする。
芽をのばさんようにアブラ虫がつく。それを予防したら葉がようのびてエエ花がさく。

三へん、四へん予防するのもいるが、ようしちゃるほうがええ。
出荷がおわった木はいっぺん予防をしとったほうがええが、おわったらたいげなけぇせんうちが多かった。

ウチにも新涯でつりょうたことがあるが湿気があってようなかった。
うつろの山は(水をやろうにもだんだん畑で)しんどいけえせなんだ。

予防以外、そんなに手間はかからん。

2001・2・11
・・・・・

桃の袋かけ

桃、びわの袋掛けには用の江を中心に、大宣からも来ていた。
あくまで桃が主である。

(いつのまにか、来ないようになったが?)
人件費がただ同然の時代であったが、高くなったので止めたのだ。
桃の相場とあわんようになった。
日当がでんようになった。昔はただみてぃなもんじゃったけぃ。

いまでもツテや、親類をよんでやっている。
昔から女を雇っていた。
葡萄は自分達でしとった。

2000年05月28日

・・

袋掛け Ⅱ


新聞を切るもんがまだある。
冬の仕事にしょうた。
薬を掛けた(新聞を)ののもある。
桃は病気がくるんで薬を掛けたほがええ。

枇杷は虫がこんので新聞紙のままでもええ。

止めるんも稲藁で、ひなか中しょうた。
用之江やこからきてもろうとる時にゃ、昼休みにも藁を打ちょうた。
今のは袋に金がはいっとる。
止め金がはいっとる。みやすうなった。
藁もいらんようになった。

2000・12・17


・・・・・

「日本の農業4」 長谷川美典 岩崎書店 2010年発行

モモを育てる

モモは、ニンゴやナシに比べると木の寿命が短いため、栽培できる期間が短く、
雨に弱いなどの特徴があります。
日本でのモモの栽培は古く、古事記や日本書紀にも書かれています。
現在栽培されているモモは、明治の初めに中国から入ってきた「上海水蜜桃」などを改良した品種が多く作られています。
昭和30年には岡山県、香川県、大阪府など温暖な地域が主産地でしたが、
すずしい地域でも生産できることから山梨県、福島県、長野県、山形県でも作られるようになりました。
生食が多いのですが、缶詰やジュースにも加工されています。

苗を定植したあと2~3年で実をつけ、5~6年目には成木になります。
12~13年目には収穫量が落ちてくる木が出てくるので、順次植え替えが必要となります。

モモの根は水に弱く、雨が多いと病気にかかりやすくなり、
日照不足になると果実の糖度低下や日もちが悪くなります。

モモの果実は、日もちが悪く、収穫が少しでも遅れると痛んでしまいます。
そのため、いろいろな品種を植え、収穫期を少しずつずらして作業が一度に重ならないようにしています。


・・・・・


今の栽培桃は中国の天津水蜜桃などを明治になって改良したものである。
笠岡市広浜の庄屋・渡辺淳一郎は明治6年に樽屋桃を栽培、のち上海水蜜桃の栽培を始めた。
彼が岡山県における始祖である。
岡山県熊山町弥生の篤農家・大久保重五郎が昭和2年に大久保即ち水蜜桃を、明治33年に白桃を発見している。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行


・・・・・


「岡山の歴史」 柴田一 岡山文庫  昭和49年発行

明治30年代になると、二毛作も70~80%に達し、菜種にかわって小麦の栽培が増加した。
その頃から、県南のいたるところで果樹栽培が盛んになった。

桃は全国の首位を占め白桃は「水蜜桃」の名で有名になった。
栽培面積は明治38年日露戦争のころはすでに約一千町歩、
昭和15.16年太平洋戦争の始まる直前には約三千町歩に達し、
全国屈指の果物どころとなった。


