徒然地獄編集日記OVER DRIVE

起こることはすべて起こる。/ただし、かならずしも発生順に起こるとは限らない。(ダグラス・アダムス『ほとんど無害』)

最強の記憶

2007-10-16 20:05:50 | SHIMIZU S-Pulse/清水エスパルス06~10
現在、清水で生え抜きのテル、イチと他クラブを経由して静岡へ戻ってきた久保山のように、「強い清水」という物語を知る現役プレーヤーは数少ない。
そして健太が監督に就任してから呼び戻したのが山西であり、西澤だった。
健太は「強い清水」という物語を復活させるために、その記憶を持つ彼ら二人を再び清水に呼び戻した、と言える。物語という言葉は、健太のいう「優勝のための空気作り」と言い替えてもいい。だからこそ山西、西澤の存在はプレーヤーとしてだけではなく、健太の強いメッセージとして読み取ることができる。

J黎明期にはもはや物語ですらなかった浦和には、サポーターレベルで、一から物語を紡ぐことができる幸運があった。またそこには吉沢康一という優れたアジテーターが現れたのも、浦和の幸運だった。吉沢たちCCが熱狂的に叫んだ「サッカーのまち浦和」という“幻想”は、「かつて強かった浦和」という巨大な欠落感を埋めていく。
欠落感が大きければ大きいほど、幻想は人を熱狂させる。
そして99年のJ2降格によって、幻想を超えたリアルの物語が始まる。他クラブが為し得なかった本当にサポーターレベルで紡ぎ始めた浦和の物語の始まりである。浦和サポーターが傲慢で、挑発的で、好戦的で、そして最強という理由はここにある。赤い人たちはそもそも性根が違うのだ。かつて吉沢さんは「エスパルスも一度J2に落ちてみた方がいいっすよ、ホント違うから」と言ったが、そこには「オレたちがクラブを育てた」という強烈な自負があった。それは当然だと思う。
しかしJ2降格は御免蒙る。

その年、99年は清水こそが最強だった。しかし、あの年がそれまでリアルで「サッカーのまち」だった清水の終わり始まりだったのかもしれない。前年、98年の小野世代をピークに静岡のユース世代はすっかり勢いを失っていく。
もちろん何をもって「サッカーのまち」と呼ぶのかは議論の余地があるところではある。以前、某在京クラブのサポーターのエライ人が「サッカーどころって言っても、所詮高校サッカーが強いだけじゃん」みたいなことを書いていたが、それまで日本の地域スポーツの中心というのは、ほとんどが高校・ユース世代のスポーツで成立していたのだから、こればかりは後からぐだぐだ言っても仕方がない。静岡(清水・藤枝)はサッカーのまちだったのである。
しかし、とにかく、「強い清水(静岡)」の物語と記憶はそこで途絶えてしまう。
今や静岡の人間にとってもサッカーはそれほど大事な存在ではなくなりつつあるのかもしれない(ドリスタの街頭インタビューを観ると絶望的な気分になる)。
2000年以降、それまで幻想を必要としなかったリアルの町で、エスパルスは混迷の時代を迎える。
そして現在、浦和は高校スポーツではなくプロクラブによってサッカーのまちを象徴するようになった。確かに、もはや高校スポーツが地域スポーツを代表する、と楽天的に考えられる時代ではなくなっている。

就任会見で「3R」と宣言した健太だが、要するにテーマはすべて「清水の復活」だったはずだ。
復活のために壊し、復活のために「あの清水」を知るプレーヤーを呼ぶ。
強化部長の「獲って獲って獲りまくる」の言葉通り、他クラブに追随を許さない勢いで新人を新加入させる。さすがに資金はあまりないので即効力のある外国人はなかなか獲れなかったが、しかし今考えればそれは正解だったといえる。浦和のように豊富な資金力で継続して補強ができなければ、それが途切れた場合の反動は大きい。
清水が唯一持っている豊富な人的財産をフル活用するのは当然だろう。そしてようやく、ここまでやって来た。少なくともあと2年、健太は清水復活のために旗を振り続ける。

そもそも長谷川健太という男が、小学生から高校、社会人、そしてエスパルスを通して「強い清水」、PRIDE OF SHIMIZUを象徴してきた男なのだ。(この項、一ヵ月後に続く)