ARETHA FRANKLIN / RARE & UNRELEASED RECORDINGS FROM THE GOLDEN REIGN OF THE QUEEN OF SOUL
08年8月15日、アトランティック・レコードの中心人物の一人として一時代を築いたジェリー・ウェクスラーが、米フロリダ州の自宅で心疾患のため亡くなられたそうです。享年91歳。
ニューヨークで生まれ育ち、早くから黒人音楽に魅せられていたウェクスラーは、ビルボード誌のライターをやっていた時代、“レイス・レコード”という差別的な呼び方をされていた黒人音楽に対し、新たに“R&B”という呼び名を生み出しました。そう、今私達が普通に使っている“R&B”とういう言葉の生みの親が、実はこの人なのです。
そして53年にアトランティック・レコードへ入社。アトランティックは47年にアーメット・アーティガンとハーブ・エイブラムスンの二人が立ち上げたレーベルで、この二人の共同経営者の一人、エイブラムスンが徴兵された穴埋めにウェクスラーが招かれたそうです。いきなり重要ポストへの就任って感じですが、これがウェクスラーにとって運命の転職となるわけですし、この人事にはアーメットのウェクスラーに対する期待感と同時に、この当時まだアトランティックが小さなインディ・レーベルに過ぎなかったことが伺い知れます。
50年代のアトランティックはジャズにも力を入れていましたが、何と言ってもレイ・チャールズでしょう。レイ・チャールズがアトランティックを一つの軌道に乗せたといっても過言ではないと思います。他にもルース・ブラウンやジョー・ターナーなども居ましたし、ウェクスラーも嬉々として仕事に励んだことでしょう。しかし59年にレイ・チャールズがCBSに移籍。これはアトランティックにとって大打撃だったと思われます。しかしここからがウェクスラーの真骨頂な訳です。
07年3月号レコード・コレクターズ誌のアトランティック特集において、この後の生き残りを賭けた経営について『メインストリーム志向(白人ロック)のアーメットとダウンホーム志向(黒人R&B)のウェクスラー』と評されたごとく、60年代のアトランティックはこの2大路線を突き進んでいくわけですが、このダウンホーム志向を振り返れば、それは南部サウンド歴訪の旅と言えるものなのです!
アトランティックは61年にスタックス・レコードと配給契約を結びますが、そのもそもの始まりは、ウェクスラーがカーラ・トーマスの歌声を聴いたことからだったとか。カーラの1曲からスタックスとの契約にまで話しが進む辺りはどこかドラマッチックですし、ウェクスラーの音楽及び仕事に対する計り知れない情熱を感じます。そしてここからオーティス・レディング、サム&デイヴ、エディ・フロイドなど、珠玉の南部ソウルがリリースされていく訳です。さらにウェクスラーはウィルソン・ピケットなどアトランティックのアーティストをメンフィスに送り、スタックスのスタジオで録音させヒット作を作るという、ある種の“型”を作り上げます。
66年にウェクスラーは、コロンビアが手放したアレサ・フランクリンを獲得します。コロンビアでは成功を掴めなかったアレサでしたが、そのゴスペル仕込みの歌唱方はウェクスラーの南部ソウル路線にぴったりとはまり、一躍トップ・シンガーへと駆け登ります。そしてこの時、スタックスに変わってウェクスラーが目をつけたのはメンフィスはマスル・ショールズのフェイム・スタジオでした。
スタックスの次はマスル・ショールズですよ! 彼のおかげで南部ソウルは全国区になり、さらに日本にいる私のようなものの耳にまで届いたと言っても過言ではないでしょう。オーティスやアレサの素晴らしい歌声はもちろん、スタックスのブッカー・T&ザ・MG’Sや、マスル・ショールズのロジャー・ホーキンスにデヴィッド・フッドと言った地元のミュージシャン達。そしてマイアミのクライテリア・スタジオも然り。我々がこれら南部サウンドに酔いしれることが出来るのも、ウェクスラー様々な訳です。
さて、先ほどアトランティックについて『白人ロックvs黒人R&B』的なニュアンスの表現をさせて頂きましたがが、その黒人R&B志向のウェクスラーも南部派の白人ロックには愛着を持っていたようです。