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「貧乏人は米を食え」の方が正しかった

2022年03月14日 | 食べもの

白いおコメのご飯を食べるのは、貧しい日本人にとって長年の夢だった。
私も、そうだった、
「コメのメシが食いたい!」と思っていた。

池田勇人大蔵大臣の「貧乏人は麦を食え」は政治史に残るほど有名だが、
ところが母の論では、
「貧乏人は米を食え」の方が安くつくそうだ。

・・・・

畑作

江戸時代農家は米でなく、麦を主食にしていたといわれる。
野菜は栽培が難しく、一部の権力者しか口にできない嗜好品だった。
長期保存ができないので、各地で気候条件などに合ったものが独自の発展をした。
工芸作物は長期保存が可能なため、早くから全国各地に流通し、一大産地も誕生した。

「最新日本の農業図鑑」 八木宏典 ナツメ社 2021年発行







麦飯 

(母の話)

だいたい7:3くれいなら食べられる。
ボニ・正月・祭りが米の飯。

家を建てるとき(昭和35年頃)、たましまん(玉島の母の実弟)来て「あんた方にゃ、まだ麦飯をくようんか」いわれた。
よお、おべぃとる「麦飯がめずらしいから食べさせぇ。」いわれた。
あっこらは米の飯ばぁじゃろう。

そおすりゃあ、夜燈の親類の野々浜のデショがあろう、あっこに田圃がえっとある。
「麦飯は二杯も三杯も食べにゃあ、腹がふくれんけど。米の飯は一杯たべりゃぁある」
ゆうちゃったけど、ほんとじゃった。

米は強いけぃ一杯たべりゃあ、ほんに腹がふくりょうた。
結局麦は損じゃったのう思うた。

夜燈のおばさんのお母さんがようたが(米の飯を食べることは)ほんまじゃったなぁ、といつも思う。
(桃などの)袋掛けに来てくりょうちゃた。あわぁな事をよおるが思うて聞きょうたが、ほんまじゃった。
麦飯は腹へもたれんから何杯も食わんと、食べたようになかった。

2001・1・1


麦まぜ

二分か三分。
二か三は麦の方じゃ。残りは米。
麦を混ぜればくさい。
年よりは,麦をまぜたほうが、やわしいゆうてようくようた。混ぜてくれぃ、ゆうてようた。
他に米に混ぜるゆうたら、大豆くれいじゃ。

飯は朝たきょうた。朝と晩。昼は,朝炊いたのを。晩は炊いたのと,昼の残りを。
おひつにいれといて。昼は冷や飯じゃ。

”うむし”やこ,した時にゃ、配りょうた。隣やこに。
談・2000/1/9


・・・・・・

「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

米飯
米の飯を都市の庶民が食べるようになるのは江戸時代からである。
一般には、米飯は冠婚葬祭の時であった。

米麦飯
庶民は、昭和20年代までは半麦飯を食べる家は恵まれていたのである。
半麦飯を食べるのは願いであったし、贅沢ともいわれた。
麦飯にするのは南部地方では裸麦であったが、吉備高原では大麦であった。
平麦は昭和初期から第二次大戦後のことである。
平麦はヒシャギ麦などと呼ばれた。

糧飯
少量の米飯とか麦飯の中に、多くの野菜とか山菜とかをいれて塩とか醤油で味付けして食べる。
大根飯、菜飯、栗飯、蜂の子飯、稗飯、粟飯、黍飯、芋飯、豆飯、鮒飯、・・・・。


・・・・・・

中学校の3年生の頃、家はコメの飯になった。
弁当箱を開けても、麦飯が何粒か、見えることは無くなった。



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こうこ・コーコ(沢庵漬)を作る

2022年03月13日 | 農業(農作物・家畜)

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沢庵漬け

コーコ(香香)といい、米糠と塩をまぜたものを、ひなびた大根にふりかけ、
四斗樽につめる。
毎年秋に、
四斗樽にコーコ2~3樽漬けた。
早く食べる分として、大根の浅漬けを一樽、白菜漬けを2~3樽であった。
漬物は主要なおかずであったので、味噌樽なども数えると10樽は並んでいたという。

「吉永町史」 吉永町史刊行委員会編 吉永町  昭和59年発行


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漬物
庶民にとっては極めて重要なおかずであった。
「糠味噌くさい」というが、家伝ともいうべき漬物の味があり、匂いがあっても主婦の腕のみせどころであった。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行


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沢庵漬

笠岡市吉田では秋、畑から抜き取った大根を木にかけて干し、しなびた大根を樽に漬けるのであるが、樽の底に大根をぎっしりつめて並べ,糠と塩をまぜたものをふりかけ、適当に唐辛をむしって入れる。
二段目にまた大根を並べ、糠と塩をまぜたものを、という具合にしながら足で踏みつける。
よく踏みつけておく方がよい。
一番上にはハブサといって大根葉を並べ、その上に板または蓋をして大きな石を置き重石とする。

四斗樽に二・三本漬ける場合が多い。
味噌と違ってコーコはその年漬けた分を食べるのであって、前年のものは古ゴーコといって焚いて食べたりする。

「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行


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捩干し
畑から抜いてきた小さい屑大根を窄るまで稲架または柿の木などに架けておく。
ネジボシとなる。
からからになるまで干す。

大根切干し
主として屑の大根を奇麗に洗って包丁で縦に二つか四つ割にして厚さ一分くらいに横に小さく切って蓆の上で干す。
糸に通して干すこともある。
乾燥した切干は保存しておいて煮つけにしたり雑魚と一緒に煮る。


提灯切り
生大根を俎板の上で、ぐるぐる回しながら包丁で切れ目を入れていく。(笠岡市吉田)
熊山町では大根の両方に棒をあて、これを斜めに切り、再び裏返して斜めに切る。

「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

・・・・・・

ちょうちん切り(大根の提灯切り)

(母の話)
大根切りのいっしゅじゃ。
いっぽん丸ごと切る。
切り干しのことじゃ。

はんぶんはまっすぐに切る。
こんどは斜めに切る。
伸びるんか確かめながら切る。
上手に切らにゃ。

焚いたらおいしいんじゃ。
春先にゃ魚・・サワラやこと・・・といっしょに焚きゃおいしいんじゃ。
大根じゃいちばんおいしいんじゃ。

今頃はひどうするもんがおるめぇ。
賀山(母の実家)にゃああればっかりしょうた。

談・2005.2.5

・・・
(義母の話)

提灯切り(ちょうちんぎり)

春先に筍といっしょに煮物にして食びょうた。
大根を提灯切して竿に干しょうた。
独特の切り方で、
表と裏に二へん切る。
片方は垂直に輪切りして、こんどはひっくり返し半分はななめにして切りょうた。
ほしたら提灯みたいになりょうた。
薄い・厚いがないように包丁がはいっとる。

談・2019年12月22日

・・・・・



「野菜まるごと辞典」 成美堂出版

ダイコン(大根)

干し野菜
野菜を干すと保存性が高まるだけでなく、水分が抜けてうまみが凝縮されます。
味が濃く、歯ごたえもよくなり、
生とは違ったおいしさ。
切ってザルなどに広げ、太陽に干すだけ。
・・
ダイコン
細切りや薄切りで干すと、切干大根に使える。
厚めに切ってセミドライいし、煮物や漬物にしてもOK。

・・
たくあんを作る
 
①ダイコンは洗い、そのまま並べて乾かす。
②③④葉がついたまま2本つづ束ね、風通しがよく、雨がかからない場所に干す。
10日~2週間が目安。
⑤手で曲げて「く」「つ」の字くらいがよい。
⑥柿、ミカン、リンゴの皮をよく乾燥させておく。
⑦ダイコンの葉を切り落とす。
⑧ダイコンを俎板の上でころがし、芯をやわらかくする。
⑨炒りぬか、塩、果実の皮、昆布、トウガラシを器に入れ合わせておく。
⑩容器に⑨を振り、ダイコンを入れる。
隙間なく詰め、中央にはダイコンの葉を入れる。
⑪繰り返す。
最後は残ったダイコンの葉をのせ、中ブタを入れて重石をして冷暗所へ。
重石はダイコンの2倍が目安。
⑫約1ヶ月で漬け上がる。