98年8月号レコード・コレクターズ誌のスワンプ・ロック特集では、ウェクスラーが売り出したロニー・ホーキンスやデラニー&ボニーを引き合いに出し、スワンプ・ロックの成り立ちについて、『「スワンプ・ロック」という言葉を生み出し、その名のもと、ある種のスタイルを持った音楽の売込みをはかったのは、ジェリー・ウェクスラーだった。』と論じられています。
アトランティックからはデラボニやドミノスはもちろん、ドニー・フリッツやロジャー・ティリソン、ジェシ・エド・デイヴィスなど数々のスワンプ・ロックの名盤がリリースされています。どれもこれも私の琴線を刺激しまくる名盤達です。そしてそれらにジェリー・ウェクスラーの趣向と愛着を感じぜずにいられないのです。
また、ウェクスラーはスワンプ以外にもダグ・サームの「DOUG SAHM & BAND」やドクター・ジョンの「GUMBO」、さらにウィリー・ネルソンのマスル・ショールズ録音「PHASES AND STAGES」なんかも手がけていますから、ホント凄い人です。
さて、アトランティックというインディー・レーベルは67年にワーナー傘下へ入りますが、これを提案したのは以外にもウェクスラーだったそうです。音楽業界が巨大になるにつれ、インディ・レーベルが生き残っていくための手段として苦渋の選択だったと思われます。もちろんその決断には賛否両論あると思います。でもアトランティックは生き残りましたからね。そしてウェクスラーは75年にアトランティックを去ります。そしてアトランティックがアトランティックらしかった時代も幕を下ろすことになります。
02年にエンジニアのトム・ダウド、06年にプロデューサーのアリフ・マーディンと創設者アーメット・アーティガン、そして今年、ジェリー・ウェクスラー。近年、アトランティックの黄金時代を築き上げた立役者達が次々と亡くなられてしまいました。あの時代のアトランティックの音楽が大好きな私にとっては寂しい限りですが、こればっかりは仕方が無いですね。
ジェリー・ウェクスラーさん、安らかに。
写真は昨年発売されたアレサ・フランクリンの究極レア音源2枚組アルバム。このアルバムにはメチャクチャ興奮させられました。そしてこれを編纂したのがジェリー・ウェクスラー。まさに晩年の大仕事! また愛情溢れるライナーも執筆しているそうなのですが、英語がダメな私が買ったのは輸入盤なので残念ながら読めてません…。
08年8月15日、アトランティック・レコードの中心人物の一人として一時代を築いたジェリー・ウェクスラーが、米フロリダ州の自宅で心疾患のため亡くなられたそうです。享年91歳。
ニューヨークで生まれ育ち、早くから黒人音楽に魅せられていたウェクスラーは、ビルボード誌のライターをやっていた時代、“レイス・レコード”という差別的な呼び方をされていた黒人音楽に対し、新たに“R&B”という呼び名を生み出しました。そう、今私達が普通に使っている“R&B”とういう言葉の生みの親が、実はこの人なのです。
そして53年にアトランティック・レコードへ入社。アトランティックは47年にアーメット・アーティガンとハーブ・エイブラムスンの二人が立ち上げたレーベルで、この二人の共同経営者の一人、エイブラムスンが徴兵された穴埋めにウェクスラーが招かれたそうです。いきなり重要ポストへの就任って感じですが、これがウェクスラーにとって運命の転職となるわけですし、この人事にはアーメットのウェクスラーに対する期待感と同時に、この当時まだアトランティックが小さなインディ・レーベルに過ぎなかったことが伺い知れます。
50年代のアトランティックはジャズにも力を入れていましたが、何と言ってもレイ・チャールズでしょう。レイ・チャールズがアトランティックを一つの軌道に乗せたといっても過言ではないと思います。他にもルース・ブラウンやジョー・ターナーなども居ましたし、ウェクスラーも嬉々として仕事に励んだことでしょう。しかし59年にレイ・チャールズがCBSに移籍。これはアトランティックにとって大打撃だったと思われます。しかしここからがウェクスラーの真骨頂な訳です。
07年3月号レコード・コレクターズ誌のアトランティック特集において、この後の生き残りを賭けた経営について『メインストリーム志向(白人ロック)のアーメットとダウンホーム志向(黒人R&B)のウェクスラー』と評されたごとく、60年代のアトランティックはこの2大路線を突き進んでいくわけですが、このダウンホーム志向を振り返れば、それは南部サウンド歴訪の旅と言えるものなのです!