・・・・・

糟漬け
沢庵が代表である。
暮れになると大根を抜いて洗い,葉の所を6~7本束ねて稲を干すように竿にかけて干す。
寒い風が吹かないと大根がよく乾かないので冬漬けるのが恒例であった。
塩と糠で漬けるのが基本であった。色をよくするため黄粉を入れる家もあった。
四斗樽に何杯も漬けるために、一年中漬物を買うことはなかった。
「金光町史」


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ダイコンを作る

2022年03月13日 | 農業(農作物・家畜)
ダイコン(大根)
日本の冬野菜の代表各


「日本書紀」にも記されて、古くから食されています。
ダイコンの葉には栄養が豊富です。
もっとも多いのが「青首ダイコン」で、
生のまま浅漬やサラダ、大根おろし、おでんや煮込み、など万能に使える。
全国各地に在来種があり、土地ならではの漬物などもあります。

「野菜まるごと辞典」 成美堂出版 2012年発行






大根

秋大根、夏大根、時無し大根などあって、年中生大根を食べることができるが、
大量に利用するのは秋大根である。
冬季期間食べる分は畑に残しておき、必要に応じて抜いてくる。
輪切りにして醤油か味噌で炊いた大根煮や味噌汁にいれる。
保存用としては干し大根、沢庵漬など大量に行う。

「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行


・・・・・
(父の話)

大根

ええかげん大きょうなったら抜いて干しょうた。”浸け大根”にしょうた。
ウチで食べるんと市場へ出すんと両方。

ちょっとやおうなった時、いろうてみて、「おっ、こりゃぁもうしゃあねぃ。」思うたら市場へ出しょうた。
(天日棹のを)降れぇて、そうやって市場へ出しょうた。
大根は生食より漬物が主じゃった。ようけいできても、それしかしょうがねぃ。

「葉っぱ」も半分くらい切って、買う人がおるんで束にして出しょうた。

2002年8月5日


・・・・・

ダイコン

人々は古くから体験的にその栄養と薬効を知っていたのであろう。
ダイコンの料理法の多様さは他の野菜の追随を許さないものがある。
栽培面積も生産高も、わが国の野菜のなかでは群を抜いている。
ダイコンは日本を代表する野菜なのである。
わが国へは中国から渡来し「古事記」に登場している。
ダイコンは品種も多いので、播種期も収穫期もいろいろで、年中栽培することができる。

「岡山の作物文化誌」 臼井英治 岡山文庫 平成18年発行


・・・・・
大根葉
純農家では大根葉は兎や鶏、牛に与える。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

・・・・・・




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プーチン氏は料理を食べたか

2022年03月13日 | 令和元年~
2016年12月、安倍晋三首相(当時)がロシアのプーチン大統領と同じ風呂に入り、
その二人の友好関係でもって歯舞・色丹の2島を返還、という事前の報道があった。
ところが、実際は
遅刻して風呂には入らず、島は返還ならず、
国民として、ずいぶんなめられた思いがした。

このとき既に、プーチン大統領は”暗殺”をずいぶん恐れていたようだ。

・・・・・

「人生の醍醐味」 曽野綾子  産経新聞社  2017年発行
晩餐会---プーチン氏は料理を食べたか

後日の報道で私は、大谷山荘のその夜のメニューも知った。
前菜に蟹の甲羅盛り、御椀は甘鯛に蓮根。
向付はとらふぐの刺身、伊勢海老焼き〆洗い。
焼き物はのど黒、土地の和牛。
揚げ物は鮟鱇の唐揚げと慈姑の素揚げ。以下略。

とにかく心のこもったごちそうであることはよくわかる。
しかし同じ週の「ニューズウィーク日本版」十二月二十日号によると、
バスルームで、生物兵器による危害が加えられる恐れはないか、
エレベーターは安全か。
タオルやシーツや化粧品までロシアから持ってきたものだ。
たとえ国家元首が用意した食材でも、決して口にしない。
それは毒殺を恐れるからである。
「ニュースウィーク」の通りとすれば、
プーチン氏は料理を愛でただけで、ほとんど一口も食べなかったのだろう。


・・・・

本の信憑性はおいても、非常に怖がったり、人を信用しないのは本当のように思われる。

ソ連は第二次大戦後、東西の二大大国だったが、ソ連崩壊後大国の矜持が無くなった。
まさか21世紀の世界で、隣国を侵攻するようなことが起こるとは思っていなかった。
世界中にロシアの侵攻は、歴史の汚点として残りそうだ。



(ロシア軍が2022年2月24日、ウクライナへ侵攻。画像はCNNより)



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リンゴを作る

2022年03月13日 | 農業(農作物・家畜)
子供の頃、母に「皇太子(現・上皇)はどんなものをオヤツに食べとるんじゃろう?」、と聞くと
「リンゴやこじゃろうかな」という返事だった。
その当時、わが家にオヤツはなかった。
要るのなら芋でも食べておけ、という感じでふかし芋が常に戸棚の中にあった。

リンゴは都会の上流家庭で食べる物と、その頃は思っていたが
同じようにバナナもリンゴも今では庶民の食べものになった。

茂平でリンゴが栽培されていたとは知らなかった。
母の話にリンゴがでたことはないので、少量だったのか、早く見切りをつけたのだろう。

・・・・
(父の話)

りんご

リンゴはウチ等にも植えとったがエエことは無ぇ。
売りょうたけど,相場が良くねぇし、病気はくるし。

ウチにはうつろの畑に植えとった。
”青い”リンゴじゃ。大きさは普通。

赤い大きいのは出来なんだ、やっぱり温度の関係じゃろう。寒いところのほうがええんじゃろう。
作ってみたけど、味も落ちるしの。いけなんだ。

2002年8月5日


・・・

・・・

リンゴは秋にすずしいほうが果実の色づきがよく、
冬の寒さに特に強いので、青森県や長野県などの寒い所で、ひろく栽培されています。
秋から冬に収穫しますが、日もちがよいので一年中出回ります。

「野菜と果実」  小学館 2013年発行


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サツマイモを作る

2022年03月12日 | 農業(農作物・家畜)
笠岡市役所の敷地内に長く「芋博物館」があった。
その当時、日本で唯一か世界で一つの「イモ博物館」と呼ばれていた。

江戸時代は飢饉時の主食になり、
戦中戦後の配給時代は、町の人の主食となった。
管理人にとっては、いちばんよく食べたオヤツとなった。

・・・



・・・

「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行
薩摩芋
サツマイモ、イモ、琉球芋、カライモなどと呼んでいる。
笠岡代官所の井戸平左衛門は薩摩から薩摩芋を取り寄せて普及に努めた。
笠岡市には芋博物館があった。



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サツマイモ(薩摩芋・甘藷)
原産地・メキシコ、ガテマラ
アメリカからヨーロッパに渡り、
日本には中国から宮古島に渡ったのが始まり。
九州南部で栽培され「薩摩の芋」として全国に定着した。

「野菜まるごと辞典」 成美堂出版 2012年発行

・・・・・
サツマ芋
サツマ芋・イモ・琉球芋・カラ芋・唐人芋などと呼んでいる。
笠岡代官所の井戸平左衛門は薩摩からサツマ芋を取り寄せて普及し、その遺徳は芋代官と呼ばれた。
荒地、開墾地もけっこう育ち、豊凶が少なく、税の対象にもならなかった。
熱帯作物で腐りやすいので、いも壷を床下に大きな竪穴を掘り小麦藁を立て,底にはスクモを敷きサツマ芋を並べ、そのまた上にスクモを入れていた。
こうして年中食べる分を入れておいた。