アトランティックは61年にスタックス・レコードと配給契約を結びますが、そのもそもの始まりは、ウェクスラーがカーラ・トーマスの歌声を聴いたことからだったとか。カーラの1曲からスタックスとの契約にまで話しが進む辺りはどこかドラマッチックですし、ウェクスラーの音楽及び仕事に対する計り知れない情熱を感じます。そしてここからオーティス・レディング、サム&デイヴ、エディ・フロイドなど、珠玉の南部ソウルがリリースされていく訳です。さらにウェクスラーはウィルソン・ピケットなどアトランティックのアーティストをメンフィスに送り、スタックスのスタジオで録音させヒット作を作るという、ある種の“型”を作り上げます。
66年にウェクスラーは、コロンビアが手放したアレサ・フランクリンを獲得します。コロンビアでは成功を掴めなかったアレサでしたが、そのゴスペル仕込みの歌唱方はウェクスラーの南部ソウル路線にぴったりとはまり、一躍トップ・シンガーへと駆け登ります。そしてこの時、スタックスに変わってウェクスラーが目をつけたのはメンフィスはマスル・ショールズのフェイム・スタジオでした。
スタックスの次はマスル・ショールズですよ! 彼のおかげで南部ソウルは全国区になり、さらに日本にいる私のようなものの耳にまで届いたと言っても過言ではないでしょう。オーティスやアレサの素晴らしい歌声はもちろん、スタックスのブッカー・T&ザ・MG’Sや、マスル・ショールズのロジャー・ホーキンスにデヴィッド・フッドと言った地元のミュージシャン達。そしてマイアミのクライテリア・スタジオも然り。我々がこれら南部サウンドに酔いしれることが出来るのも、ウェクスラー様々な訳です。
さて、先ほどアトランティックについて『白人ロックvs黒人R&B』的なニュアンスの表現をさせて頂きましたがが、その黒人R&B志向のウェクスラーも南部派の白人ロックには愛着を持っていたようです。
98年8月号レコード・コレクターズ誌のスワンプ・ロック特集では、ウェクスラーが売り出したロニー・ホーキンスやデラニー&ボニーを引き合いに出し、スワンプ・ロックの成り立ちについて、『「スワンプ・ロック」という言葉を生み出し、その名のもと、ある種のスタイルを持った音楽の売込みをはかったのは、ジェリー・ウェクスラーだった。』と論じられています。
アトランティックからはデラボニやドミノスはもちろん、ドニー・フリッツやロジャー・ティリソン、ジェシ・エド・デイヴィスなど数々のスワンプ・ロックの名盤がリリースされています。どれもこれも私の琴線を刺激しまくる名盤達です。そしてそれらにジェリー・ウェクスラーの趣向と愛着を感じぜずにいられないのです。
また、ウェクスラーはスワンプ以外にもダグ・サームの「DOUG SAHM & BAND」やドクター・ジョンの「GUMBO」、さらにウィリー・ネルソンのマスル・ショールズ録音「PHASES AND STAGES」なんかも手がけていますから、ホント凄い人です。
さて、アトランティックというインディー・レーベルは67年にワーナー傘下へ入りますが、これを提案したのは以外にもウェクスラーだったそうです。音楽業界が巨大になるにつれ、インディ・レーベルが生き残っていくための手段として苦渋の選択だったと思われます。もちろんその決断には賛否両論あると思います。でもアトランティックは生き残りましたからね。そしてウェクスラーは75年にアトランティックを去ります。そしてアトランティックがアトランティックらしかった時代も幕を下ろすことになります。
02年にエンジニアのトム・ダウド、06年にプロデューサーのアリフ・マーディンと創設者アーメット・アーティガン、そして今年、ジェリー・ウェクスラー。近年、アトランティックの黄金時代を築き上げた立役者達が次々と亡くなられてしまいました。あの時代のアトランティックの音楽が大好きな私にとっては寂しい限りですが、こればっかりは仕方が無いですね。
ジェリー・ウェクスラーさん、安らかに。
写真は昨年発売されたアレサ・フランクリンの究極レア音源2枚組アルバム。このアルバムにはメチャクチャ興奮させられました。そしてこれを編纂したのがジェリー・ウェクスラー。まさに晩年の大仕事! また愛情溢れるライナーも執筆しているそうなのですが、英語がダメな私が買ったのは輸入盤なので残念ながら読めてません…。