「岡山県史・民族Ⅰ」 昭和58年 山陽新聞社出版


・・・・・

(父の話)
芋つぼ

家の床の下に「芋つぼ」を大きく掘り、甘藷を収穫したらそこに貯蔵していた。
昔は何処の家とも芋つぼをもっとった。
ウチにも前の家にゃ、玄関はいってすぐのとこ。
コノ家にゃ、ココにある。
してない家がなかった。

2001年10月7日

芋が腐らんけい。もつんじゃ。(長持ちをする)
外へころがしとくと、じきに腐るんじゃ。
ほれで春になりゃあ売りょうたんじゃ。
自分方だけじゃったらあわんな大きな穴を掘らんでええ。

みんなよけい(たくさん)植えんようになってのう、あほらしぃ。
今頃は自家用だけに、ちいちっとなったのう。余ったのを売るくれいじゃ。
春になったら市場へだしょうた。
2002年3月31日


・・・・・

(終戦後の)買い出し

茂平にも買出しに来ていた。
物物交換でもってくるのは衣類がほとんどであった。
こっちは、米麦、芋、なんば、なんきんなどを渡していた。
米はこっちの分も無いので渡す事は無かった。
芋が主であった。

2000年08月20日
・・

唐臼(からうす)

何処の家にもあった。ぜっぴあった。
あれで米を搗きょうた。
雨が降りさえすりゃあ米搗きをやりょうた。
芋を干して粉にして。芋団子もおいしかった。終戦後だいぶしょうた。食べもんがなかった。

(母の話)
いっとき戦時中に芋きりをこしらようた。
そりょを粉にして団子にする時に。そりょを唐臼で搗きょうた。
2001年10月7日


・・・・・

・・・・

戦時中は「決戦食」
・・

決戦下「野草も食糧に」

国内の食糧事情は窮迫していた。
主食の米はまず軍需食糧として確保される。
台所では米に変わり、サツマイモ、ジャガイモ、雑穀が主食に昇格する。

「ふるさとの戦争」  青木 暢之  中国新聞 1995年発行

・・
戦時中の食生活
日中戦争が始まり、食べものが不足し、配給制度ができた。
金光町のほとんどが農家であったので、十分とはいえないが食べるぐらいのものはり、保有米を残して、あとはすべて供出した。

サツマイモ、ジャガイモ、南瓜も主食代わりになった。
農家では自家栽培ができたので有利であった。
サツマイモはたくさんゆでておき、ご飯代わりに食べた。

「金光町史」


・・・・・・


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ウサギを飼う・ヤギを飼う

2022年03月12日 | 農業(農作物・家畜)
茂平の水門から波止の土手にかけて、ヤギを繋いで草を食べさしている家が何軒かあった。
家にヤギは飼っていなかったが、裏の〇〇さん方から、「今日はよく出た」と言って持ってきてくれることがあり、楽しみだった。

ウサギは小学生の時、一度飼っていた。丸々と大きく育ってから売った。
300円か500円で売った。
その頃、少年雑誌の「漫画王」とか「少年」が50円か60円くらいで、子どもにとっては大金だった。

父の話は戦前のことと思える。

・・・・・




ウサギ

自家で肉を消費するため、ほとんどの家は小屋を作って、あるいは縁側の下に飼育場所を作ってウサギを飼っていた。
飼養羽数はおおむね五羽程度、自家繁殖させるため雄雌の両方を含むのが一般的であった。
ウサギには屑米や屑大豆をエサとして与え、肉が必要になると屠殺した。

戦時中は、軍人の首巻の原料とするためのウサギの飼育が奨励された。
役場に乾燥させたウサギの皮を供出していた。

「岡山県中央町誌(民俗編)」


・・・・・・

(父の話)
ウサギも飼ようた。
羽根を売るんが目的じゃが、殺して、よう食べょうた。

2000・9・10


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ヤギ

戦前戦後、一定数の飼養頭数がみられる。
ヤギは、主に乳を利用するための飼育であった。
牛乳よりも人間の乳に成分が近いことから、成人の飲用はもとより、母乳代わりとしてヤギの乳を乳児に与えることも一般的であった。

「岡山県中央町誌(民俗編)」


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(父の話)
ヤギ

骨がおれるんじゃ。
草ぁやるんが。
乳がちぃとでるんじゃが、あんまり出んけいのう。
飼うてみたけど止めた。
めんどくせい。ウチへ繋いで、草を刈ってきて食わしょうた。
ようが無いときゃ土手へ連れていって勝手に食わしょうた。
乳も草くせいし。

2001・2・11


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豚を飼う

2022年03月12日 | 農業(農作物・家畜)
子供の頃、家では豚を飼っていた。
しかしすぐに
羊に変わった。

その羊も1年くらい飼って止めた。
ブタも羊も、父の言う「国がつくれと言って、儲かったもんはねえ」
に当てはまるもののようだ。


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物語・食の文化」  北岡正三郎 中公新書 2011年発行

豚肉
食用だけ

ブタは乳を与えず、毛の利用もなく、労役や運搬の役にも立たず、
ひたすら食用の為に飼育されてきた。
非常な雑食性でごみや残飯をあさって飼われた。
ブタの利点は食肉生産の高い効率で、
植物性の餌を肉に変える速度と効率はすべての家畜の中で最大である。
餌に含まれるエネルギーの35%を肉に換える。

第二次世界大戦後は都市近郊での残飯による養豚を経て地方での大量飼育が始まった。
価格が安く牛肉の代替材料になるほか、トンカツや、ハム・ソーセージなどの加工品も戦後大きく消費が伸びた。
さらに中華料理の普及とあいまって、現在牛肉の消費量のほぼ2倍半になっている。



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一回の出産で約10頭の子豚を生む。
繁殖豚の場合は3年間で6産を目安に役目を終える。
豚はきれい好きでデリケートな動物。
そのため、養豚家は豚舎を清潔に保ち、温度設定やエサにも注意を払いながら飼育を行う。
生後6ヶ月で肥育豚(110kg)になり出荷する。

「最新日本の農業図鑑」 八木宏典 ナツメ社 2021年発行

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明治以後各地で普及した。
トンカツにキャベツをそえて食べるようになるのは昭和7~8年以後のことであり、
キャベツは明治以降普及した野菜である。
「岡山の食風俗」 鶴藤鹿忠 岡山文庫   昭和52年発行

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羊(ひつじ)を飼う

2022年03月12日 | 農業(農作物・家畜)
羊を二年間ほど飼育していた。三年とはつづいてない。二匹か一匹、多分一匹。
家の裏に子屋をつくり飼っていた。おおきなバリカンで毛を刈取っていた。
父は補助で、専門家がしていた。
飼っていた羊は死んだ。羊の肉を食べた。隣近所に分けても更にその量は多かった。
乏しい時代ではあったが、その肉はまずいもので、無くなるまで来る日も来る日も羊の肉を食べた。昭和32年前後の事。

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(父の話)

終戦後、国の政策でもあり飼うた。
肉は臭かった。

肉はまだ鯨のほうがよかった。鯨は刺身にもなるが、羊はくさい。
馬のほうがまだよい。

2000・1・9

(母の話)

一匹飼ようた。
毛糸を取るためじゃった。毛糸がなかなか無かったけぇ。
刈るのは一年に一回しかできょうらなんだ。

2001年6月17日





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「岡山県中央町誌(民俗編)」

ヒツジ

戦後、衣料品の自給・増産を目的としてその飼養の普及を推進した。
昭和35年がピーク。
毛羊に関しては畜連が各農協を回って毛刈を実施し、それを農協が袋詰めにしてニチメンやトウメン等の加工場へと送った。
最盛期の羊毛価格は一頭当たり1万円程度と非常に高値であったが、昭和30年代半ばに急速に値下がりし、
衣料状況も改善したことから同時期を境としてヒツジの飼養は減少していった。

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